2 4., 2No夏. 2 T & C U L T U RV E K O R E A N韓国の芸術と文化 A Rの芸術と文化 o l . 1Vo 7 ,l .No 号 Su 2 0m 1 0m e r
2009
朝鮮戦争- あれから60年 ISSN 1225-4592
韓国の美
ヨルセペ (鍵牌)
© Lock Museum
ルセペ(鍵牌、キーホルダー)はもともと鍵の束を身
した形態をしている。朝鮮王朝を象徴する五弁花の李花の形
につけて持ち歩くのに使われた道具だ。しかしその
に、左側には悪鬼を追い出すという処容の面が、右端には太
後、その用途を超えて装飾性を高めた金属工芸品と
平盛代を表す想像上の聖獣、白澤が控えている。また下方に
して発展した。ヨルセペの本体は別銭だ。別銭は市場などで
は多産を意味する8個の蓮の実と天桃の形のひょうたんが2
使用される普通の貨幣とは性格の異なる記念貨幣のことで、
つ付いている。半分に割れたひょうたんは二つが合わさり一
長寿、健康など幸運を祈願する絵や文字を入れて作られた。
つになるという夫婦円満を象徴している。また別銭1個を連
その他、別銭を色糸で繋げたり、玉やメデウプ(組紐)などの
結用として、その下にキセルにこびりついたタバコのヤニを
装飾をほどこしてさらに華やかにしたものもある。上流社会
掻き出す道具のタバコ針が装飾としてついている。紅色と赤
ではペムル(装身具)や愛蔵品としても所蔵され、特に嫁ぐ娘
紫色の絹糸束の付け根には珊瑚珠がついている。韓国の昔の
の結納函に、福や財物が「たくさん掛かるように」という祈り
チャムルセ(鍵)とピッチャン(カンヌキ)、ヨルセペ(鍵牌)
を込めてヨルセペを入れて贈る伝統があった。一方、ヨルセ
を収集・保存・研究しているセッテ博物館(www.lockmuseum.
ペの中には別銭の代わりに刺繍をほどこした絹布やいぐさを
org 崔家鐵物店)の所蔵品だ。
ヨ
編んで使ったものもある。
装飾性が強調されたこのような大型の別銭は李花型以
ここに紹介するヨルセペは李花型 (スモモの形)の黄銅
外に巾着型も多い。また華やかに彩色された別銭も数多く見
の別銭の真ん中に寿の字が、その両横には双子の童子が彫ら
つかっている。独特な意味をもつ大型別銭がヨルセペという
れた朝鮮時代の婚礼用のヨルセペだ。数十個の別銭をつなげ
工芸様式を通して朝鮮時代の風俗と文化を内包し、今日まで
て作られた普通のヨルセペと比べると、相対的に奥ゆかしい
伝わっているのだ。
美しさが際立つ作品だ。しかし別銭自体は非常に複雑で進化
韓国の芸術と文化
Vol.17, No.2 夏号 2010
世界平和と自由のために命を捧げた国連 軍の戦没将兵が眠る釜山広域市UN記念公園 。朝鮮戦争直後の1954年には21カ国の国連 軍の戦死者約11,000名の遺骸が埋葬されて いたが、多くの遺骸は家族の希望により 祖国へと改葬され、現在、11カ国2,300体 の遺骸がこの場所に眠っている。
6
16
28
©ⓒ 宋奉根
44
朝鮮戦争-あれから60年 8 朝鮮戦争と社会変動 韓敬九 16 韓国人の心に刻まれた朝鮮戦争のトラウマ 韓明煕
50
22 戦後の韓国の成長 朴泰均 28 韓国の非武装地帯 崔秉寛
70
34 文学作品の中の朝鮮戦争 金治洙 40 世界の中の韓国 李泰周
84
44 インタビュー キム・ヨナ 世界のトップに立ったフィギュアスケート選手、キム・ヨナ
| 金東昱
50 巨匠 趙忠翼 美しい風を作る扇子匠、趙忠翼 | 朴炫淑 56 文化イベント・レビュー 悲運の作家の真価を明らかにした「グォン・ジンギュ展」| 金伊順 62 韓国再発見 沈 韓国への情熱-三国時代から現在まで | 李エリザベス・シャバノル 66 世界の中の韓国人 沈載斗、柳昭年 沈載斗夫妻のアルバニア医療活動17年の歴史
| 金玟娥
70 オン・ザ・ロード 統一の日を待ち侘びる島々 | 金熒允
発行 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル Tel : 82-2-2151-6544 Fax : 82-2-2151-6592 www.kf.or.kr 発行人 金炳局 編韓理事 韓榮熙 編集長 金鍾徳 編集諮問委員 金文煥,金英那,金華榮,鄭重憲 趙性澤,韓敬九,韓明熙 広告 CNC Boom Co,. Ltd ソウル市江南区大峙洞1008-1. タワークリスタルビル Tel : 82-2-512-8928 Fax : 82-2-512-8676 編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞398ー1 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798
78 料理 コンクッス-夏に味わう栄養満点の冷たい麺料理 | 李鐘任 82 遠くの目 「本」から見える日韓関係 | 本田 修 84 暮らし ソウル城郭-都心に息づく歴史 89
韓国文学の旅
朴婉緒
女たちの朝鮮戦争 空港で会った人
| 朴恵涇
| 翻訳 金明順
Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr
| 那秀昊
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破壊された漢江鉄橋。北朝鮮軍の南侵を阻止するため、韓国政 府としては苦渋の選択であった。今日、漢江には再建した漢江 鉄橋を含め、27の橋が建設されている。
© ヌンピッ出版社
朝鮮戦争-あれから60年 Koreana | 夏号 2010
朝鮮戦争は1950年6月25日北朝鮮による南侵に始まり、1953年7月の停戦協定に至るまで3年余り続いた戦争を意味 する。日本帝国主義から解放されてから5年目、そして外国の勢力により南北に分断され、二つの政府が成立し3 年目に勃発したこの戦争は韓国社会を根こそぎ揺るがした。あれから60年、韓国は、G20の代表議長国としてソウ ルで首脳会議を開催、地球が抱える共同の問題を解決する中心にいる。 夏号 2010 | Koreana
朝鮮戦争と社会変動 朝鮮戦争以降、二つの世代が誕生し、もはや戦争を経験していない世代が韓国の中枢の役割を 担っている。しかし、依然変わらず韓国は地球上の唯一の分断国家として北朝鮮と対峙中であ り、韓国人にとって朝鮮戦争は「終わっていない戦争」である。戦後60年、戦争が韓国人の思考 方式と生き方に及ぼした影響を振り返ってみる。 ハン・キョング (韓敬九、文化人類学者、ソウル大学校自由専攻学部教授) 写真 : 金容喆、安洪范
ソウル龍山区龍山洞にある戦争記念館。戦 争に関する事跡と事件を記念するため、1991 年に着工し1994年6月に開館した。 Koreana | 夏号 2010
朝
鮮戦争は国際政治的に大きな事件であったが、韓国社会に及ぼし た社会文化的影響も非常に大きかった。1945年に日本帝国主義
の植民地支配から解放されたことも大きな事件であり、1948年の大韓 民国政府樹立も重要だが、1950年に始まり1953年の休戦協定により、 ひとまず戦闘行動が終了した朝鮮戦争は、その過程は言うに及ばず、 それ以降の韓国人の行動パターンと思考方式、価値観、そして韓国社 会の発展の方向を規定するほどに重要な事件であった。
朝鮮戦争の概括 朝鮮戦争は1950年6月25日未明4時、北朝鮮軍の全面的南侵作戦 による奇襲攻撃から始まった。装備と訓練の面において圧倒的に劣勢 に置かれていた韓国軍は後退を繰り返し、国連軍の参戦にもかかわ らず北朝鮮軍は、一時、慶尚道の一部を残して朝鮮半島のほぼ 全体を占領し、武力統一を目前にしたように思えた。しかし、 国連軍は仁川上陸に成功しソウルを奪還した後、北進を続 け平壌を占領、鴨緑江沿いに到達した。しかし、中国の 参戦により再びソウルを奪われたが、反撃を開始しソウ ルを再奪回、最終的には休戦ライン付近で熾烈な戦闘 が続いたが、 1953年7月に休戦が成立した。 朝鮮戦争により朝鮮半島のほぼ全地域で戦 争の惨禍をこうむった。朝鮮半島を南北に縦断す る戦線、とてつもない人命被害、そして物理的な 基盤の破壊は韓国社会に大きな衝撃を与えた。社 会的・階層的移動が大規模に発生し、分断の固着 化と戦争復旧の過程で新しい社会的・物理的基 盤が形成された。伝統的な人間関係と価値観が 急速に解体し崩壊するなかで急激な近代化が進
Summer 2010 | Koreana
1 © ヌンピッ出版社
み、新しい価値観が登場し、都市化と産業化が促進された。
政府は、大言を吐いておきながら慌てるようにソウルを放棄
殊に、残酷な殺傷と破壊、極貧と飢え、一家離散とイデオロ
したため、混乱は特にひどかった。いずれにせよ避難するこ
ギーの葛藤を経験するなかで、経済発展と貧困の克服に対す
とができなかった人々の相当数が虐殺、投獄、拷問、北朝鮮
る熱望、戦争と共産主義に対する恐怖が拡散され、平和と安
への拉致などの辛苦をなめ、生き残った人たちも「反逆に加
全、そして教育と文化を渇望するようになった。
担した者」という嫌疑をかけられ社会生活で莫大な支障をき
一方、国連軍の介入は、韓国にとって多大な文化的衝
たした。1980年代まで重要とされた、いわゆる「身元照会」
撃を経験する契機となった。特に、アメリカによる大規模で
は一種の連座制として作用し、多くの人々が公職に就くのを
積極的な介入の結果、戦争期間中、そして戦後の韓国社会に
妨げられた。
おいて、圧倒的に重要な他者(the Other)となった。アメリカ
朝鮮戦争は戦線が二度も崩壊した戦争であった。中国
の軍事的・人道的支援、科学技術と物理的な豊かさ、民主主
軍の介入により再びソウルからの後退を余儀なくされると、
義の価値や文化的な魅力、あまりにも大きな量的・質的差異
今度は多くの人々が陸・海路を大挙して南方へと避難した。
は以来、韓国人の対米認識に決定的な影響を及ぼすことと
その結果、人口たかだか40万人であった釜山は100万人を越
なった。
える人々でごった返した。運の良い人たちは家族で一部屋を 借り、生活することができたが、そうでない人たちは所かま
避難経験 朝鮮戦争の初期は、戦線の思いがけぬ崩壊と無責任な
わず、板や段ボール箱、テントなどでバラックを建てて雨露 をしのいだ。
政府の対応により、多くの韓国人は北朝鮮の占領を経験する
大邱や釜山などの慶尚道の地域が占領を免れたという
なかで、占領軍の指示に従わざるを得なかった。当時の韓国
事実は、その後、韓国現代史の発展において非常に重要な影
10 Koreana | 夏号 2010
2
響を及ぼすこととなった。生活基盤の破壊が比較的少なかっ たのはもちろんのこと、相対的に「反逆に加担した者」も少な
1~2 朝鮮戦争直後のソウル世宗路一帯と今日の世宗路中央にある「光化 門広場
く、戦後の社会生活への支障も少なかった。特に、戦争が再 発する場合においても相対的に安全な地域と見なされたこと
出してまもなく、分断と残酷な戦争を経験した。更に、休戦
と、また全国の主要機関や個々人が避難期間中に、この地域
以降も南北対峙の状況は続き、結局、韓国人は数十年間、絶
とどのような形であれ関わりを持ったという事実は、戦後の
え間なく生存の危機と緊張を強いられたのである。
韓国社会において湖南地域に比べ領南地域が相対的に発展す る重要な要因の一つとして作用した。
試練を受けながら韓国人は強靭な生活力と意志を培 うこととなったが、一方で大きな心のトラウマともなった。 一般的に韓国人や韓国文化の否定的側面と見なされているそ
戦争の傷跡と治癒
のほとんどが、まさに長期的な危機の継続と残酷な戦争経験
戦争は、数多くの人命を犠牲にし、物理的な基盤を破
の傷跡ともいえる。朝鮮戦争の時に韓国に派遣された外国の
壊しただけでは終わらなかった。韓国人は心にも大きな傷を
軍人や特派員が接した韓国人は、「15年戦争」の傷跡が癒え
負った。戦争はかなりの期間、韓国人の行動パターンや思考
る間もなく、再び悲惨な戦争を経験した人たちであった。と
方式にも大きな影響を及ぼしたのである。日本では1931年
りわけ韓国が世界に知られるきっかけとなったのが朝鮮戦争
の満州事変より1937年の日中戦争を経て太平洋戦争が終結
であったという事実は、韓国人のイメージ形成に特別な影響
した1945年までを「15年戦争」とよぶが、その間、 日本の
を及ぼしたはずである。
植民地支配を受けていた韓国でも緊張と危機感は極度に達し
戦争の最中、多くの韓国人が避難や兵役などで初めて
た。その上、韓国人は日本の軍国主義と総動員体制から抜け
地域共同体を離れ、全国から群がる見ず知らずの人々と生存 夏号 2010 | Koreana 11
© UN記念公園
去る4月14日、UN記念公園を訪問した英連邦参戦勇士たち。朝鮮戦争の参戦勇士として60年前にこ の場所に埋葬されたオーストラリア軍将校、その夫人の遺言により夫の隣に埋葬される遺骸合葬式 が執り行われた。
のための闘争をすることとなった。また、すさまじい生存闘
今もなお、さまざまな問題が残っているが、朝鮮戦争
争が展開される危機状況下では誠実な人が無能に見え、善良
60周年を迎え、韓国人のこうした戦争の傷も癒えようとし
で正直に生きることは脱落するという認識が拡散し、正々
ている。南北が対峙する分断の状況においても、韓国人は政
堂々と競争することや、伝統的な生活様式に固守しては敗北
治的民主化と平和的政権交代を成し遂げた。また、言論の自
するという憂慮を抱くようになったのではないかと思われ
由も拡大し、人権も大きく伸張した。不安要因は残っている
る。物資の絶対的な不足と窮乏は、割り込みや便法などを助
が長期間持続していた切迫した危機感は和らいでいる。
長させた。公正競争規約を遵守していない、もしくは相手が 規則を違反するであろうという思惑から自らの規則違反を正 当化させる傾向もあった。
国家主義教育の残滓 一方、長期間持続した危機感は、韓国の教育にも大き
破壊された都市が再建され、高度経済成長により貧困
な影響を及ぼした。帝国主義の侵略を敢行し戦争を引き起こ
から抜け出しても、長期間持続した危機と悲惨な戦争によ
した日本では、戦後米軍の占領下により教育の民主化が成し
り、韓国人が負った心の傷が癒えるまでに長い時間を要し
遂げられた。しかし、日本の軍国主義と植民地支配の被害者
た。現実的な危機が消えたからと、数十年間、日々危機と隣
であった韓国では、戦争と分断の固着化の過程において、国
り合わせに暮らしてきた人の思考と行動を容易に変えること
家安保と反共、そして危機意識が強調されながら、却って日
は難しく、たとえ戦争を直接経験しなかった世代であって
本の国家主義教育の残滓が相当期間持続した。
も、大きな心の傷を負った親の世代の影響を少なからず受 け、完全に自由になることはできなかったからである。 12 Koreana | 夏号 2010
朝鮮戦争直前に文教部は、全学生に次のような「私た ちの誓い」を暗記させた。一、私たちは大韓民国の子、死で
試練を受けながら韓国人は強靭な生活力と意志を培うこととなったが、一方で大きな心のトラウマも経験した。一般的に 韓国人や韓国文化の否定的側面と見なされているそのほとんどが、まさに長期的な危機の継続と残酷な戦争経験の傷跡と もいえる。
もって国を守る。二、私たちは鋼鉄のように団結して、共産
ではビビムクッス(甘辛混ぜ素麺)、またはフェビビムクッス
侵略者を打ち破ろう。三、私たちは白頭山の霊峰に太極旗を
(刺身甘辛混ぜ素麺)と呼ばれていたが、朝鮮戦争後に南へと
なびかせ、南北統一を果たそう。こうした「私たちの誓い」
伝わり、新たにつけられた名前である。南で既に名声を得た
は、教科書をはじめとするあらゆる本にも印刷された。戦争
平壌冷麺を真似て新しく作られたという。
が勃発すると、学徒兵の参戦と犠牲が美化され、学校には学 徒護国団が登場、学生の軍事訓練も導入された。韓国で頭髪 や服装に対する規制が緩和され、権威主義的な要素がなくな るのは1980年代以降のことである。
宗教と信仰生活 韓国の分断と戦争は、韓国人の信仰生活にも大きな変 化をもたらした。シャーマニズムの場合、韓国は主に世襲 巫、北朝鮮は主に降神巫の伝統を受け継いでいた。しかし、
食生活
北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国が樹立されてから、ひどい
朝鮮戦争は韓国人の食生活に非常に大きな変化をもた
弾圧を受けた北朝鮮地域の降神巫のうちの相当数が朝鮮戦争
らした。米軍を通じてコーヒー、ガム、チョコレート、キャ
の最中、南へと越境した。その結果、韓国での降神巫の活動
ンディー、ビスケット、粉ミルクなどが本格的に紹介され
が活発になり、巫俗社会の姿もまた大きく変化した。
た。また、小麦粉が大量に供給され、粉食が拡散した。小麦
分断と戦争の影響は、各宗教と宗派により非常に異
粉を使った料理は特別な食べ物だが、1956年からアメリカ産
なった様相を呈した。信者の7割が北朝鮮に居住していた天
の余剰農産物が導入され、ジャージャー麺などの粉食が大き
道教は、顕著にその勢力が衰退した。儒教と仏教が相対的に
く増加した。
委縮する半面、プロテスタントとカトリックは分断と戦争を
一方、冷麺などの北朝鮮料理が全国的に広く普及した。
契機に大きく勢力を伸ばした。信者の7割近くが北朝鮮地域
無論、朝鮮戦争以前も平壌冷麺などの北朝鮮料理は、ソウル
に居住していた長老教の場合、北朝鮮政権の弾圧と迫害を受
などの大都市では、ある程度知られていたが、こうした北朝
けていたが、かなりの数の信者と指導者らが南へと越境、戦
鮮料理が全国的に広く紹介され、普及したのは戦争により北
後の韓国キリスト教の性質に重要な影響を及ぼした。特に平
朝鮮から南へ大規模な民族移動が発生したからである。南に
壌地域出身のいわゆる西北派のキリスト教徒が建てたソウル
越境した「北朝鮮」の人々は、他の「北朝鮮」の人たちを相手に
の永楽教会とチュンヒョン教会などは、韓国社会の反共主義
故郷の味を再現する飲食店を多数開業、その結果、冷麺、オ
の重要な中心的役割を担うことになる。
ボクチェンバン(牛肉鍋)、オンバン(温飯:クッパの一種)、ノ
戦争を経て軍隊や捕虜収容所での宣教活動を通じ、キ
クトゥチジム(緑豆で作るお好み焼き)、マンドゥ(饅頭)、カ
リスト教は大きく成長、これには李承晩大統領在任時期にお
ジャミシッケ(カレイの塩辛)など、「北朝鮮」料理が南でも広
けるキリスト教偏向も重要な要因として作用していたという
く普及するに至った。ここ最近まで五壮洞や乙支路の冷麺
指摘もある。戦争の影響によりキリスト教は、その他にも救
店、奨忠洞の豚足店など、ソウルをはじめとする大都市の北
護物資の窓口、アメリカとの連絡通路、さらには韓国の中の
朝鮮料理の店では失郷民の姿がよく見うけられた。
アメリカと見なされもした。多くの韓国人が教会で空腹を満
平壌冷麺は「特別料理」であったが、朝鮮戦争後、徐々
たし、韓国人の脳裏にアメリカは「恩恵の国」として刻印され
に韓国料理店の日常メニューとなった。咸興冷麺は、咸鏡道
た。韓国キリスト教の一部で「イエスを信じれば物質的に祝 夏号 2010 | Koreana 13
1Earthenware crocks store soy sauce and soybean paste that are carefully prepared according to generationsold family recipes. 2Clan members gather at Okdong Seowon in Sangju to prepare for an ancestral ritual.
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2
福される」というご利益主義の傾向を、戦争の経験に起因す
などを考慮し、家族構成員全員で移動しないケースが多かっ
ると解釈する学者もいる。
たので、難民1人の発生は少なくとも3、4人の離散家族を
キリスト教の急成長は、他の宗教とは異なり、キリス
発生させた。1945年の解放後、朝鮮戦争が終わる1953年ま
ト教が代案的な共同体を提供、また戦争の惨状と不条理に対
での8年間、150万人程度が南へ越境したと推定され、その
する一種の説明と正当化を提供したからという意見もある。
結果、離散家族は450~600万程度発生したと考えられる。
戦争の結果、大規模な地理的・社会的移動が発生したが、教
1950年当時の人口を基準にすると、韓国人の15~20%に該
会はこのように人々に情緒的な安定と社会的な紐帯を提供し
当する。
た。特に、北方より故郷を離れ、南へと越境した人々が建て
南へ越境した人たちの多くは都市に定着、その結果
た教会は、根を断たれた人たちの代案的な共同体と成りえ
1950年代の韓国は離農と都市化が急激に進展し、すでに都
た。一方、一部のキリスト教の指導者は、朝鮮戦争を「世界
市化率が24.5%に達した。工業化よりも、戦争が都市化及び
を救わんと、その道具として韓民族を大いに使わしめようと
都市貧民層の激増に、より寄与したのである。束草などの接
神がお与えになった試練」と規定したり、差し迫った末世と
境地域は、南へと越境した失郷民が大挙して流入、急激に社
審判の時の兆候であると解釈したり、戦争体験を宗教的に説
会的性質が変わったところである。
明したりした。たとえ一部の人に限られたことであるとはい
解放前から特に西北地域は、闊達で進取的というイ
え、このような説明は到底納得しかねるが、あまりにも残酷
メージがあり、教育と商工業が発展、キリスト教徒も多かっ
な現実を理解せしめる効果として発揮したといえよう。
た。その上、失郷民たちは生存及びよりよい生活を求めて自 ら移動を選択した人々である。それゆえ、失郷民たちは韓国
失郷民の移民 朝鮮戦争は範囲が広く、長期間に渡り続いたので、多
社会において生活力が強いというイメージがあるのも当然な ことである。
くの人員が動員され、大規模な避難民も発生した。避難民の
彼らは反共闘士であることを強調、韓国の保守反共主
場合、家系が途絶えぬよう家を継ぐ男性の保護と移動可能性
義を先導したりもしたが、相当数の者が北に残してきた離
14 Koreana | 夏号 2010
1 梨花女子大学校の校庭。2009年の韓国高 校生の大学進学率は81.9%、韓国人の教 育熱の高さが窺える。 2 西北派のキリスト教徒が南へと越境し建 てたチュンヒョン教会。
散家族のことで大きな心的苦痛を経験し、関係機関からは
男性の軍隊経験
監視の対象とされたりもした。戦闘が終わり、32年が過ぎた
休戦協定により戦闘が一応終わった後も平和が定着せ
1985年にようやく最初の南北離散家族再会の行事が開催さ
ず南北対峙という緊張状況が続いた。韓国は人口の規模に対
れ、2000年に2回目の再会が行われた。
して、大規模な60万の大軍を維持しなければならず、その
一方、一度故郷を離れて南へ越境した人の中には、再
結果、韓国の男性は兵役を負うようになった。戦争と南北対
びアメリカなどに移民した人も多い。朝鮮半島での戦争再発
峙、そして米軍の軍事援助によって、韓国における軍隊は、
に対する憂慮もやはり大きな影響を及ぼしているといえよ
社会の中で相対的に迅速に近代化が進み、教育や訓練の機会
う。
も多く、行政や技術面において他より抜きんでていた。韓国 の軍事クーデターと軍部政権は、反共イデオロギー以外にも
教育熱
このような背景をもっている。
植民地支配の手痛い経験を通じ、教育の重要性を実感
多くの韓国男性にとって軍隊は最初の重要な社会生活
した韓国人にとって戦争は、近代的教育が実に、生死を分け
の経験となり、軍隊で学習した人間関係及び組織運営の原理
る大きな要因になるということを肌身で感じた。戦争期間
は、その後の社会生活にも大きな影響を及ぼすようになっ
中、大学生は召集が延期され、戦後の復旧の過程において
た。韓国の批判的な知識人にとって軍隊経験は、韓国社会の
も、英語の能力や近代的教育は、機会や資源に対する関わり
力強い男性的気質と家父長制、権威主義の持続に寄与し、民
方において、とてつもない差異をもたらした。戦争により、
主化の障害として作用する。しかし日本の戦前世代は、韓国
物質的財産は破壊されたり略奪されたりするが、学力は一種
の男性が日本の戦後世代とは異なり、兵役経験によって培わ
の「安全な」財産であり、それは権力や物質的な富、生命への
れた強靭な精神力と闘志、団結力など、ひそかに韓国を羨ま
通路でもあった。よって、教育は家族全体の運命を左右する
しく思うようである。
ようになった。現代韓国人の教育熱は、戦争により甚だしく 刺激されたともいえよう。 夏号 2010 | Koreana 15
破壊された平壌の大同江鉄橋での避難民たち。崩れ落ちた鉄骨の上を 命がけでよじ登りながら川を渡る避難民の姿は戦争の惨状を物語る。
16 Koreana | 夏号 2010
© ヌンピッ出版社
韓国人の心に刻まれた 朝鮮戦争のトラウマ 昨年の春、DMZ(非武装地帯)の西部地域の臨津閣付近にある鉄条網の境界線で、白髪まじりのしわしわの一人の老 人が独り鉄条網に手をかけたまま北方の山川をジーッと見つめていた。春の日差しが銀髪に反射しあたかもエッ クス光線のように、この離散家族の老人の深い心の傷を映し出していた。それは6.25戦争(朝鮮戦争)と戦後60年 の歳月の縮図であり、大多数の韓国人が経験した、また現在も続いている悲劇的歴史の断面であった ハン・ミョンヒ(韓明煕、イミシ文化書院代表) 写真 : 成宗潤
一
時、世界の人々の目に映る韓国は、「隠士の国」、また
おもむろに日常的な本来の姿を取り戻そうとしていた。いや
は「静寂な朝の国」であった。韓国という国は、世界地
正確にいうと本来の姿を回復しているのではなく、滄海桑田
図を見ると特に目立たない東北アジアの片隅にある平和な国
の新しい姿に生まれ変わったのだ。「漢江の奇跡」と呼ばれる
であった。このように小さくて平和な極東アジアの朝鮮半島
成長を、新しく発展した姿を現実のものとして成し遂げたの
も19世紀後半から徐々に激浪にもまれていく。西欧勢力の
である。少なくとも外見的にはもう戦争の傷跡はないと言っ
門戸解放の圧力にはじまり、日本帝国の朝鮮半島の侵略の歴
ても過言ではない。
史などがその事例である。このような不吉な国際力学の構図
しかし、6.25戦争はまだ終わってはいない。それは現
からようやく自主独立がなされるかと思いきや、今度は海洋
在、南と北が対峙し、事実上、休戦協定が発効しているから
勢力ではない北の共産主義の大陸の勢力が朝鮮半島へと差し
というわけではない。経済的・社会的には戦争の傷が治癒さ
迫った。挙句の果てに数千年を同じ血、同じ言語、同じ文化
れたかもしれないが、精神的・情緒的にはいまだ6.25戦争の
により共通の歴史を享受してきた朝鮮半島は、北緯38度線
ハン(恨)が韓国人の胸中に、この上もないしこりとして残っ
を境界に腰部が断たれたまま、お互い反目の道を歩むように
ている。表皮的で枝葉的な痛みがなくなったその場所に、
なる。
却って骨の髄まで深化し、体の一部となった戦争のトラウマ が鮮明に刻まれているのである。
「漢江の奇跡」 朝鮮戦争の期間は、韓国人にとって未 曾有の試練と苦痛の季節であった。国土の 至るところに銃弾の痕跡や破壊の残骸、腐敗 する屍の悪臭で満ちていた。目につく現実すべて が飢えと絶望と悲劇の連続であった。
離散家族探し 1983年6月30日。この日は全国民が涙 を流しながら夜を過ごした特別な日 となった。KBSで戦争で離ればれ になった家族を
長い歳月が必要であったが、「時が薬(ど んなにつらいことがあっても時がたてば癒 され忘れる)」という韓国伝来のことわざの ように、歳月は戦争の傷を徐々に洗い流し てくれた。砲弾で剥げ落ちた禿山にいつし か新緑が蘇るように、戦争で裂かれた外見は 夏号 2010 | Koreana 17
1 © ヌンピッ出版社
探し出すための生放送が行われた日であった。あれから30
鮮戦争で家族と離ればなれになった人口は、およそ現在の韓
年の歳月が経ったが、当時KBSが企画した生放送、離散家族
国の人口の4分の1に近かった。四人に一人は家族と生き別
探しの余韻は韓国人の脳裏と心に深く刻まれている。
れ、暮らす人たちであった。先ほどのKBSの番組に参加した
「この人に心当たりのある方はいませんか」というタイ
離散家族は、故郷が北であれ南であれ、現在、南で暮らしな
トルで放送されたこの番組は、もともと一回限りの特別番組
がら戦争の時に生き別れ、家族の消息が途絶えた人たちで
であった。しかし放送されると同時に離散家族の問い合わせ
あった。これとは異なり、戦争の時に北に家族を残し南へと
の電話が殺到し、放送局にたくさんの離散家族が押し寄せ
越境した離散家族は、初めから家族を捜すことさえできな
た。予測不能な展開に驚いた放送局は当日の放送時間を翌日
かった。敵対関係にある北とは休戦ラインに阻まれ、行き来
の未明まで延長、ついには当初の計画を変え連続番組とし
することができなかったからである。
て再編し、138日間放送を続けることとなった。この期間中、
しかし、K B Sの番組以降、最近になりこれら南北間離
離散家族10万余名が放送に参加し、そのうちの1万189世
散家族の限定的な再会が間欠的ではあるが行われた。1988
帯が劇的にも離ればれになった家族を捜し出した。放送中、
年以降、北朝鮮に残っている離散家族との対面を申請した
様々な切ない光景が繰り広げられたが、中でも数万枚の家族
志願者の数は、昨年まで12万7千余名であった。このうち
を探すチラシが所狭しとぎっしりと貼られたKBSの建物の当
1万9千余名が南北間の対面の場を通し家族に会うことがで
時の姿は、韓国人の胸に、戦争の悲劇を呼び覚ます強烈なイ
きた。こうした中、既に4万2千余名の申請者は、この世を
メージとして今もなお、はっきりと残っている。
去っている。それは、60年前に朝鮮戦争で生き別れた離散家
一時、私たちは「1千万の離散家族」と言っていた。朝 18 Koreana | 夏号 2010
族ということもあり、再会を渇望する希望者のそのほとんど
1 1950年12月12日、国連軍司令部の「興南撤 収」の命令に従い、 LST艦艇にあふれんばか りに乗り込む軍人と避難民。中国軍の参戦 により退路が絶たれた国軍や国連軍、避難 民は、このようにして海路を利用し南へと 撤収した。 2, 3 1983年6月30日、韓国放送公社が「離散 家族探し」の生放送を始めると、放送局周 辺は全国から押し寄せた離散家族と彼らが 貼った張り紙で埋めつくされた。当初、一 回限りの特集番組として予定されていた のが、その後138日間も放送が延長され、 一万余家族が再会を果たした。
2 © 洪淳泰
3 © 洪淳泰
北朝鮮に残してきた離散家族との再会を申請した志願者12万7千余名のうち、1万9千余名が家族と再会を果たし、 4万2千余名の申請者は高齢でこの世を去った。与えられた命の時間はもう残り少ないのに、寝ても覚めても忘れること のできない血縁者に再会する日ははるか遠い。今だに戦争の遺恨は深い。
が80~90代の高齢者であったからだ。与えられた命の時間
ユ・ガンジン、そして長老の演劇人パク・チョンジャによる朝
は残り少ないが、寝ても覚めても忘れることのできない血縁
鮮戦争を素材とした、胸が締めつけられような名詩の朗誦が
者に再会する日ははるか遠い。常識を超えた北朝鮮当局の態
続いた。その他にも韓国人に馴染みのある6.25戦争の時の歌
度の所以でもある。戦争の遺恨は深い。
がサックスフォンによりソロ演奏され、パンソリ界のスター であるアン・スクソン(安淑善)が悲劇調の歌で粛然とした場
戦死者の遺骸発掘に関わる事情
の雰囲気を高めた。
昨年の夏、6月25日のことであった。ソウル郊外のひっ
この日の集まりは2時間あまり進められ、始終、参席者
そりとした渓谷にあるイミシ文化書院に韓国文化界の著名
みなが目頭が熱くなるほど凄然とした厳粛な雰囲気に包ま
人たちをはじめ200余名の参加者が集まった。6.25戦争勃発
れた。特に、李用碩中領が戦死者の遺骸発掘の様々な体験談
59周年を追念する戦争の詩の朗誦会の集まりであった。プ
を発表した時は、聴衆の涙を誘った。韓国の国防部は、去る
ログラムはイ・ヨンソク(李用碩)中領による戦死者遺骸発掘
2000年度に遺骸発掘鑑識団を発足させた。アメリカのハワ
での現場の体験談から始まった。続いて、有名な放送人キ
イに本部を置くJPAC(Joint POW/MIA Acounting Command)
ム・セウォン(金世媛)と長老の声優キム・ジョンソン(金鐘聲)、
にならい、遅れて出発した機構である。国防部では、今なお 夏号 2010 | Koreana 19
1
遺骸が見つからない犠牲者の数をおおよそ13万名に推算し
た父親の遺骸だけでも見つけようと根気強く捜し続けた。折
ている。遺骸発掘鑑識団の発足後の10年間で、4,133体の遺
りよく戦死した父親の昔の同僚より江原道県里の龍浦橋付近
骸を発掘した。12万6千余名の遺骸は、いまだ縁故者のも
が父親の戦死場所であることを知った。
とに帰ることもできず、全国至る所に放置されている。今
その後、李用碩中領の遺骸発掘鑑識チームが県里の近
後、より一層発掘が難しくなると予想されるのは、あれから
隣の村に到着し、住民たちの証言を聞くことになるが、ここ
相当な歳月が流れ、環境が激しく変化し、戦争当時の戦死者
の一軒家に暮らすアン・ソンファン氏(当時、63歳)から怪異な
が埋められた場所を思い出せる情報提供者が少なくなったか
夢の話を聞く。アン・ソンファンの夢に死んだ父親が現われ、
らである。少なからず彼らの遺骸は、いつの日にか人知れず
「明日、珍しい客が訪れるが、その人たちが探してる人は、
腐敗し、土となって肥やしとなり、祖国の国土を彩る美しい
家の後ろにある防空壕の中にいる。そのうちの最後に埋まっ
花となるかもしれない。神々しいことではあるが、哀れでな
ていて背が一番低い人が、まさにその家族が探してる人だ」
らない。
と夢の話をしたそうだ。驚くべきことにその場所には国軍3
遺骸発掘団が発足した2000年8月、江原道麟蹄郡県里で
名の遺骸が埋まっていて、背の低い遺骸は夢の言葉どおり最
は信じられないことが起こった。1千メートル級の山岳に囲
後の場所にあった。更に信じがたいことは、足に銃が貫通し
まれた県里地域は、 6.25戦争の時、熾烈な激戦地でもあった。
たあとが残っていた、その背の低い遺骸は、DNA鑑識の結果、
朝鮮半島の南に位置する順天を故郷にもつキム・グォンスンが
夢の中の予言どおりキム・チュンファの父親、キム・グォンス
戦死したのもまさにこの地であった。彼は入隊当初、一歳の
ンだと判明したということである。
娘と妻がいた。その後、妻は長い間、夫の帰りを待ちわびた 末、結局、南海にある島へと再び嫁いだ。一人娘のキム・チュ ンファは成人して結婚をし、結婚後も彼女は夫と共に戦死し 20 Koreana | 夏号 2010
失郷民の痛み 至誠天に通ずという言葉どおり、血のつながりへの想
1 京畿道坡州市にある臨津閣の望拝壇。失郷民たちは北に 残してきた家族や知人を偲び、名節や特別な日にこの場 所で祭祀を行う。 2 臨津閣3階の展望台。望遠鏡で遠く北方の地を見渡すこ とができる。
い、そしてやるせない気持ちが募ると奇跡のようなことが起 こるのだと、6.25戦争にまつわる感動的な話は後を絶たず、 6.25戦争が残した韓国人の心の傷は筆舌に尽くしがたい。 特に、韓国を含む東アジアの文化圏では60年の歳月は格別 な意味を持つ。古くより太陽系の木星を歳星と言い、時間の 単位を確定する基準とした。つまり、木星が太陽を一周する のにかかる12年の時を十二支とし、年数を計算する一サイ クルとして再び木星が太陽を5周する60年の歳月を還暦と
2
いい、我々人間の生涯の一区間が終わる単位とした。たとえ ば、61の齢の人ならば、人生第二ラウンドの1歳として暮ら すわけだ。いずれにせよ、韓国においては、60年区間の1週 期は伝統的に格別な意味をもつが、まさに近年が朝鮮戦争開 戦60周年を迎える年である。
になった家族を夢の中でも会いたいと渇望する。 DMZの西部地域にある臨津閣付近、ここには北方の地 に家族と故郷を残して6.25戦争の時に南へと越境した人々
このように多くの歳月が流れたが、いまなお戦争を体
のための望拝壇が設けられている。名節(元旦・端午・中秋)や
験した世代は、どんなに小さな戦争の痕跡であれ、それを目
特別な日に、北方からきた離散家族はここを訪れ、北にいる
にすると過去の惨状が走馬灯のように浮かび心が痛む。
両親に新年の挨拶をし、亡くなったご先祖の祭祀を行う。長
爆破された漢江の橋や壊れた大同江鉄橋の写真、ある
い冬のトンネルを通り抜け、春の日差しがとりわけ暖かいあ
いは興南埠頭の米軍の艦艇に蜂の群れのように乗り込む避難
る春の日のこと、ここ望拝壇の近くの境界線で、白髪まじり
民の姿を目にし、否応なしに当時に引き戻される。雪の降る
のしわしわの老人が独り鉄条網に手をかけたまま北方の山川
厳冬に当てもなく家を出た、「1.4後退」の時の避難の道を回
をジーッ見つめていた。視界に広がる北方の山河は何も語ら
想しながら、ひもじい群衆でごった返した釜山の国際市場の
ず静寂を漂わせていた。白髪の老人は何度かハンカチを取り
艱難と苦労の日々を思い浮かべてもなお戦争の痛みは切々と
出し、目頭にあてた。そして北方に向かい古木のように無言
よみがえる。いまだ多くの韓国人は愛唱歌謡「力強く頑張れ、
で立っていた。春の日差しが銀髪に反射しあたかもエックス
クムスン!」を聞きながら6.25の惨状を反芻し、「離別の釜
光線のように、この離散家族の老人の深い心の傷を映し出し
山停車場」を聞きながら悔恨の思いを反芻する。北朝鮮軍に
ていた。春の日差しが読み取ったその老人の心の映像はこと
引っ張られていく夫を為す術もなく見ているしかなかった切
ごとく苦痛と挫折、忍耐と人懐かしさなどの傷で満身創痍に
ない気持ちを描いた歌「断腸の想いのミアリ峠」を聴きながら
なっていた。それは6.25戦争とその後の60周年の歳月の縮
多くの女性たちはやるせない溜息を堪え、離散家族の痛みを
図であり、大多数の韓国人が経験した、また現在も経験して
歌った「誰かこの人を知りませんか」を聴きながら離ればなれ
いる悲劇的な歴史の断面であった。 夏号 2010 | Koreana 21
戦後の韓国の成長 韓国は朝鮮戦争中、国連21カ国参戦兵士の助けを得て、戦乱の廃墟から世界10位圏の国 家に跳躍した。戦後60年韓国の成長史を経済、社会、文化、人口、生活の変化について、 さまざまな統計資料を中心に探ってみることにしよう。 パク・テキュン (朴泰均、ソウル大学校国際大学院教授) 写真 : 徐憲康
22 Koreana | 夏号 2010
朝
鮮戦争は朝鮮半島全体にとてつもない戦禍をもたらし た。それは物的被害だけでなく、離散家族問題や虐殺
国民所得と対外輸出 戦争はこのような希望と自信を奪っていった。戦争が
事件などによる精神的被害は数値では計算できないほど深刻
終わり、一人あたりの国民所得は65ドルに過ぎなかった。
なものであった。戦争がもたらした心理的被害の一つは自信
これは植民地時期の一人あたりの国民所得にも及ばないもの
喪失と絶望であった。
であった。戦後、時が流れ政権が二度変わったが、1961年度
植民地から解放され、韓国人は今後、自らの力で富強
の一人あたりの国民所得もまた82ドルに過ぎなかった。イ
な国家を建設することができるという自信に満ち溢れてい
ンフレを勘案すると、6年間で17ドルの上昇は、足踏み状態
た。たとえ1948年に二つの政府が樹立されたとしても、分
といえる。
断はそう長くはなく、やがて統一し、自主的な自立国家を建
しかし大韓民国には希望があった。何よりも教育を通
てることができると待ち望んでいた。南と北で共に早々と経
して何不自由なく暮らせ、豊かな生活をする権利があると
済復興のための計画を立てたのも、このためであった。
いう希望と意志が次第に拡散した。小学校の無償教育が実 施され、中学校の進学率も1954年に16%にとどまっていた のが、1961年には38%に増加した。1952年3万名に過ぎな
漢江遊覧船と漢江辺の夜景
かった大学生の数も1954年に6万名、1960年に9万名を優に 超えた。解放直後1千余名に過ぎなかった女子大学生の数も 1960年には1万7千余名に達した。2009年現在、大学生の 数は307万4000名であり、そのうちの121万2000名が女子 大生である。 このような教育の力は、民主主義と経済の復興に対す る念願となり、更に4.19革命と朴正煕政府の経済開発計画 においての世界でも稀にみる急速な経済成長へと繋がった。 1964年から本格的な経済成長期に突入した韓国は、1960代 以降1990年代のはじめに至るまでの30余年間、1980年を前 後した時期を除いては10%を行き来する高い成長率を記録 した。この期間の経済成長率は経済大国である日本を追い越 すものであった。 1962年経済開発計画が初めてスタートした時に1億ド ルにも及ばなかった対外輸出が1971年に10億ドルを越え、 1977年には100億ドル、2008年に4200億ドルに達した。 2009年には3637億7千万ドルで13.8%減少した。一人あた りの国民所得も1977年に1000ドルを越え、1987年に3218 ドルに達し、1995年には1万ドル、2007年には2万ドルを突 破した。2009年には1万7175ドルで5年間の中で最も低 かった。
産業国としての位置 韓国の経済力は2009年度国内総生産(GDP)8329億ド ル、世界経済力の順位は15位である。アメリカの経済雑誌 フォーチュン誌が選定した2009年世界トップ企業100社に サムスン電子をはじめとする四つの国内企業が含まれ、造 船、半導体、電子、自動車部門において世界一流の製品を 夏号 2010 | Koreana 23
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1962年経済開発計画が初めてスタートした時には1億ドルにも及ばなかった対外輸出が1971年に10億ドルを越え、1977年 には100億ドル、2008年に4200億ドルに達した。一人あたりの国民所得も1977年に1000ドルを越え、1987年に3218ドルに達 し、 1995年には1万ドル、2007年には2万ドルを突破した。
生産している。企業規模の側面からは、世界トップ企業500
都市化
社のうち韓国企業の売上高の比重が1996年2.9%を記録し
社会的な変化は、何よりもまず、テレビ、ラジオ、自
たが、金融危機以降1.5%以下に急落、その後、再び上昇し
動車の普及によく見受けられる。1959年に全体でラジオ
2.0%以上の水準を回復している。貿易依存度は世界最上位
30万台、テレビ1000台に過ぎなかった(ラジオの普及率は
圏の水準で、輸出中心の経済構造である。アジアが特化して
9.1%)。人口1000人あたりのテレビの保有台数も1965年10
いる電気・電子、繊維部門と先進国が特化している自動車部
台にも満たなかったが、1980年には200台、1995年には360
門を同時に主力輸出品目としており、アジアと先進国の特性
余台に及んだ。一世帯を3~4人として推算すると、一台
を同時に有している。
以上のテレビを保有するに至ったのである。1980年代まで、 家族間のけんかの原因の一つであったチャンネル争いを見る
進学率と女性の社会進出
ことも今は難しくなった。
経済成長と経済構造の変化は、韓国の社会にとてつも
都市への移住率も急激に増加した。1955年に23%に
ない変化をもたらした。1961年に中学校の進学率が38%で
過ぎなかった都市化率は1960年に30%を越え、1975年には
あったが、1987年には100%となり、高校と大学の進学率も
47%、ついには1990年に73%、2005年には81%に達した。
同期間にそれぞれ21%から80%、6%から29%に増加した。
最近は都市での生活に嫌気をさした人たちが農村に帰るU
2008年の高校と中学の進学率はそれぞれ99.7%と99.9%で、
ターン現象が起きたりもするが、このような現象が都市化の
大学進学率は83.8%である。
急激な進展を阻むほどには至っていない。都市化現象は、都
このような変化の過程において、女性の社会進出がさ らに進んだ。1970年代までは加工産業の単純労働者かバス
市への移住により生じる現象ではあるが、一方で都市の拡大 により生じるものでもあるからだ。
乗務員のようなサービス業に従事するしかなかった女性た
都市化の進行は農家人口の減少に繋がった。農家人口
ちが、1980年代以降、本格的に専門職に進出するようになっ
は1967年に1600万名であったが、産業化が急激に進められ
た。2009年現在、女性の経済活動参加率は50%である。そ
た1970年代以降、急激に減少した。都市人口の比重が1960
のうち女性が占める割合が際立っている分野は教師職で、小
年全体人口の28%から1971年に41%、そして再び1990年
学校74%、中学校64.5%、高校42.1%である。公務員の合
に74%へと急激に増加した。1970年に始まったセマウル運
格者のうち女性の比率は、外務考試(外交官試験)65.7%で
動で電気の普及拡大が進み、全体で村の20%のみ供給され
最も高く、行政考試(国家公務員Ⅰ種試験) は51.2%、司法考
ていた電気が1978年には98%に拡大されたが、これもまた
試 (司法試験) は38%である。現在、第18代女性国会議員の
都市居住民の激増を食い止めるには至らなかった。
女性の比率は13.7%(41名)で、2000年(16代)、2004年(17代) に比べ、それぞれ7.8%ポイント、0.7%ポイント増えている。
都市人口の比重の増加は、乗用車保有台数の画期的な増 加をもたらした。1万世帯あたりの乗用車保有台数は1955
1 現代重工業、蔚山造船所の全景 2 仁川国際空港の全景
夏号 2010 | Koreana 25
年に10台未満であったが、1980年に100台を超過、1990年に
年には79.4歳に達するようになり、また17歳の青少年の平
1000台、そしてついに2005年以降には10000台を越えた。
均身長も1965年163.7cmから1987年169.5cmへと6cmほ
これは1世帯あたり1台以上の乗用車を保有していることを
ど伸びた。2007年文化体育観光部が実施した国民体力実態
指し示すものである。こうした急激な乗用車保有台数の増加
調査によると19~24歳の青少年の身長が男子平均175.0cm、
は、1975年以降、本格的に乗用車が生産され、1980年代にガ
女子平均161.9cmであった。これは医師一人あたりの人口
ソリンの値段が下落、1970年に京釜高速道路が竣工し、全国
数が1218名と、1965年(3.066名)に比べ50%以上減り、上
の高速道路網が急速に拡充されたからである。
水道の普及率が17.1%(1965年)から70%(1987年)へと増加 するなど、衛生状態が良くなったためでもある。高齢化指
中産層 以上のような急速な産業社会への転換は、韓国人に何
数(14歳までの幼少年層の人口に対比をした64歳以上の老年 層人口比率)は、1960年7%から1990年20%、2000年35%、
不自由ない生活を提供し、自らを中産層と規定する人口を拡
2005年50%、2009年63.5%と急速に増加した。反面、合計
散させた。自らを中産層と規定する人々は1960年に全体人
出生率(女性一人が一生の間に産む子供の数)は、家族計画が
口の20.5%に過ぎなかったが、1980年に40.3%と二倍に増加
実施される1970年の時点で4.5名であったのに対し、2005年
し、2000年には53%に達した。中産層の意識の拡散は、韓
には1.2名と世界で最も低い国家の一つとなった。
国社会の急速な民主化に重要ともいえる社会的基盤を整備す るものであった。2009年の中産層の比率は66.7%である。
急激な高齢化に直面しているが、価値観の変化によ り、独身や夫婦だけで構成された世帯が全体の21.2%と激増 (1960年7.5%)、家族の平均規模が3名以下と減少(2005年)
高齢化と社会的疎外
し、3世帯が共に暮らす大家族の比重は28.5%(1960年)から
急激な社会変化は、価値観と生活習慣における変化を
12.5%(1990年)と減ってきている。2009年現在、世帯構成
伴った。医療が発達し、質の高い生き方を追求する風潮が高
員が7人以上の世帯は、全体の0.5%に過ぎなかった。これに
まるなか、韓国社会は急激に高齢化しており、多くの人が隠
より老人福祉が重要な社会の論点となっており、シルバー産
退後の生活に多くの関心を向けるようになった。平均寿命
業が新しい戦略産業となっている。
が1960年52.4歳から1987年70歳、2005年には79歳、2007
一方、産業化による社会的疎外が起こる中、宗教人口
1 三星(サムスン)電子器興半導体 工場のクリーンルーム。半導 体をはじめとした韓国の電子 産業は飛躍的な発展を重ねて きた。 2 韓国の自動車は広く世界へと 輸出され、韓国を世界第5位 の自動車生産国へと押し上げ た。
1
26 Koreana | 夏号 2010
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2
が3倍以上に激増した。1964年全体人口(2818万名)の13%
活動する外国人が増えたが、外国に対する主要な関心は、開
(357万名)に過ぎなかった宗教人口は、1985年に43%(全体
発途上国よりは先進国に集中している。よって外国に対する
4042万名中1720万名)へと増加した。
公共の開発援助はいまだ国民所得対比の0.1%に過ぎず、全 体OECD30カ国のうち29位にとどまっている。
その他の意味のある指標
一方で急速な産業化と生活の変化は、韓国を2005年現
また低い出生率による人口増加率の減少は、必要な労
在エネルギー総消費量世界7位、石油消費量世界7位に引き
働力を海外から供給せざるを得ないという状況を作り、こ
上げ、無分別なエネルギーの使用は環境問題を誘発してい
れにより1999年15万名であった長期滞在の外国人は2005
る。2009年にはエネルギー総消費量世界9位、石油消費量
年50万名に肉迫した。国際結婚の比率は2002年5.0%から
世界9位を占めた。また、正常な資本主義的経済構造が定着
2003年8.2%、2008年11%に増加した。また、留学生や駐
しているにも関わらず、労働組合の組織率は1963年9%か
韓米軍との国際結婚が多かった1980年代以前とは異なり、
ら1981年15%に増加し、2005年には10%以下に減少した。
2000年代以降には農村の若者たちがアジアの女性と結婚す
2008年の基準でも10.5%に過ぎない。開発途上国から脱す
るケースが激増した。彼らの間に生まれた子供たちに対して
る経済発展を遂げたが、社会福祉や労働条件に対する社会的
「コシアン」という新しい呼び名が誕生したり、多文化家庭に
関心は経済水準に相応し発展していないといえる。1997年
おける社会的関心が高まりはじめた。もはや外国人に会うこ
の金融危機以降、社会の両極化現象が表れ高齢化社会に突入
とは日常的なこととなった。
しているにも関わらず、社会福祉政策はむしろ後退している
しかし、外国人労働者に対する無関心や社会的問題が
のである。
深刻な問題として台頭している。また、世界化に伴い韓国で 夏号 2010 | Koreana 27
韓国の非武装地帯 韓国の非武装地帯は長い間、禁断の地であった。しかし、私は1997年に国防部よりDMZの 写真撮影の依頼を受けた。撮影したものは、1998年「悔恨と緊張、そして願望の地、休戦ラ イン155マイル」という写真集として発行された。今年は国連の招待を受け、ニューヨーク 国連本部で2010年6月28日から7月9日まで〈韓国のDMZ、平和、生命を探して〉というタ イトルで展示会を開く。 チェ・ビョンクァン(崔秉寛、写真家)
草原と化した中部戦線非武装地帯 28 Koreana | 夏号 2010
夏号 2010 | Koreana 29
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非武装地帯は休戦以来、半世紀以上に渡って一部の兵力を除き一般人の出入りが厳しく禁止された地であった。よって、 動植物にとっては完全な自由の地、平和の地となった。私は種が絶滅したという多くの貴重な動植物をそこで見た。死の 土地に再び生命が胎動し、神秘的な数多くの生命体が息づいていた。
3
年間の朝鮮戦争は、結局、始まった地点で終わった。この戦争には勝 者も敗者もない、愚昧で悲惨な、同族が互いに争い殺しあう戦争に過
ぎなかった。 1953年7月27日、国連軍の最高司令官と北朝鮮の人民軍最高司令官及び 中国の義勇軍司令官との間で休戦協定が調印された。この協定に従い全ての 戦線での戦闘が中止され、更なる軍事的衝突を防ぐため、協定当時の両側の 軍事的対峙線にそって幅4km、長さ249.4kmの緩衝地帯が作られた。これが 即ち南北の間で設置された非武装地帯(Demilitarized Zone, DMZ)であり、幅 4kmを更に半分に分け軍事境界線を引いた。ハングルと英文で書かれた表示 板を、非武装地帯の中間地点にそって西側の端から東側の端まで全て1,125 個を建てた。
休戦ライン155マイルを歩く 1997年のはじめ、陸軍本部では非武装地帯を歴史的な写真記録として 保存するための綿密な計画を立てた。私はその計画のもと、写真家として選
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出され、約2年間、朝鮮半島を横断する155マイルの果てしなく遠い非武装 地帯を歩いて写真撮影をすることになった。非武装地帯が、一民間人の写真家のカメラに露 出されたのは、朝鮮戦争後、半世紀ぶりのことであった。戦争が残した悲劇の地、非武装地 帯を撮影する数日前から緊張が高まった。その場所で軍人たちと寝食を共にしながら、写真
1~3 非武装地帯に生息している山 羊(天然記念物217号)とタンチ ョウ(天然記念物202号)と石 竹。
撮影をするという現実が信じがたかった。 軍専用のジープの後部座席に二つのカバンを積み込んでその隣に乗り込んだ。年老いた 母はさびついた門の前でじっと見守るだけで何も語らなかった。ジープの前の座席には私を 最前方部隊まで案内してくれる陸軍本部K中領(二佐)が座った。ジープは休むことなく北へ北 へと走った。80歳の母はジープが見えなくなるまで門のそばを離れようとはしなかった。 どれほど経ったのだろう。道路側を武装した軍人たちが絶え間なく行き交い、軍用車両 の数が次第に増えていった。非武装地帯が近づくにつれ、空気さえも冷たく感じられた。た だ胸が高鳴るだけで声が出なかった。ジープの中は寂寞としていた。軍部隊は見え隠れしな がら山の中に潜んでいた。要所要所で憲兵らが小銃を肩にかつぎ検問した。 師団の政訓将校の案内で宿所を割り当てられた。家に一人残してきた母のこともすっか り忘れ、戦争がこの地からなくなり南北が和解して緊張状態だけでも取り除かれたらという 願いのみであった。幾度の夜をまんじりともせずに夜を明かしたが、眠りを誘おうとしても 眠気が訪れなかった。窓の外から赤い十字架が見えるだけで月も星も消えていた。時折、遠 くの方から銃声が聞こえ、胸に轟いた。やかましく鳴り響いていた虫の鳴き声も静まってす でに久しい。 夏号 2010 | Koreana 31
1
1 銃弾の跡が無数に残されてい る、錆びついた鉄帽の穴の隙 間から咲いた野生の花。 2 朝鮮戦争により床板が崩壊さ れたままの姿で残されている コンクリート構造の橋梁、鉄 原の巌井橋。 3 筆者の国連展示ポスター
写真撮影は西部戦線から始まった。私が非武装地帯で始めて出会ったものは、何もかも 見慣れないもので悲しいものであった。しかし、その悲しみの中にはある種の美しさが秘め られていた。行けども行けども地雷原で捜索路以外は立ち入ることができなかった。今や古 鉄のかたまりとなり雑草に覆われた汽車と鉄道の線路、錆びついた戦車と薬莢、穴のあいた 鉄帽、戦争当時に埋設された地雷の警告板、壊れて橋脚だけが残った橋、村の痕跡、学校の 敷地など、戦争の残骸が数え切れないほど横たわっていた。そんな中に錆びついた鉄帽のひ び割れた隙間から野草が芽を出し花を咲かせていた。あたかも戦場で散った若い霊魂の生ま れ変わりのように思えて、しばらくその場を離れることができなかった。
生態系の宝庫 非武装地帯は休戦以来、半世紀以上に渡って一部の兵力を除き一般人の出入りが厳しく 禁止された地であった。よって、動植物にとっては完全な自由の地、平和の地となった。私 は種が絶滅したという多くの貴重な動植物をそこで見た。死の土地に再び生命が胎動し、神 秘的な数多くの生命体が息づいていた。ある地域は密林地帯のようであり、またある地域は 広闊な草原地帯のようであった。その中で咲いていた野花は、格別に色が鮮明で美しかった。 非武装地帯は、戦争が残した辛い歴史の地であったが、いまは逆説的に祝福された土地 といえよう。国際的に保護するに値する生態系の宝庫となっているからである。南北が和解 32 Koreana | 夏号 2010
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と相生の精神で戦争の痛みを治癒し、国際社会において共に努力したら、非武装地帯をユネ スコ指定の「世界自然文化遺産」にすることができるのではないかという確信を持った。それ により南北の経済状況にも多くの力になり得るという考えをしばらく振り払うことができな かった。 休戦ライン155マイルの南方限界線には、立ち入ることのできない北朝鮮の地を少し でも間近で見られるようにと、所々に展望台が建てられている。展望台はどこも離散家族を はじめ、各界各層の人たちで込み合っていた。かすかに見える故郷を一目見ようと列をなし て順番を待っている人も多かった。冷たい冬の風が吹きつけるある日、腰の曲がった老人が 双眼鏡で北の地を見つめていた。その老人は、死ぬ前に北朝鮮にある故郷に行ってみたいと 言った。私は無言で老人の両手を強く握りしめた。その手はとてもカサカサしていてたこが 3
できているようだった。故郷をなつかしみ双眼鏡から目を離すことができずに、どれほどそ の場に佇んでいたのであろうか。老人の目から涙がこぼれ落ちた。吹きつける風も共に悲し んでいるようであった。 朝鮮戦争の傷跡でもあり、結実でもある非武装地帯は、南北間の平和のための約束の地 として創造されたものであり、去る半世紀の間、朝鮮半島の平和を維持する上で大きな力に なったと考えられる。私は写真撮影をしている間、死の恐怖よりこの地に真の平和が訪れる ことを祈り続けた。 夏号 2010 | Koreana 33
文学作品の中の朝鮮戦争 戦争の傷跡というテーマは、韓国の現代文学においてこれまで幾度となく変貌を重ねている。戦後世代作家は残 酷な朝鮮戦争の経験を再現し、第三世代作家は戦争の後遺症が彼らの人生にどのような影響を及ぼしているのか を問うている。その傷跡の治癒はいまだ残された課題である。 キム・チス (金治洙、文学評論家、梨花女子大学校名誉教授)
34 Koreana | 夏号 2010
韓
国小説を素材や背景の側面から見ると、朝鮮戦争はど
て地主と小作人の間には葛藤と対立が激化し、告発と殺人事
の歴史的事件よりも韓国文学において占める比重が大
件が頻発する(黄順元、鮮干煇、李範宣、河瑾燦)。第二に、
きい。周到に計画され準備された南侵により北朝鮮軍は戦争
戦争に参与した人は、手段を選ばず戦争で勝たなければいけ
開始1ヶ月後に、韓国軍を大邱の近郊まで後退させ、韓国の
ないので、冷酷で残忍な野獣性をさらけ出すことにより人間
5分の4を支配した。そこへ反撃に出た韓国軍と国連軍は5
の尊厳性を喪失することになる(鮮干煇、呉尚源、李範宣)。
ヶ月後に鴨緑江の沿岸まで進撃する。しかし、中国軍の参戦
第三に、戦争で家族と愛する人を失った若者たちは、戦場で
によりソウルの陥落と奪還を繰り返す攻防戦の末、国連軍は
受けた精神的痛手で苦しみ彷徨う。守り、追い求めなければ
北朝鮮軍と現在の休戦ラインを境界に停戦協定を結んだ。一
ならない価値体系を失った彼らは、時には不道徳な選択を
進一退を繰り広げる戦争の最中、1千万人を超える避難民が
し、放蕩行為に身を置いてたりもするが、戦争の傷が癒えず
南へと移動したエクソドス[大脱出]は、農耕社会である韓国
苦しみもがく(廉想渉、黄順元、徐基源、李範宣、河瑾燦)。
の伝統社会を激しく揺さぶった。
第四に、父母と兄弟を失った子供たちは、避難民でごった返 す中、街をさすらいながら飢えを凌ぐため暗くて不潔な大人
戦後世代作家の作品世界 1950年代の韓国小説の大部分は朝鮮戦争を作品の素材
の世界に足を踏み入れたりもするが、日々成長する姿を垣間 見せる(李浩哲、宋炳洙)。第五に、戦争で愛する人が失踪、
や背景としている。戦争を直接経験した世代の作家として、
危機に直面した家庭を救うため、人間としての自尊心を捨
廉想渉、安壽吉、黄順元、金東里、朴景利、張龍鶴、鮮干
て、全てを投げ打つ女性の姿を通して、愛が持つ偉大な力を
煇、孫昌渉、徐基源、呉尚源、李範宣、李浩哲、宋炳洙、河
見せつける(廉想渉、黄順元、金東里、朴景利、徐基源)。第
瑾燦などを挙げることができる。廉想渉、安壽吉、黄順元、
六に、家族を残し故郷を離れて南へ越境した避難民は、南の
金東里を解放後の第一世代作家というならば、1950年代に創
地で根を張るための苦難と故郷に帰ることのできない分断と
作活動を始めた第二世代作家は戦後世代と呼ぶことができよ
いう悲しい現実、その苦痛に喘ぎながらハン[恨]多き生活を
う。6.25戦争[朝鮮戦争]は、韓国の家族、階層、社会を揺さ
営む(安壽吉、張龍鶴、李範宣、李浩哲)。
ぶる「大激変」であり、ひどい「暴力」であったからである。 戦後世代作家は自らもまた直接、戦争に参加し敵軍と
戦後世代作家は、戦争という暴力が個人に強要する悲 劇的体験を通して傷つけられた霊魂たちの彷徨を形象化し、
戦いながら、生死の境を幾度となく越え、共に戦った戦友の
数多くの質問を投げかける。すなわち、戦争という極限状況
死を目の当たりにした世代で、小説に登場する人物を通して
の中で人間の存在とは何か、人間らしく生きるということは
残酷な戦争を告発し、その中で生き残った人々の彷徨、そし
どういうことなのか、人をつなぐ倫理、道徳、法律はどれほ
て生存のためのもがきを記録している。彼らが形象化した作
どの価値があるのか、理由もわからぬまま愛する人が死んで
中人物は、人間存在の有限性と偶然性に絶望しながら、精神
いく悲しさと敵という名目で殺さなければならない不条理
のよりどころを探すべく激しい戦いを繰り広げる。しかし、
を、一体誰が付与するのかなどの問いを投げかけている。
反共主義に武装した登場人物は、彼らの社会が志向している イデオロギーを検討する余裕すらない。彼らは自らが遂行し
崔仁勳の『広場』
ている戦争の意味を問うことさえもできない。また、彼らは
彼らよりも数年後に創作活動を始めた崔仁勳は、1960
社会が今後どうあるべきかという展望ももてない。彼らは歴
年に発表した『広場』で朝鮮戦争を新しい角度から捉えた。解
史の犠牲者であり、現実の被害者である。そういう点で戦後
放後に越北した父を持つ主人公「イ・ミョンジュン」は、南の
世代作家にとって小説とは、彼らの経験した現実を再現する
捜査機関より不当な暴行を受ける。彼は仁川の友人の家へ行
ことであり、その現実の不条理を告発するものであり、また
く道すがら北朝鮮に密入国する。彼は無産大衆の理想国を求
人間運命の偶然性を明らかにするものである。
め越北した父親が特権を享受しながら暮らしているのを見
従って彼らの小説は、戦争という極限状況の中で表出
て、共産政権の虚偽性を知る。北朝鮮が韓国を解放させると
する様々な有りようを報告する。第一に、北朝鮮が選択した
いう名目のもと南侵することになると彼は戦争に動員され
共産主義は、伝統的な地主を悪と看做して彼らの土地を強制
る。洛東江の戦闘で捕虜になった彼は捕虜釈放の機会に南も
的に奪い、労働者、農民に無償で配分する。その過程におい
北も選択せず第三国を選択する。 夏号 2010 | Koreana 35
1 © ヌンピッ出版社
『広場』は、社会的にタブー視され、分断された二つの
たイデオロギーではないからである。彼はインドを目前にし
体制を客観的で根本的な側面から扱った新しいタイプの小説
てインド洋に身を投げる。彼の自殺は単純な死ではなく、愛
であった。主人公は戦争の最中、北朝鮮が恣行する嘘につい
とイデオロギーの狭間で真実の愛を知った彼の深い省察の表
て幻滅を感じるが、同時に戦場で再会したウネとの愛が最も
現であり、また死は決して逃避や敗北ではない、完成した愛
大切な真実であることに目覚める。しかし戦争は、二人が真
に至る道になり得るという深い洞察の表現である。なぜなら
実の愛を長く享受できるような状況にはしておかない。ウネ
彼が投身する前にかもめが飛び交う幻想は、ウネのお腹にい
を失ったあと捕虜になった彼は、不正と腐敗に染まった南の
る新しい生命の象徴といえるからである。生命に対する畏敬
資本主義社会を選択することができず、かといって、人民を
の念は、彼自身を二人の真実の愛の結晶を受け入れられない
口実にして独裁的権力を振り回す北の共産主義の偽善や嘘を
ような状況に仕向ける。こうした点からみると、戦後世代の
選択することもできず第三国を選択する。それは、北朝鮮の
小説は、反共意識で武装した伝統的なヒューマニズムを通し
共産主義や韓国の資本主義が外部から輸入された名目上のイ
て設定された善悪の対決構図を実現し、戦争の被害者として
デオロギーに過ぎず、韓国社会の内的必然性により選択され
の人間の不条理さを形象化している反面、『広場』は理念と現
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© 韓国映像資料院
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1 機関銃が据え置かれた捕虜監視哨所から眺めた 巨済島の捕虜収容所。 2 朝鮮戦争とその傷跡を題材にした文学作品を土 台にして作られた映画〈火花〉 、〈カインの後裔〉 の場面と映画〈剰余人間〉 のポスター。
実との乖離に苦痛を強いられる個人と、その個人が真実の愛
いる社会を自らが選択することができるという、自由主義と
を見つけるにあたり高い代価を支払うということを通して、
個人主義の意識の所有者である。4.19学生革命を通じて自由
近代的意味合いでの個人の登場を形象化している。そのため
民主を獲得した経験がある彼らは、自身が属した社会体制が
この小説はストーリーを伝える際、単線的な叙事ではなく、
自らの意志と反する時、自らの意思表示を躊躇しない。彼ら
話の展開が遅滞したり、過去に戻る近代的諸相を有してい
は個人と個人、個人と社会との葛藤や対立の正体を明らかに
る。こうした点からみると『広場』は、朝鮮戦争を一次元高く
し、産業化、商業化される市場経済体制の中での己の立つ位
解釈した卓越した作品でありながら、第三世代の文学を予告
置を模索している。ゆえに彼らの文学は多様で個性が際立っ
した作品である。
ているが、作品中には朝鮮戦争の痕跡があり、時にその戦争 そのものを全面的に扱ったりもする。ある作家は、幼年時代
第三世代作家が顕わにした戦争の傷跡
に負った精神的なダメージを内面に抱えながら日常を送る
第三世代は、幼年時代に避難民の隊列、もしくは後方
が、ある一定の条件が揃うとその傷が絶えずぶり返し苦痛に
で体験した朝鮮戦争の記憶を持つ世代として停戦後10余年
あえぐ主人公を描いている(李淸俊、徐廷仁、金源一、朴泰
が経ってから創作活動を始めた作家のことを指す。解放後に
洵)。また、戦争で親を亡くしたり、もしくは生き別れた父
初めてハングルを学び、ハングルで思索し、ハングルで表現
親不在の家庭で、幼いながらも一家を支えなければならない
した「ハングル世代」として、4.19学生革命を主導したという
家長の責任を一身に背負った主人公を描いた作家もいる(金
ことから「4.19世代」とも呼ばれている。ここに属する作家
周榮、金源一、柳在用、趙海一、趙善作)。その他にも、理
は、金承鈺、李淸俊、朴泰洵、徐廷仁、洪盛原、金周榮、趙
念的な違いで父親不在をさらけ出すことができず、虚無意識
海一、金源一、全商國、柳在用、趙善作、尹興吉などであ
に苛まれ彷徨う個人を主人公にして、自らのアイデンティ
る。彼らは朝鮮戦争に対する幼い頃の記憶を持っており、父
ティーに質問を投げかける人物を描いた作家もいる(金承鈺、
親の世代と共に生活する中で彼らの根底にある戦争の傷跡を
金源一)。一方、戦死した孫の亡骸と対面する祖母の心の痛
見つけ、更にそれは現実の暮らしと繋がっていることを発見
みや故郷に帰る夢を果たせずこの世を去った、失郷民である
する。彼らは民主主義教育を受けた世代で、自身が暮らして
父親のハン(恨)を題材に、戦争の傷跡、ひいては分断の傷跡 夏号 2010 | Koreana 37
『広場』 は、分断された二つの体制を客観的で根本的な側面から扱った新しいタイプの小説である。理念と現実との乖離に 苦痛を強いられる個人と、その個人が真実の愛を見つけるにあたり高い代価を支払うということを通して、近代的意味合 いでの個人の登場を形象化している。
が韓国人の生きざまに根深く残っているという、痕跡を描い
争後、歳月が流れたが、分断の現実がなお存在するというこ
た作家もいる(尹興吉、柳在用、全商國)。また、ある作家は
とは、この世代が戦争の後遺症で直に苦しんでいることを示
私たちの社会を構成しているあらゆる集団、あらゆる階層、
す。言いかえれば、朝鮮戦争第一世代の死は、小説の中で第
あらゆる身分の人が経験している朝鮮戦争の全貌を形象化、
三世代の人生という現実を意識させ、問題化しているといえ
戦争の暴力性とイデオロギーの虚像を暴くことにより反戦思
よう。死がすなわち生となるこの逆説的な現実が、分断した
想を具現する(洪盛原)。第三世代作家は、直接、朝鮮戦争に
韓国が背負っている苦しみなのではないかと思われる。
参与しなかったにも関わらず、それが今日の彼らの人生にど のような形で残っており、どのような影響を及ぼしているの かを常に問いかける。それは、彼ら個人の存在に歴史的文脈 を付与するもので、近代的自我の発見に該当する。
第四世代に残された課題 だとすれば朝鮮戦争の傷を治癒することはできないの であろうか。もちろん統一がなされず、このまま分断の現実
こうした第三世代作家に1980年代以降、見受けられる
が続けば、根本的な治癒は不可能である。しかし、2000年代
現象は、主人公の死を基本モチーフにした作品が多いことで
中盤に発表された黄晳暎の『お客さん』は根本的な治癒とまで
ある。いうなれば、これは1950年代のはじめ朝鮮戦争に直
はいかないが、怨恨や憎悪を解くことのできる可能性を提示
接参与したり、戦争を体験した主役たちが実際にこの世を去
している。彼は、自生的近代化を成し遂げられなかった我が
る年齢に達していることを意味する。忘れ去られようとして
民族が外来思想に陥り、挙句の果てに互いに殺し合う血の惨
いる6.25戦争は、彼らの死を通して第三世代作家の記憶を呼
劇を招いたと診断する。ここでいう外来思想とは社会主義と
び起こし、それらが有している現実的な意味合いを再
キリスト教を指すのだが、作家はこれを「ソンニムママ[天然
び浮き彫りにして いるのである。戦
痘の別称]」と呼ぶ。この作品は古くて根深い怨恨で傷を負っ た霊魂たちを治癒し、暴力の誘惑から解き放してあげること により、南北が共存できる道を開こうとする。作家は「未だ 朝鮮半島にさまよう冷戦の霊魂たちをこのクッ、祈りの儀式 で静まらせたい」と語る。ここでいうクッとは、『お客さん』 という作品を指す。死んだあとも安らかに永眠することがで きず、この世を彷徨っている霊魂から悪霊を追い払い、安ら
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朝鮮戦争とその傷跡を題材にした文学作品を 土台にして作られた映画〈太白山脈〉、 〈ヨンジ ャの全盛時代〉、〈旗なき旗手〉、〈長雨〉 、〈霧〉 の場面。
© 韓国映像資料院
朝鮮戦争関連の文学作品目録 李淸俊:うわさの壁、調律師、阿呆と間抜け、白衣 李東河:おもちゃの都市 李炳注:智異山 李浩哲:脱郷、小市民 李文烈:英雄時代
かに永眠させてあげることは、無念な想いで亡くなった霊魂
林哲佑:父の地
たちの話を聴いてあげることだと作家は語る。
呉尚源:白紙の記録
ここで李淸俊が1994年に発表した『白衣』での言葉を想
呉貞姫:幼年の庭、チャイニーズタウン
起する必要があるだろう。彼はこの作品の中で、ある田舎の
金周榮:雷の音、息子の冬
山奥に今だ「墓もなく白骨化し、あちこちに転がっている数
金承鈺:ソウル1964年の冬、霧津紀行
多くの亡骸たち」、即ち「左翼遊撃隊の亡骸も」 「右翼討伐隊の
金東里:興南撤收
亡骸も」今となっては「思想や理念の色がことごとく色あせた 白骨」として残っている全ての魂魄を一箇所に呼び集めて慰
金源一:庭の深い家、夕焼け 徐基源:暗射地図、この成熟した夜の抱擁 徐廷仁:円舞
労しなくてはいけないと主張する。これは遊撃隊や討伐隊だ
鮮干煇:火花、旗なき旗手、追跡のフィナーレ
けでなく、戦争の渦中に双方で犠牲になった無数の良民たち
孫昌渉:神の戯作、剰余人間、未解決の章、雨の降る日
の名もない霊魂たちを安らかに弔う慰霊祭のような過程を経
崔仁勳:広場
てこそ、南北の和解と平和が可能であるという主張である。
張龍鶴:円形の伝説、ヨハン詩集
しかし、真の慰霊祭は、戦争当事者である第一世代ではない
趙廷來:太白山脈
戦争と関わりのない第四世代により執り行うことができると
趙善作:ヨンジャの全盛時代
いうことを作家は暗示している。それは、彼らだけがどちら にも偏らず客観的な目で両方の犠牲者たちを共に慰めいたわ
趙海一:アメリカ 全商國:アベの家族、高麗葬 河瑾燦:渡し舟のはなし、哄笑、王陵と駐屯軍
ることができるからである。いまも北朝鮮が攻めてくるとい
朴景利:市場と戦場
う悪夢や不吉な夢に苛まれている既成世代の限界を、李淸俊
朴泰洵:崩れた劇場
は適切に指摘している。
黄晳暎:お客さん
韓国文学は、朝鮮戦争がいまだ停戦状態という現実を覚
黄順元:カインの後裔、木々傾斜に立つ
醒させ、一刻も早く真の平和が訪れることを願いつつ、韓国
洪盛原:D-dayの兵村、南と北
人の心の奥底にある朝鮮戦争の傷跡を治癒しようとしている。
柳在用:姉の肖像、巨木
それは戦争のない世界を目指す韓国人の夢を代弁している。
尹興吉:長雨、母 廉想渉:驟雨
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世界の中の韓国 大韓民国は、過去、私たちに救いの手を差し伸べてくれた国々から受けた貴重な支援を 忘れずに、その恩に報いようと努力しており、わが国の開発経験を開発途上国と共有す るため、政府開発援助(ODA)を拡大している。地球村の貧困を退治するための努力が可 視的な成果をあげられるように、先進国と開発途上国との間のかけはし的な役割を果た そうと努めている。 リ・テジュ(李泰周、漢成大学校教授)
韓
国は世界で最も貧しく、絶望的な焼け野原の状態から、経済規模13位の世界の中心国家と して変貌を遂げた。2009年に韓国は、経済開発協力機構(OECD)の先進供与国クラブであ
る開発援助委員会(DAC)に加入、2010年11月にはG20頂上会議をソウルで開催し、気候変動への 対応と金融改革、貧困退治および紛争解決など地球村共同の問題を解決する上で中心的な役割を 担うこととなった。
援助を受ける国から供与国へ 過去の韓国を喩えるなら、国際援助のデパートといえよう。韓国は解放後、国際社会の緊急 援助と食料援助、戦後復旧支援や経済開発に必要な資金と技術支援を受け、 1990年代に至るまで総 127億ドル(現在の価値にして約600億ドル)に達する莫大な援助を受けた。韓国人が現在も鮮明に記 憶している国立医療院、韓国科学技術院(KIST)、浦項総合製鉄(POSKO)、ハンドク職業訓練院、京釜 高速道路など、全て国際社会の支援により作られたものである。ここで注目すべきは、数十年間、 国際社会の支援を受けた国の中で韓国だけが世界で唯一、援助を施す供与国となったことである。 これには世界が驚き、驚嘆すべきことといえるが、エクハルト・ドイチャーDAC議長は 「韓国のDAC の加盟は世界の多くの貧困国家に私たちもやればできるという自信感を植えつけてくれたサクセス ストーリーであり、伝統的な南北問題を克服する象徴的な出来事」 と評価している。 朝鮮戦争で大韓民国を助けた21カ国のうち、韓国が開発援助(ODA)を通じて支援している国 は、エチオピア、フィリピン、コロンビア、タイの4カ国である。今後、韓国政府はこれら参戦 国と、経済発展経験を共有するため、知識共有事業(KSP)など、公的開発援助を拡大する計画であ る。朝鮮戦争当時、16カ国の参戦国と5つの医療陣派遣国の以外にも現金と物資を支援した32カ 国は、現在そのほとんどが開発途上国であり、カンボジア、ミヤンマーのように経済が非常に貧 1 2009年11月に開かれた第 3回ODA(政府開発援助)ソ ウル国際カンファレンス
しい最貧国も多い。
2 韓国国際協力団によるエ チオピアでの医療奉仕活 動の場面
後、重点協力国家となった。朝鮮戦争の参戦勇士の村、イェカには小学校を建て、飲み水の問題
40 Koreana | 夏号 2010
アフリカの最貧国であるエチオピアは、わが国の「アフリカ開発イニシャティブ」計画の発表 が深刻なこの国に井戸開発事業を大々的に推進し、数多く支援している。朝鮮戦争当時、我々よ
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© 韓国国際協力団
夏号 2010 | Koreana 41 © 韓国国際協力団
り遥かに生活が豊かであった友邦国家であるフィリピンには、国土開発事業や公団の造成、火力 発電所の建設妥当性の調査、空港施設の改善、配電設備改善、職業訓練院、IT訓練センター、米穀 総合処理場、親善病院、水産物加工工場、肺疾患センターなどを建てた。また、地球の裏側より 5,100名を派兵し、我々を助けてくれた南米コロンビアの首都、ボゴタ市にはリハビリ病院を建 て、医療施設改善事業を支援している。更に、韓国のIT技術を伝授し、コロンビア政府の情報通 信分野発展のための技術諮問や技術協力を施行している。派兵国であるタイでも貧民層の学校を 建て、韓国語センターの設立と韓国学の育成を支援、農村開発と営農技術の支援、奉仕団の派遣 を通じ、両国間の協力関係を強化している。 このように大韓民国は、過去、私たちに助けの手を差し伸べてくれた国から受けた貴重な支 援を忘れずに、その恩に報いようと努力しており、わが国の開発経験を開発途上国と共有するた め、政府開発援助(ODA)を拡大している。わが政府は2015年までに国民総所得(GNI)の0.25%に 相当する、30億ドルに近い公的開発援助の目標を立て、毎年、援助予算を大幅に増やしている。
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韓国政府は、対外援助の量的な拡大のみならず、より良い援助、暖かい援助に向けて努力してい る。2011年にはOECD/DACと共同で、第4回援助効果に関する閣僚級会議(HLF-4)をソウルで開 催する予定である。
中国、交戦国から同伴者へ 一方、朝鮮戦争当時、交戦国であった中国は、長い絶対貧困の状態から抜け出し、ブラジ ル、インドなどと共に、新興供与国として急浮上、伝統的な非同盟グループ77 (G77)のリーダ役 として中国は、DAC中心の西ヨーロッパ諸国の援助を補完する南南協力を拡大している。これに対 し韓国は、ヨーロッパ供与国中心の伝統的な援助体系に中国、ブラジルなど、新興供与国の開発 援助と南南協力方式の援助とを調和させることによって、新しいグローバル援助体系を作り、地 球村の貧困を退治するための努力が可視的に成果をあげられるように、先進国と開発途上国との 間のかけはし的な役割を果たそうと努力している。今後、世界の新しいスーパーパワーとしての 中国の急速な経済成長と国際社会における影響力の拡大は、国際開発援助体系でもあらわれてお り、韓国との同伴者の関係は更に強化されるであろう。 42 Koreana | 夏号 2010
韓国は開発途上国や最貧国が直面している全ての困難を既に経験し、これを賢く克服した国 家といえよう。他の全ての開発途上国と同様に韓国は、植民地収奪を経験し、国連の支援下に民 族国家を樹立し、同じ民族が相争う戦争と分断の悲劇を経験した。近代化の過程においても絶対 貧困と軍事独裁、民主化の噴出と社会混乱の中であっても民主主義と経済成長という二つの目標 を同時に達成した奇跡的な国といえる。そこで韓国の経済発展と民主主義の奇跡は、全ての開発 途上国にとって希望であり、可能性である。よって韓国はこうした貴重な経験を、開発途上国と 共有することを望んでいる。他の先進国とは異なり、韓国の対外援助は、開発途上国の実情によ
エクハルト・ドイチャーDAC議長は、「韓国のDACの加盟は世界の多くの貧困国家に私たちも やればできるという自信感を植えつけてくれるサクセスストーリーであり、伝統的な南北問 題を克服する象徴的な出来事」 であると評価している。
© 韓国国際協力団
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り適合するあたたかいもので、かつ希望を与え成果をあげる、より良い援助になりえると確信す る。
1 ハイチ緊急医療奉仕活動 の現場 2 スワジランドでの飲み水 及び衛生事業の現場
民間の海外ボランティア活動
3 エチオピアでの小学校校 舎建設支援事業の現場
グローバルコリアやピースコリア、グリーンコリアに向けた韓国の努力は止まることを知ら ない。世界の辺境の地から中心国家の一つへと、援助を受ける国から供与国へと変貌し、環境を 考慮した成長を主導する韓国では、最近、政府だけでなく、大学と民間企業、市民団体に至るま で海外ボランティア活動のブームが起きている。政府は5年間、海外奉仕団を2万名派遣すると いう計画を発表し、世界と友だちになる「World Friends Korea」という統合奉仕団のブランドも立 ち上げた。民間団体や大学、宗教団体などで派遣される奉仕団の全てを含めると、年間海外奉仕 団の数はすでに数千名に達しており、全世界の隅々に至るまで韓国の青年が奉仕活動をしていな いところはない。このような分かち合いのための実践の経験を通じて、世界と共に生きるグロー バルコリアが実現される。世界の痛みと悲惨さを他人事ではない我が問題とする世界市民意識が 拡散されることにより、本物のグローバルコリアが具現されるのである。 夏号 2010 | Koreana 43
インタビュー
1 2010年バンクーバー冬季オリンピックのガラショーで「タイスの瞑想曲」 に合わせて新しいプログラムを演技するキム・ヨナ。 2 2009~2010 ISUグランプリシリーズ、ファイナル大会で逆転優勝した後、ガラショーでリアーナ
|t夏号 44 Koreana の Don’ Stop2010 the Music’にあわせて溌剌とした演技を繰り広げるキム・ヨナ。
「ミ
シェル・クワンよりももっとすばらしい選手になりたい」 2003年韓国のフィギュアスケート国家代表の一人が世界的な名選手クワ ンを乗り越えたいという抱負を述べた。1998年長野オリンピック
の銀メダリストのクワンは世界トップの選手だ。韓国の国家代表に選ばれた ばかりの少女のクワンを越えたいという発言は無謀にしか聞こえなかった。特 に劣悪な韓国のフィギュア環境を考えれば夢のような話だった。当時韓国のフィ ギュア選手は50人に過ぎず、専用のアイスリンクさえなかった。 その少女、キム・ヨナ(20)はあらゆる面で他の選手とは違っていた。目標点が 違うだけに練習も特別だった。同年代はもちろんのこと、年の離れた選手たちと 比べても韓国内ではすでにライバルがいなかった。キム・ヨナの視線は世界に向 いていたのだ。それから7年経った今、キム・ヨナはその「クワンよりもすぐれた 選手」になった。いや、すでにそれ以上の存在になったのだ。
ジャンプの教科書 キム・ヨナは5歳のときに始めてスケート靴をはいたが、それはまだ遊びの段 階だった。本格的にフィギュアを始めたのは1996年6歳の夏のことだ。自宅近くの 果川市民会館に室内リンクが出来たのだ。一緒に特別講習に通った姉は数ヵ月後には やめてしまったが、彼女はスケートを続けた、家では漫画映画の変わりにフュギュア 選手のビデオを見るほどになった。 上級班の講習も終わる頃、当時指導していたコーチが「選手になってはどうか」と 勧めた。母の朴美姫さんはコーチの「フィギュアの才能がある」という話を聞いても すぐにはオーケーサインを出せなかった。少なくとも10年以上続けさせるには 多くのお金が必要だったからだ。はたして選手になることを選択すると、そ れまで4万9千ウォンだった受講料が35万ウォンに跳ね上がった。9万ウォン のスケート靴も100万ウォンのものに変えなければならなかった。生活もフィ ギュア中心となっていった。
世界のトップに立った フィギュアスケート選手、
2
キム・ヨナ 2009年の世界選手権優勝後、「バンクーバーオリンピックの表彰台の一番上に立っている姿を 思い浮かべていた」と語ったキム・ヨナ選手が、2010年バンクーバーオリンピックで金メダルを とり、見事その夢を叶えた。人々に感動と幸福を与えるスケーターを追及する彼女の次なる 目標は何か、今世界が注目している。 キム・ドンウク(金東昱、東亜日報スポーツレジャー部記者)
1
夏号 2010 | Koreana 45
当時指導者だったシン・ヘスクコーチは「ヨナは他の生 徒たちが自由時間を楽しんでいるときに一人で明日の練習 に使う手袋を洗っていた」と回想する。それだけ熱心だった し、氷の上では誰よりも真剣だった。さらに負けず嫌いだっ た。負けるのは我慢できず、何をするのにも死に物狂いだっ た。「ヨナは他の子たちが一度する練習を二度しました。1 年間に2年分の練習をしたようなものです」と母は当時を振 り返っていう。練習も誰よりも熱心だったが基本を守って訓 練した。今彼女のジャンプが「ジャンプの教科書」と呼ばれる のも、基本を守りながらの訓練を続けたおかげだという。 「一度身についた習慣は本当に変えることがむずかしい んです。フュギュアのように正確な動作を採点する種目では 悪い習慣は大きな障害になります」とキム・ヨナは言い切る。
最年少の国家代表 2002年、最初の国際大会だったトリグラフトロフィ大 会で優勝しキム・ヨナはその名を始めて世界に知らしめた。
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そして2003年には最年少の国家代表選手に選ばれた。しかし その喜びに浸る間もなく。日曜日を除いた毎日、朝10時から
でブライアン・オーサーコーチと出会ったのだ。彼女を見て
始まる訓練は、日付のかわった翌日の午前2時に床につくま
オーサーコーチは「トータルパッケージ」と呼んで感嘆したと
で続いた。
いう。結局彼は、キム・ヨナの要請を受け入れ生涯で始めて
1年後、キム・ヨナは韓国フュギュアの歴史を塗り替え
の弟子をとることになる。ウイルソンコーチと出会えたこと
る。2004年ハンガリーのブタペストで開かれた国際氷上連盟
も彼女にとっては幸運だった。恥ずかしがり屋だった彼女は
のジュニアグランプリ大会で優勝したのだ。1908年にスケー
ウイルソンコーチと出会い、自分を表現できる少女に変わっ
トが初めて韓国に入ってきて以来、フュギュア種目で国際公
ていく。ウイルソンコーチはキム・ヨナの初印象について、
認大会で優勝したのはキム・ヨナが始めてだった。彼女は優
「ヨナは痩せっぽちの非常に長い手足をもった、深刻な顔の
勝したあと、「みんなの鼻をへし折ってやったわ。よくやっ
少女だった。「私の任務は無表情なヨナを笑わせることだっ
たでしょう、ママ。じきにもっとすごいことをやるから、
た」と回想している。オーサーとウイルソンの二人のコーチ
待っててね」と母に電話で告げて、更に高いところを目指し
が彼女に翼をつけ、彼女はその翼を羽ばたかせて世界の舞台
ていた。
へと飛び立っていったのだ。
危機もあった。キム・ヨナは2006年の世界ジュニア選手
以後、彼女は各種世界大会で優勝することになる。2006
権大会の準備中にも一時、引退を考えたという。理由はス
年始めてシニアの舞台にデビューしたヨナは最初の大会であ
ケート靴のせいだ。4ヶ月は履かなくてはならないスケート
るグランプリスケートカナダで3位に入る。そして世界選手
靴が彼女のハードな訓練のせいで1週間で履けなくなってし
権大会では負傷という悪条件の中でも銅メダルを手にした。
まうのだ。いくら他のスケート靴に変えてみても同じだった。
「3位がむしろ良かったのかもしれません。シニアの冒
幸い、グランプリファイナル以後、彼女にあったスケート靴
頭からトップに立てば、その次は1位を守るのに汲々として
を無料で提供してくれる会社が現れ、その問題も解決した。
いたかもしれません。トップに立つチャンスはまだたくさん ありましたから」
オーサー&ウィルソンとの出会い
その言葉どおり、その次のシーズンからキム・ヨナは
2006年、キム・ヨナのフィギュア人生に新たな転機が訪
トップに立ち始める。2007~2008シーズンには3個のグラン
れた。振付師のデビッド・ウイルソンに会いに行ったカナダ
プリ大会で優勝した。しかし2008年3月スウェーデンで開か
46 Koreana | 夏号 2010
1 2010年バンクーバー冬季オリンピックのフィギュアスケート女子シ ングルで優勝、金メダルを首にかけたキム・ヨナ。 2 サン=サーンスの「死の舞踏」に合わせて華麗なショートプログラム を演技しているキム・ヨナ。
導入され、その後は一人も200点を越える選手はいなかった。 キム・ヨナは「私の点数に自分でも驚きました。実際に200点 を越えると、良い経験をしたと思うようになりました。今後 も新記録を再び立てることができるのか、心配にもなります が、乗り越えられないにしても、今の気持ちを維持していき たい」と語っている。 しかし彼女の心配は取り越し苦労に過ぎなかった。7ヶ 月後に開かれた2009年10月のグランプリ第1次大会で210.03 点を取り、彼女は再び自分の記録を塗り替える。ライバルと いわれた選手たちに30点以上の差をつけてのことだ。続いて 開かれたグランプリ第3次大会とグランプリファイナルでも キム・ヨナは優勝する。 2
韓国ではキム・ヨナブームが高潮し、ファンの関心が彼 女を苦しめるこほどだった。前シーズン京畿道高陽市で開か
れた世界選手権大会を前に彼女は股関節の負傷による痛みに
れたグランプリファイナルで彼女は、韓国の観衆たちの過度
襲われる。鎮痛剤を打ちながら出場し彼女は銅メダルを手に
な応援と関心によりよい成績をあげられなかった。後に彼女
した。大会期間中、記者の見たキム・ヨナは本当に精神力の
は「フィギュアは応援よりは観覧をする種目なのに、集中力
強い選手だった。彼女の母は娘の競技を見ながら涙を流すこ
を維持するのがむずかしいほどの熱を帯びた組織的な応援は
とが多かったが、彼女はむしろそんな母を慰めていた。「競
困惑するばかりで、本当に辛かった」と当時の心境を語って
技を放棄しようかとも考えたが無心で最善を尽くした。それ
いる。しかしキム・ヨナは常にファンには感謝しているとい
だけに3位という結果でも思い残すことはなかった」と当時
う。「ヤマイヌ」と呼ばれる彼女のファン層は老若男女を問わ
を述懐するキム・ヨナ。
ず幅広く、フィギュアに関する知識も並外れている。彼女の
優勝はできなかったものの韓国ではキム・ヨナの人気は
海外での競技にもついて行き応援している。時には韓国の一
うなぎのぼりになっていった。キム・ヨナを見てフィギュア
般観客から「行き過ぎた関心」だと指摘されるが、主要大会の
スケートを習おうという子供たちも急激に増えていった。コ
たびに現地で取材してきた記者の目からみれば、海外のフィ
マーシャルにも登場し、彼女は韓国で一番人気のあるCMス
ギュアファンはキム・ヨナのファンを「積極的で情熱的」と評
ターとなった。
価している。
夢の200点を越える
世界新記録と金メダル
「フィギュア選手として夢があります。世界選手権大会
キム・ヨナは2010年バンクーバーオリンピックの前から
で優勝することです。万一、この夢が叶えばオリンピックの
フィギュアの専門家と記者たちから優勝候補のナンバーワン
金メダルに挑戦したいです」
だと言われていた。アメリカのシカゴトリビューのフィリッ
2008年3月世界選手権大会を前にしたキム・ヨナの言葉
プ・ホシ記者は 「キム・ヨナはあまりにすばらしく、すでに完璧
だ。キム・ヨナがそれほど望んでいた世界選手権大会での優
なのにつまらない手を入れているほどだ。他の選手たちとは
勝という夢は、2009年にアメリカで開かれた世界選手権大会
別のリーグで走っているようだ」 とその真価を誉めたたえた。
で実現する。それも夢の点数と思われていた200点を越える
このような分析どおりキム・ヨナは自分の最後の夢の
207.71点を記録してのことだ。2002年新しい採点システムが
舞台で自身の真価を余すところなく発揮した。「最高のコン 夏号 2010 | Koreana 47
1 彼女はずば抜けた技術と繊細な表現力を可能にする完璧 な身体構造を備えていると評価されている。 2 ショートプログラム「007ジェームスボンドのメド レー」の最後、この銃を撃つ場面は彼女のトレードマーク となった
「私はまだ完成したわけではない。私は成功したスポー ツスターではなく、絶え間なく成長する人間として記 憶されたい。夢のために最善を尽くして駆けていくす ばらしい選手、努力する人間〈キム・ヨナ〉として記憶さ れたい」-キム・ヨナ自伝エッセー『キム・ヨナの7分ド ラマ』から。
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ディション」だというほど、彼女の演技は完璧に近かった。
演技をし7位にとどまった。フリースケートで善戦し1位と
すべてが完璧だったが、では競技前にプレッシャーはなかっ
なり、総合2位の成績となった。彼女は競技終了後「オリン
たかと言えば、それは嘘だろう。キムヨナは普段からファン
ピック以後、こんなに大変だとは思わなかった。世界フィ
に「大物」だと呼ばれてきた。それだけ強心臓だということ
ギュア選手権大会への参加を後悔している」と語っているほ
だ。しかし自分の夢だと言っていたオリンピックの舞台は
どだ。大会1週間前になりようやく本格的な練習を始めるこ
違っていた。プレッシャーはどうしようもなかった。彼女は
とができたというほど、彼女は精神的に疲れていた。キム・
競技前は記者会見やインタビューで一切の質問を受けなかっ
ヨナには休養が必要だった。そして自分の未来を考える時間
た。つまらない質問で心を乱されたくなかったからだ。彼女
も必要だった。
の表情にはそれまでの大会では見せたことのなかった悲壮感 さえ漂っていた。明らかに表情が違っていた。 キム・ヨナはだれも予想だにしな
キム・ヨナはオリンピック優勝の後、韓国で最高の人気 スターとなる。彼女の一言、一挙一動が話題となる。もう 韓国の町をのんびり歩くなどという
かった世界新記録228.56点を更新し、
ことはできない状況だった。彼女の
切望していたオリンピック金メダルを
登場するテレビコマーシャルも毎時
見事手にした。
間放送され、彼女の名前のついた商
「長い間、練習しましたが、準備
品まで出た。彼女の着た服やかばん、
したものをすべてお見せして金メダル
携帯電話、化粧品が流行し、該当売
をとることができ本当にうれしいで
り場では商品が底を尽き、売り切れ
す。オリンピックだからこそ無心に、
状態が続く。ダイアリー、パン、イ
負担無くうまくできたようです。自信
ヤリングには「キム・ヨナ」という名前
があったので、緊張もしませんでし
さえつければ、それだけで売れた。
た。その間、プレッシャーを無くすこ
キム・ヨナは2000年代を代表する韓
とが一番大きな課題でしたが、肩の荷
国の代表的なアイコンとなったのだ。
をおろしたようでほっとしました。オ
さらに、彼女はアメリカのタイム誌
リンピックでチャンピオンになったこ
選定の <2010年影響力ある人物 100
ともうれしいですが、同時にすべて終
人>に選ばれたりした。
わったことがとてもうれしいです」 すべてを成し遂げたキム・ヨナの
2
キム・ヨナにより韓国のフィギュ アスケート界も大きく変わった。キ
表情は競技の前とは違っていた。ほっとした表情、すっきり
ム・ヨナ以前と以後といわれるほどだ。彼女を見てフィギュ
した顔とでもいおうか。周囲の人々と冗談を交わし、楽しそ
アスケートに入門した選手たちも以前に比べて10倍以上増え
うにしていた。競技後に行われた「韓国選手団の夜」でキム・
た。有望なジュニア選手たちも登場し始めた。しかしまだ道
ヨナに浴びせられたサインと写真撮影要請の嵐はすさまじ
程は遠い。専用のリンクも一つもなく、彼女以外にはそのあ
く、疲れた顔をしていた。しかし記者の首にかけた写真入り
とに続く世界的な選手も見当たらない。
の身分証明書を見て「実物よりも写真の方がずっといいです
すでに韓国ではキム・ヨナが万一、引退すれば韓国の
ね」と言った彼女の顔には夢をかなえた少女の幸福な笑みが
フィギュアがまたそれ以前の状態に戻ってしまうかもしれな
広がっていた。
いと憂慮する声も聞かれる。 キム・ヨナは「フィギュア無しの生活は考えられない。
韓国最高のアイコンに
引退した後は幼い選手たちを教える指導者になることも出来
オリンピック終了後、キム・ヨナはしばし混迷したよう
る」と語っている。キム・ヨナはすでにたくさんのことを成し
だ。目標を成し遂げ、これ以上チャレンジするものがない虚
遂げてしまった。あまりに早い時期に世界のトップに立った
しさに襲われたのだ。20日余り後に行われた世界フィギュ
彼女だけになおさら、韓国のフィギュア界と国民が彼女の未
ア選手権大会で彼女はショートプログラムでシーズン最悪の
来を期待に満ちたまなざしで見つめているのだ。 夏号 2010 | Koreana 49
巨匠
50 Koreana | 夏号 2010
国
土の70%が山で占められている韓国は、その地形
扇)と折りたためるプチェの扇子に分けることが出来る。団
的な条件などから地域的特色が顕著だ。その中で
扇とは竹の骨組に絹や韓紙を貼り付けて作った丸形の扇で、
も全羅道は広く拓けた平野が広がる穀倉地帯で、 「パング」とは丸いという意味だ。漢字では団扇、または円扇
西海と南海に面しており、温暖な気候の地域として昔から多
と書く。一方折りたためるタイプの扇子は摺扇、または摺畳
方面の芸術が発展してきた。「韓国のソリ(歌声)」といわれ、
扇ともいう。韓国の扇はその技術がすぐれており、外国への
韓国人の情緒に深く溶け込んだ民俗歌謡パンソリもここ、全
贈り物としていろいろな国に贈られており、高麗時代に発
羅道で始まったものだ。今も全羅道の田舎道で出会った見知
明された折りたたむことのできる扇子は中国や日本にその技
らぬお年寄りにパンソリの一節を頼むと、気軽にそして浪々
術が伝わった。扇子よりもその歴史の古い団扇は、扇の形と
と沈清歌の一節を歌ってくれる。また全羅道では温かい気候
その色彩や模様が多様だ。団扇の真ん中に太極模様の描かれ
の影響で、ひんやりした気運を秘めた竹林が多く、多様な竹
た太極扇、団扇の模様が桐の葉の形の梧葉扇、芭蕉の葉のよ
工芸品が発展した。暑い夏にはこの竹工芸品がその真価を発
うな形の芭蕉扇、竹の骨を細くして骨をたくさん入れた細尾
揮する。家の入口にかけられた竹すだれは真夏の日差しをさ
扇、五色の糸で刺繍を施した繍扇、扇面全体が丸い形で車輪
えぎり、竹夫人(竹で編んだ円筒)は夏の抱き枕として涼を呼
の形の輪扇、黄漆の木からとれる黄漆を扇面に塗って黄金色
び、竹のトシ(腕抜き)は服の通気性を良くする。
を帯びてほのかな香りもする黄漆扇、両手で持たなくてはな
風を起こし暑さをおさえる小道具のプチェ(扇)もまた、
らないほど大きい大圓扇などがある。
竹で骨組を作りそこに丈夫な韓紙を貼り付けて作る。扇作り
チョ・チュンイク(趙忠翼)さんは団扇を作る扇子匠だ。
職人のことを韓国では扇子匠という。朝鮮時代には全羅北道
全羅北道長水で生まれ育った彼は29歳で全州で太極扇と出会
全州に扇子庁がおかれ、国で扇を生産し管理していた。その
い、団扇作りを始めた。
ため「プチェ(扇)といえば全州」といわれるほど全州は扇で有 名だ。チョ・チュンイク(趙忠翼、63歳)さんは全羅北道無形文 化財第10号の扇子匠技能保有者だ。
太極扇の作図法を確立 「南原広寒楼周辺で春香伝を民画に描いた小さな屏風を 観光記念品として作り、それで生計を立てていました。ある
団扇の種類 韓国のプチェ(扇)は大きく分けて、パングプチェ(団
とき、やはり観光記念品として売られていた太極扇が目につ きました。全州の太極扇は端午の節句の時に王様に献上され
美しい風を作る
扇子匠、趙忠翼 韓国のプチェ (扇) は大きく分けて、団扇(うちわ)と折りたためる扇子とがあり、 団扇の方が歴史が古く種類も多様だ。全羅北道無形文化財第10号のチョ・ チュンイク (趙忠翼) さんは、扇子匠の技能保有者として、扇で有名な 全州で30年以上にわたり伝統団扇を作り続けてきた。一方で、創 意的なデザイン性のある団扇を100種類以上も創作してきた。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 安洪范
太極扇の作道法を確立し、伝統団扇の世界に飛び込み30年以上団扇を作り続けている チョ・チュンイク(趙忠翼)さん。 夏号 2010 | Koreana 51
たほどのものですが、その団扇は太極の模様が歪んでいました。私の考えでは春 香はあくまでも春香であるべきであり、母親の月梅でも、下女のヒャンダンでも いけないのです。団扇も同じ事です。それで太極扇の作図法を作り、きちんとし た太極扇を作りました。それまでは目算で描いていたので太極の線 の太さや長さ、比率などがばらばらだったのですが、作図法で 正確な太極模様を作ったところ、まず私自身が満足し、そ して人々もその違いを分かってくれました」 パンソリの一節のように雄弁に語るチョ・チュンイ クさんは天と地と人を表す韓国の代表的な模様、三太極 マークを扇にきちんと具現し、だんだんとその名が知ら れるようになっていった。三太極は天地人を天を青色、 地を黄色、人を赤色で象徴している。1982年のニューデ リーアジア大会にはじまり、1986年のソウルアジア大会、1988 年のソウルオリンピック、2002年の韓日ワールドカップのような 各種国際大会の開幕式や閉会式で、韓国選手団が行進する際に手にし ていた太極扇は彼の作品だ。 「太極扇を作りながら韓国の伝統的な扇の世界がどれほど広く深いのかを 知りました。消え去りつつある昔の扇を再現していきました。他の無形文化 財の先生方のように師匠がいてその師匠に弟子入りして教わったのではなく、 何々扇作りの名手がいると聞けば尋ねていって学んだものです。梧葉扇、芭 蕉扇、細尾扇、大圓扇。一つひとつ再現していくうちに新しい形の扇を作ろう という気になりました。扇の面に片っ端から民画や草花、魚のような模様を精巧 に描いていき、だんだんと新しい扇ができてきました。世界で最も大きな団扇も 作ってみました。幅が270cmの長さが420cmです。そうかと思えば世界で最も小 さな団扇も作りましたが、幅2.5cmで長さが5cmです。また世界で最も骨の 多い扇子も作りましたが、これには8千本ほどの竹ひごをつかいまし た。孔雀の羽を広げた様子を竹ひごで表現したものです」
伝統の継承と創造 チョ・チュンイク(趙忠翼)さんの作業場は全州市完山区 大聖洞にある竹田扇子房だ。ここで彼は昔の扇を再現した り、新しい扇子を考案したりして、扇作りに没頭している。 「竹田」という彼の号を名づけたこの空間を彼は「作業場でもな く、展示場でもなくてごちゃごちゃしてるでしょう。尹善道が <五友歌>で竹を“草でもなく、木でもなきもの、その真っ直ぐ なこと、誰に言われたのか、その中はなぜ空っぽなのか、四肢は青 く、それ故にまた竹を好む”と言っている様にです」と言って笑った。
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165㎡(50坪)ほどの竹田扇子房は四方の壁面には、彼の作った多種多様な団扇がき れいに額装されて飾られており、ところどころに団扇をつくる材料が積み重なっ ている。そうかと思えばぎっしりと積み上げられた多くの本が目に付く。朝鮮時 代の文臣ソ・コジョン(徐居正)の詩と文を集めた『東文選』をはじめと して、実学者のパク・チウォン(朴趾源)の中国紀行文『熱河日記』、 韓国学図録、漢字字典、国語辞典、哲学書などがまるで古本屋 でも始められそうなくらい沢山並んでいた。 「父が漢学に通じていました。私は父が40歳の時に生ま れた末っ子ですが、小学校に入る前から父に漢文を習っていま した。父はなぜか、普通最初に勉強する「千字文」からではなく、 陶淵明の詩から教えてくれました。そして私が小学校に入ると担 任の先生に1年生ではなく2年生に入れて欲しいと頼んだのです。 今思えば、年老いた父の幼い私にかける父情が感じられます。ハング ルも読めないというのに2年生に入れられてしまい、幼い私は非常に戸 惑いました。しかしそれも結局は貧乏のせいで小学校も5年生までしか 通えませんでした。学校で勉強した期間は短かったものの本を傍らにおいて いた父の影響か、本を読んでいると行き詰まっていた人生にも道が見えてきま した。扇を作りながらだんだんとそれで生計を立てていることが胸の片隅 でしこりになっていきました。宗教思想家のハム・ソクホン(咸錫憲) 先生の『意味で読む韓国史』を見て、ただ生計のためにだけ団扇作 りをする生き方を反省するようになりました。人の作った品物 には善い考えが、理想がこめられていなければならないのに、 飯を食べるための手段として習慣的に作ってきたことを反 省するようになりました。哲学者のアン・ビョンウク(安秉 煜)先生は、『地上で最も美しいもの』という本の中で人生 とは創造的な自己表現だと書いていますが、それが私の 胸に二度目の衝撃となりました。私が毎日毎日新しい扇 をデザインし、これまでに100種類あまりの新しいデザ インを完成したのはそのためです」
作業工程 韓国人は昔から扇を風を起こすだけの品物として見て いたわけではなかった。扇に八つの徳があるといい八徳扇、 または八用扇と呼んで大切にしていた。その八個の徳とは風を 起こし、ハエやカを払い、蓋として使い、日差しをよけ、火をつ けるときに風を起こし、野原では地面に敷きその上に座り、掃除する ときにはチリ取りとなり、頭の上に物をのせて運ぶときにはトアリと呼ば
彼は伝統を基本としながらも、 団扇の形や扇面に描く絵などで多様な新しい試みをしている。 夏号 2010 | Koreana 53
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「団扇は単に風を起こすだけの道具ではありません。涼しさで言えば、エアコンの方がずっと勝れていますが、悩み多い心を癒す には団扇に勝るものはありません。母の膝枕で昼寝をした幼い頃、母が団扇で扇いでくれたあの風の涼しさを私たちはいつまで も守っていかなくてはなりません」
れる敷物の代わりになる。クッをするムーダン(巫女)や踊り を踊る舞姫、パンソリの唄い手は拍子をとる重要な小道具と して使う。また扇面に詩・書・画を描いて飾りとしても楽しん だ。 「別に謙遜で言うわけではありませんが、扇を作る工程 というのは何ということはないです。作る順番どおりに技術 を身につけていけばよいのです。材料の竹が全部準備できて いれば、太極扇一つを作るのに簡単なものは半日で出来上が ります。扇面に精巧な絵を描こうと思えば、完成するのには 2ヶ月ほどかかりますが。太極扇は11段階の工程を経ます。 日当たりの良いところで育った樹齢2年の王竹を扇子の骨の 長さに切ります。それを1.5cmの幅に裂いて、さらに表面の 皮の部分を1mmの厚さに剥いでいき、1.5cmの幅に竹を薄く 切り裂きます。最終的に1mmの太さの竹ひごにして、その 1mmの竹を丸くして一定の長さに切り揃えます。それを扇 の大きさの白紙の上に並べていきます。一方で薄い韓紙の上 に太極模様の三色の模様の紙を貼っていきます。竹ひごの骨 の置かれた白い紙の上に、先ほどの太極模様の韓紙を貼り付 けます。これをトベといいます。このトベの際には糊がよく つくように、床に毛布を敷いてその上に扇を置き、その上に
1 扇の大きさの白紙の上に骨にする竹ひごを置く。 2 薄い韓紙に三太極の模様をつける。 3 1と2を貼り付けてから最後の仕上げをする。 4 扇の上に心のままに精巧な模様を描く。 54 Koreana | 夏号 2010
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また毛布をかけて、上から足で踏んでいきます。この作業を
ル(宋桂一)先生は、真夏の暑さの中を京畿道一山から全州ま
踏扇といいます。はさみで太極扇の形を生かして切り取り、
で彼を訪れ、汗をだらだら流しながら扇に水墨淡彩画を描い
団扇の縁は紙テープで包み、持ち手を差して装飾用の釘を打
てくれました。
てば出来上がりです」
「各方面の先生方の芸術的な作品というだけでなく、そ
チョ・チュンイクさんは徳の高い書道家や韓国画家のも
の高貴な人徳のこめられた扇は私にいつでも感動を与えてく
とを訪れ、自分の作った扇子に詩・書・絵を描いてくれるよう
れます。扇がもたらす美しさを分かちあうために2003年から
に頼みます。最初は気乗りのしなかった人々も、扇に対する
毎年、端午の節句の頃に全州端午扇展を開いています。扇は
チョさんの情熱に打たれ、快く描いてくれるといいます。そ
単に風を起こすだけの道具ではありません。涼しいことで言
してチョさんの扇は新しく生まれ変わるのです。全州の著名
えば、エアコンがずっと勝れていますが、悩み多い心まで癒
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な郷土史学者のチョ・ビョンヒ(趙炳喜)先生は、彼の扇子に
すには扇に勝るものはありません。母の膝枕で昼寝をした幼
二度も文言を書いてくれましたが、これは後にも先にも前例
い頃、母が団扇で扇いでくれたあの風の涼しさを私たちはい
の無いことでした。そしてチョ先生は死後、大切にしていた
つまでも守っていかなくてはなりません」
作品を彼に遺品をとして残しました。韓国画家のソン・ケイ
Spring 夏号 2010 | Koreana 55
文化イベント・レビュー
悲運の作家の真価を明らかにした 「グォン・ジンギュ展」 韓国の近代彫刻と現代彫刻を結ぶ架け橋の役割をした先駆者的な彫刻家グォン・ジンギュ(権鎭圭)。彼の作品世 界全体を見直す国際巡回展形式の大規模な回顧展がソウルで開かれた。その間、未公開だった資料と作品が多数 公開された今回の展示は、グォン・ジンギュ研究の一つの転換期となるものだった。 キム・イスン(金伊順、弘益大学校美術大学院芸術企画科教授) Photographe The National Museum of Modern Art
去
年の冬はいつになく寒かったが、それにもかかわ らず徳寿宮美術館(国立現代美術館の別館)で開催 されたグォン・ジンギュ展(2009年12月22日~2010
書館(10月19日~12月5日)でも同様の展示が行われた。 2006年に武蔵野美術大学が開校80周年(2009年)を前に して、この大学の卒業生の中で「芸術的に最も成功した作家」
年3月1日)にはなんと3万8千人の観覧客がやってきた。韓国
を問うアンケート調査を実施したところ、グォン・ジンギュ
の現代彫刻家の作品展としては異例に多い数字だ。今回の展
がその中に含まれた。グォン・ジンギュは武蔵野美術大学の
示はグォン・ジンギュ(権鎭圭、1922~1973)の彫刻100点、ド
前身である武蔵野美術学校彫刻科の卒業生で (1953年卒業) 同
ローイング40点、そしてテラコッタの制作過程を示す石膏型
校の教授、清水多嘉示(1897~1981)の弟子だった。その縁
1点が出品された。代表作として知られている「志媛」、「愛
で徳寿宮美術館での展示では清水多嘉示の作品12点と清水の
子」、「春葉尼」のようなテラコッタ胸像をはじめとして、生
師匠だったブールデル(E.A. Bourdelle、1861~1929)のレリー
涯を通して繰り返し制作された自刻像、初期の人物像と動物
フ5点も共に展示された。“ブ-ルデル→清水多嘉示→グォ
像、抽象的なレリーフ、晩年の仏像にいたるまで、彼の芸術
ン・ジンギュ”と繋がる系譜の中にグォン・ジンギュをおいて
世界を総網羅した作品展だった。
みるという企画意図によるものだった。
韓日共同企画の国際巡回展
孤独、自殺、悲運の芸術家
グォン・ジンギュは1973年に亡くなるまでに合計3回の
グォン・ジンギュが1948年に日本に渡ったのは、日本の
個展を開いている。逝去した後には1974年に1周忌の回顧展
病院で医師として働いていて病に倒れた兄の看病のためだっ
が開かれ、1988年には15周忌の回顧展、2003年には30周忌の
た。翌年、その兄は病死し、彼は武蔵野美術学校に入学して
回顧展がそれぞれ開かれた。しかし今回の展示は徳寿宮美術
彫刻を学ぶ。当時は韓日間の修交協定が結ばれる以前で、そ
館の1階と2階の4つの展示室がすべて使われるという以前
のすぐ後には朝鮮戦争も勃発したため日本に美術を学びに
の展示とは比べ物にならないほどの大規模な展示だった。さ
行った韓国人留学生はほとんどいなかった。朝鮮戦争の間、
らに韓日両国が共同企画した国際巡回展という形式だったの
彼は日本で美術学校に通い、大学卒業後にも研究科に籍を置
で徳寿宮美術館での展示に先立ち、日本の東京国立近代美術
き、日本で作品活動を続けた。そして日本の有名な公募展
館(2009年10月10日~12月6日)と武蔵野美術大学美術資料図
の二科展にも入賞している。1959年、父も亡くなり一人に
56 Koreana | 夏号 2010
1 アトリエで自刻像を前にするグォン・ジンギュ(権 鎭圭)。ソウル城北区にある彼のアトリエは近代 文化遺産として保存されている。 2 馬頭.1969. テラコッタ権鎭圭は生涯にわたり 何度も動物を制作しているが、その中でも馬頭は 幾度も制作された。
1
2
夏号 2010 | Koreana 57
2
なった母と暮らすためにグォン・ジンギュは祖国に帰る。家
た年齢であるはずの彼は、自分のアトリエで自殺という形で
庭の事情ではあったが、当時師匠の影響下から抜け出し、独
その生涯に幕を引いた。そのためグォン・ジンギュは作品の
自の美術世界を構築しようという欲望も強かったようだ。
芸術性よりは悲運の作家として認識されてきた。しかし今回
彼は賑やかな市内から離れた町外れのひっそりとした
の展示をみると悲運という言葉は彼を評価するのに有用では
坂の上に自ら設計したアトリエを作る。テラコッタの窯を初
ないという思いがする。まず、彼は朝鮮戦争の間、日本で美
めとして、創作活動に必要な設備を整えたこじんまりとした
術の勉強をしていた。そして帰国後にはおよそ13年間の作
空間だった。彼は亡くなるまでこの小さなアトリエに閉じこ
品活動を通して3回も個展を開いている。それもすべて後援
もり作品作りに没頭した。大学に出講したり、たまに知人に
を受けての展示だった。当時の韓国社会では彫刻家が個展を
会うために外出する以外はほとんどアトリエで作品を構想
開くこと自体が難しいばかりか、他人の後援を受けるという
し、制作しながら時を過ごした。彼のアトリエを訪れたこと
ことは到底考えられないことだった。彼の個展の芳名録には
のある人々は、一様に「寂寞感」を感じている。山の急斜面の
美術史家、批評家、画家、彫刻家など、当時の芸術界の主要
頂上付近に位置したアトリエの物寂しさ、作家の寡黙な性
人物の名前がずらりと並んでいる。彼自身は寡黙で、社交的
格、そして粘土を少しずつ肉付けして形状を作りあげていく
でなかったかもしれないが、当時の韓国美術界は彼の芸術性
彼の彫刻方法自体がにぎやかさとは程遠かった。物理的な寂
を認めていたことが分かる。ただ、当時は家に飾り鑑賞する
寞さ、その中に沈んでいた作家の孤独は彼が制作した数多く
のは東洋画だけという傾向が強かったので、テラコッタや乾
の作品に透視されている。
漆の彫刻は売れなかった。壊れやすく、重たいテラコッタ、
孤独、自殺、悲運の作家。グォン・ジンギュにつきまと
荒々しくくすんだ乾漆の胸像を誰が収集して家に置きたいだ
う形容だ。1973年の春、51歳という作品活動に油の乗り切っ
ろうか。グォン・ジンギュだけでなく、 1960年代に活動してい た韓国の作家の中でほとんど大多数の人々が作品を売ること はできなかった。現在、韓国の現代美術史の主要な流れとさ れ堂々とその位置をしめているアンフォルメル美術、概念美 術、モノトーン絵画などの作品も売買されたという記録は見 当たらない。このような当時の環境からして、1979年に韓国 近代美術品の最初の競売で彼のテラコッタ2点が売れたとい う事実はむしろ意外なほどである。 彼は明らかに韓国美術を代表する芸術家だ。韓国美術 史5千年の歴史の中で彫刻家として代表作家の隊列に並ぶ人 物を選ぶならば、彼以外には『三国遺事』に言及されている新 羅の彫刻僧・良志、そして初めて韓国に西洋式の彫刻を導入 した彫刻家キム・ボクジン(金復鎭、1901~1940)がいるくら
1
1 horseman、1965. 粘土 2 春葉尼、1967. テラコッタ 3 志媛、1967. テラコッタ
58 Koreana | 夏号 2010
いだろう。歴史的に数多くの彫刻家が存在したが、彫刻とい
たが、いまだ彼の全作品数は正確には把握されていない。
う美術ジャンルの特殊さからして彼らの大部分が芸術家とし
グォン・ジンギュの遺品の中には朝起きてスケッチをし
てよりは職人として活動していたため、美術史の流れを主導
て、午前と午後には彫刻をして、夜には再び作品の構成をす
したり時代を代表できる程度の独自の美術世界を構築した彫
るという内容が記録された日課表がある。一つの作品を制作
刻家を求めることは難しい。しかしグォン・ジンギュはそれ
するために何度もスケッチをして、自分の望む形にアイデア
以前のどんな彫刻家よりも自分の独自の美術世界を構築しな
を発展させていく過程も記録されている。彼は明らかに特別
がら多くの作品を残した。
な彫刻家だった。しかし彼が韓国の彫刻史の中で独自の存在
今回、韓国と日本で開かれた国際巡回展と国際シンポジ
となることができたのは、よく言われるように彼の天才的な
ウムを通して彼の美術世界を具体的に見ることができた。そ
素質のおかげというよりは、誠実で徹底した自己管理の下
の間、ベールに包まれていた「悲運の天才作家」に一歩近づく
で、その美術世界を構築していったからだ。もしかすると自
ことができた企画だった。比較的遅くに美術の勉強を始めた
分の死さえも作品のために計画したものではなかったのか。
せいか大学時代のグォン・ジンギュは成熟した学生だったよう
彼は、「作品のためなら死んでもかまわない」とよく弟子たち
だ。彼の大学時代を記憶する日本人の友人や後輩たちは彼の
に語っていたという。
落ちついてまじめな姿を回想している。また彼の非凡さを示 すものなのか、日本の西洋画家・仙名秀雄はグォン・ジンギュ が韓国に帰国する際に残していった石膏の人物像を50年たっ た今も自分のアトリエに所蔵している。今回の展示にはこの ようにその間、知られていなかった彼の作品が多数公開され
3
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夏号 2010 | Koreana 59
1 1 自刻像、 1968. テラコッタ 2 黒猫、 1963. テラコッタ
構造に内在した実存意識
造がある。韓国の彫刻にはその構造に対する根本的な探求が
韓国の美術界でグォン・ジンギュは韓国の伝統や韓国的
欠如している」と言及したのも、このような脈絡から理解で
な原型を求めようとした作家、民俗意識の強い作家として
きる。彼が芸術という領域で究極的に追求したのは民俗意識
評価されている。「韓国でリアリズムを定立したい」と言及
や信念ではなく、芸術の純粋な精神と普遍性だ。これを表
し、テラコッタや乾漆のように伝統美術と関連した技法を駆
現するためにより根源的で元始的な形象が必要だったのであ
使し、鬼面、土偶、瓦、雑像、高句麗古墳の壁画などの伝統
り、彼はここにジャコメッティのような戦後世代の作家たち
美術からモチーフを得た点などが、その理由だ。しかし彼は
のように自分の実存意識を透視している。
韓国の古代美術だけでなく、人類の古代美術、すなわち古代
このような芸術意識は肖像彫刻と自刻像に明らかに現れ
メソポタミアとエジプト美術、キクラテスとエトルリアの美
ている。肖像彫刻の中でも1967年頃から制作した若い女性の
術、ギリシャ、ロマネスク、ルネッサンス、またセザンヌの
胸像によく見られる。それぞれの肖像彫刻は目鼻立ちは実際
絵画原理、ロダン、ブールデル、清水多嘉示、マイヨール、
のモデルと似ているものの造形的な特徴と雰囲気は一様だ。
ジャコモ・マンズー、マリノ・マリーニ、ジャコメッティに至
実物よりも若干小さな顔、長い首は急傾斜をなして肩の線に
るまで、一つひとつ指摘するのが難しいほど多様な美術に関
つながり全体的に三角形の構図を成している。頭を上げたま
心をもっていた。このような多様な美術から彼は事物の根源
ま遠くを凝視する視線と正面不動の姿勢、髪の毛や服の表現
的で元始的な構造を引き出す方法に注目した。「万物には構
の省略が彼の彫刻の特徴だ。長い首と下に下がった肩の線は
60 Koreana | 夏号 2010
今回の展示には清水多嘉示の作品12点と彼の師匠のブールデル (1861~1929)のレリーフ 5点も共に展示された。これは“ブールデル→清水多嘉示→グォン・ジンギュ”と繋がる 系譜の中にグォン・ジンギュを位置付けようという企画意図によるものだ。
2
ジャコモ・マンズーやマリノ・マリーニ の肖像彫刻を連想させる。しかし雰 囲気は全く違う。彼はモデルを前に して作業をしながらモデルの目鼻立 ちは似せて表現したが、作品にモデルの心理や精神世界
は先輩彫刻家たちの作品とは全く異な る。師匠が強調した人体の構図は彼の作 品ではさらに極大化された。師匠の作品に見 られる人体のリアリズムや美しささえも弟子は 不必要な要素だと思ったようだ。
をこめようと努力した形跡は見当たらない。彼の胸像がど
グォン・ジンギュは韓国美術を代表する作家である
れも同じような雰囲気なのも、肖像の主人公ではなく作家自
だけ彼に関する研究論文も多い。しかしその内容はほとんど
身の心理と精神世界を反映しているからだ。それでヨンヒと
似たり寄ったりだ。それは有名な作家であるにもかかわら
いう少女をモデルに制作したという「比丘尼」と「袈裟を着た
ず、彼に対する資料が不足しているからである。今回の展示
自刻像」が似ているのも説明がつく。
は彼の作品世界全体を一目瞭然に鑑賞できる絶好のチャンス
対象の表面ではなく構図を探査する彼の造形言語がそ
であるだけでなく、資料調査をベースにした評伝を載せた展
の師匠の清水多嘉示やブールデルに繋がっているという事実
示の図録は今後、グォン・ジンギュ研究者にとって貴重な資
は、並んで展示された彼らの作品を見ているとよく確認する
料となるだろう。韓日共同で企画した今回の展示を契機に
ことができる。しかしこれらの間には類似点よりも差異点の
グォン・ジンギュに対する評価が韓国という空間を越えてよ
ほうが大きい。厳粛さや緊張感のような感情表現で彼の作品
り広がることを期待する。 夏号 2010 | Koreana 61
韓国再発見
韓国への 情熱-三国時代から 現在まで 1
設立100年を超えたフランス国立極東研究院は人文科学・社会科学を通してアジアの古代文明を 研究することを学術的目標にしているが、当時、研究院に韓国専門家は一人としていなかった。 2002年1月、私がソウル赴任を命じられたのをきっかけに、高麗大学校のアジア問題研究所に フランス国立極東研究院の17番目の分院が設けられるようになった。 エリザベス・シャバノル (フランス国極東研究院 韓国研究所所長)
20
08年11月、私にフランス外務大臣からの書簡が
た。ほどなく都市全体がガランとしてしまい、飛行機が都心
届いた。外務省大臣の提案で、大統領令によっ
の上空を飛んでいた。当時はチョン・ドファン大統領の時代
て、私がフランス国家功労勲章シュヴァリエ
だった。気温は低く冷え込み、街並みは灰色に見えたが、明
(Chevalier)を受けることになったという内容だった。その
るい日差しが射してソウル市民の表情は非常に明るかった。
書簡には、韓国の歴史・芸術・文化財に対する理解に貢献し、
私はたった三日間のソウル滞在だったが、当時の私にはまた
韓国とフランスの関係発展に寄与した私の功労が認められた
すぐにこの国に戻ってきて、生涯を送ることになるだろうと
とあった。高鳴る心が一応落ち着くと、どうして自分なんか
いう直感があった。
がこんな光栄なる賞を受けることになったのかと不思議に
それから数年が経った1986年、ルーブル博物館学校を
思った。私にとって過去20年間は、抑えがたい情熱に引かれ
卒業し、ソルボンヌ大学で修士課程で学位取得のために、パ
て、新しくて興味のあるものを探求し続けると同時に、様々
リ所在のフランス高等研究院で中国考古学の講義を聴講し
な出会いを通じて自分自身の限界を乗り越えようと頑張って
ていたある日、授業の始まる前に、ソルボンヌ大学の教会
きた時間であった。
の建物の前で、同じ受講生の女学生たちの話を偶然耳にし た。「韓国に行ってフランス語を教える人を募集しているけ
ソウルで過ごした三日間
ど、志願者がいないんだって」。「誰もいない?私がいってや
その情熱は、日本発の大韓航空機に乗って、韓国に第
る!」それから数ヶ月後の1986年10月15日に、私は再び金浦
一歩を踏み出した1981年2月14日の夜、通行禁止ぎりぎり
空港に降り立った。永登浦駅で統一号の夜行列車に乗って忠
の時刻から始まる。当日の夜、乗組員と乗客らは軍人らの護
南大学校のある大田の儒城に向かった。かくして、水田に、
衛を受けながら、金浦空港を出発してソウル・ガーデン・ホテ
真夏のヒキガエルの鳴き声を聴き、竹や韓国の伝統紙で作っ
ルに泊まることになった。高層ビルのなかった当時、そのホ
た扇で夏の暑さをしのぎ、実りの秋の収穫への期待感、市場
テルは西部ソウルのランドマークたる建物であった。その翌
中に漂う香ばしいごま油の匂い、分厚い布団にうずくまって
日の15日は、折りしも民防衛という訓練が実施される日だっ
過ごしていた厳寒の冬。そんな異文化体験に興味を示しつつ
62 Koreana | 夏号 2010
2 1 2006年、韓仏修交120周年を記念する展示会が開かれた高麗大学 博物館にて。 2 在韓フランス大使官邸で、フランスの国家功労勲章である シュヴァリエの受賞後、在韓フランス大使と乾杯する筆者。
夏号 2010 | Koreana 63
も、フランス語も英語も話せる人もなく、外部とのコミュニ
修士や博士論文の審査を受けるために、フランスに戻る時期
ケーションもままならず、外国人といえば、パリ宣教団から
もあったが、実質的に研究の方向性を提示して指導してくだ
派遣された二人の宣教師しかいないという全く異なる文化世
さったのは、韓国の考古学者や大学教授、そして国立文化財
界に「パラシュートで降り立った」ような存在であった。
研究所の研究員たちであった。
三国時代の古墳建築に魅了される
フランス国家功労勲章の持つ意味合い
私は教える傍ら勉強する目的で韓国に趣いた。私は全
1997年夏、私は「大きな田」という意味の大田を離れる
く違うライフスタイルに適応する準備ができていた。私は
ことになった。私が慶州国立博物館という最高の環境の中で
本で読んでいた内容を体験し、5年前に自 分を魅了したこの国について多くのことを 学びたかった。もちろん、学習過程で難し い面や問題が全然ないわけではなかった が、若いフランス人女性としての感情の変 化に合わせて徐々に行い、新しい発見の過 程では常に私に寄り添ってくれた人々がい た。私にはチョン・アルムという名前が付 き、徐々に忠清南道の田舎娘と化していっ
フランス高等研究院で中国の考古学講義を聞いていた私はある日、 同じ授業に参加していた女学生たちの会話を偶然耳にした。 「韓国でフランス語を教える人を探しているけど、志願者がいないんだって」 「いない?」 「自分が行けばいいんじゃん!」。それから数ヵ月後、 私は金浦空港に降り立っていた。
た。私は味噌鍋、豚肉のデゥルチギ(炒め 料理)、キュウリ・キムチ、ヂヂミなど、韓 国料理の作り方も教わった。フランスの食 べ物らしきものはツナ缶詰しかなかったの だ。たまに、市場にバターが出る時もあり、早速買って食べ
博士論文を書くようになったのは、当時博物館長として務め
たバターの味はいつも口に合わなかった。学生らのデモが
ていらしたチ・ゴンギル博士とカン・ウバン博士のおかげであ
あった日、催涙弾の臭いを忘れようと飲んでいたマッコリー
る。最初の2年間は学芸研究師と考古学者らと一緒になっ
やドンドン酒(銘酒)の味に馴染むにつれて、私はワインの味
て、慶州の考古学的遺跡地や展示室、非公開の遺物倉庫、博
を忘れるようになった。お天気の良い週末ともなれば、秘境
物館図書館をしらみつぶしに探し回り、さらに2年間は、新
的な鶏龍山に登り、兄妹塔を通り過ぎて、女性的な東鶴寺と
羅時代と統一新羅時代の古墳の構造をはじめ、王冠、イヤリ
男性的な甲寺まで足を延ばした。
ング、帯、陶磁器及び各種道具など古墳から出土した遺物を
韓国に着いて間もなく、私は武寧王陵のある百済の首
現場で直接研究することができた。
都だった公州の宋山里古墳群を尋ねた。その時、それまで考
そのようにして私はキャリアを着実に積んでいくこ
えめぐらしていた研究テーマが決まり、三国時代における古
とができた。私は恐れながらもソウルに「上京」した。そし
墳建築を研究することにしたのだ。その凛々しい程の気品と
て、さらに3年間はコリア・ヘラルドのエディターとして働
精神や、三国史記や三国遺事などの古文書に記録されている
きながら、韓国の学会に留まらず、韓国の経済界をも経験す
百済や新羅時代の君主と、彼らが建てた建築物や遺跡は、そ
るようになった。ところが、現場で朝鮮半島の研究に取り組
の後数年間も私を魅了して止まなかった。ソルボンヌ大学で
み、最新の考古学的発見の情報に接しながら、古代韓国美術
64 Koreana | 夏号 2010
北朝鮮の沙里阮博物館で。彼女の研究範囲は、 2003年からは 北朝鮮地域にまで拡大された。
の研究にヨーロッパの学生らを導く唯一の方法は、やはり研
実は長い間、私は非武装地帯には見向きもしなかった。私は
究所に所属するしかなかったので、フランス国立極東研究院
朝鮮半島を横切るその「苦痛」、「傷跡」から遠く離れた韓国の
に入ることにした。
大田や慶州などの地域で生活していたし、真っ向から向き
設立100年も過ぎたフランス国立極東研究院は、フラ
合うより知らんぷりをする方が楽だった所以である。しか
ンス高等教育研究部傘下の機関として、人文科学や社会科学
し歴史学者として、私は高句麗や高麗の主な遺跡地を行かな
を通じてアジアの古代文明を研究することを学術的目標に掲
いわけにはいかなかった。私は満州地域に散在する高句麗遺
げているが、当時の研究院にはまだ韓国専門家はひとりもい
跡地、坡州から済州道にいたるまで、朝鮮半島にある考古学
なかった。2002年1月、私はソウルへの発令を受けた。それ
的遺跡地を充分把握していたが、鴨緑江とハンガンの間にあ るその地域に関してはまったく知識が なく理解もなかった。しかし遂に、そ の地域を直接訪問できる機会に恵まれ たのである。これを運命と呼ぶべきな のか。これまたタイムリーに、1986年 の時と同じく、偶然にも北朝鮮を訪問 することになった。正月のある寒い日 で、休戦線以北の道路は雪や氷に覆わ れていた。水道管はカチカチに凍りつ いていて、私の滞在していた「朝鮮風 の家」 ( 北朝鮮で瓦屋根の家を呼ぶ言 葉。韓国では「韓屋」と呼ぶ)のオンド ルはあまりにも熱くて、火傷するので
をきっかけに、高麗大学校のアジア問題研究所の中にフラン
はないか心配するほどだった。こうして私は、高麗の旧首都
ス国立極東研究院の17番目の分院が設立されることになった。
である開城の考古歴史遺跡地を見つけることとができ、それ
当時、私が研究していたテーマの一つは、初期在韓フランス
が研究の中心テーマとなって以来、度々訪問するようになっ
外交官且つ韓国研究者らに関するものだった。彼らの中でも、
た。
ビクター・コリン・デ・プランシ(Victor Collin de Plancy)やモリ
今から振り返ってみると、私がいただいたこの功労勲
ス・クラン(Maurice Courant)の韓国研究はかなり高い水準にあ
章は、長い旅路を共に歩んでくださった人々に捧げるべきで
り、心から韓国を尊重していた識者であった。もう一つの研
あろう。フランスの言語と文化に触れたがった人々、朝鮮半
究テーマは、イ・ボムジン、ミン・ヨンチャンをはじめとする、
島の研究に対して、その方向性を提示してくださった人々、
フランスに赴いてヨーロッパを発見した韓国人に関するもの
ご本人の研究プロジェクトに参加させてくださった人々、さ
だった。その研究結果は、韓・仏修交120周年の記念イベント
らに、私の研究に進んで参加してくださった人々。私は今ま
の一つとして、 2008年に製作した図録と、高麗大学校博物館、
でと同じように、これからも韓国とフランスの交流を通して
アルベール・カーン博物館、そしてトロワ・メディアテック図
両国の相互理解がさらに深まるように、努力を惜しまず取り
書館で開かれた特別展示会を通じて発表された。
組んでいきたいと思う。
2003年1月、私の研究の範囲は北朝鮮にまで拡大した。 夏号 2010 | Koreana 65
世界の中の韓国人
沈載斗夫妻の アルバニア医療活動 17年の歴史 1884年、アメリカの北長老教のアレン医療宣教師が朝鮮に入国した。 それから88年後の1972年に、カン・ウォンヒさんが韓国出身としては初めて 医療宣教師としての第一歩を踏み出した。そして1993年には、 内科専門医のシム・ゼデゥ(沈載斗)さんと解剖病理学専門医の ユ・ソヨン(柳昭年)さんの夫婦がアルバニアのティラナに向かって発った。 二人は17年間もアルバニアの医療システム作りに取り組んでいる。 キム・ミンア (金玟我、青年医者新聞記者)
現
在、韓国人の医療宣教師の数は271人。アジア、アフリカ、中東、東ヨーロッパな ど、世界各地で医術を通して愛を実践している。その中の一人が「宣教師の中の宣 教師」と呼ばれるシム・ゼデゥさんだ。彼は1993年にアルバニア入りして、現在は
ティラナのシャローム・クリニックの院長として診療はもちろん、教育から社会活動に至るま で、幅広い分野で活躍している。
祖国から贈られた賞 昨年12月には、大韓医者協会選定の「第2回ハンミ誇らしい医者賞」を受賞した。この賞 は医療政策分野において10年以上の研究、または活動を行った人を対象に、韓国の保健医療 制度の発展や政策活動に寄与度が高く、素晴らしい活躍をみせた医者に贈る賞である。初の 受賞者はWHOのイ・ジョンウク元事務総長だった。共産主義を経て、貧しくて厳しい環境に追 い込まれてしまった人々のために、医療と保健、教育分野で尽くした功労が認められたのだ。 アルバニアに発ってから17年後に、医者の集まりである医者協会からの受賞であるだけ に、医者としてシム・ゼデゥさんの喜びもひとしおだったはず。 「申込みの締め切りが10月1日でした。私の連絡先を人伝えで知った慶熙医科大学の仲 間がアルバニアまで電話をくれました。早く申込みの書類を送れと言うんです。当日が9月 30日だったので、一日で関連書類を作って送りました」 何よりも17年間の活動が認められたことが嬉しかった。シムさんと妻のユ・ソヨンさん が専門医課程を終えるや否や、母校の教授になるチャンスを捨ててまでアルバニアに発った ことを知った仲間の中には「世に疎い」と鼻で笑った人もいた。久しぶりに韓国を訪れてみて、 66 Koreana | 夏号 2010
アルバニアの首都・ティラナの 「シャローム・クリニック」院長の シム・ゼデゥさんと彼の妻であり、 同僚のユ・ソヨンさん。愛と奉仕 の精神で、傷跡の残る地に平和が 根付くように夫婦が力を合わせて 勤めている。
教授として、あるいは自分の病院をもって熱心に働く同期らの姿を見ると、虚脱感を覚える こともあった。アルバニアの厳しい状況が改善しないことも彼をもっと疲れさせた。 しかし、受賞した12月、彼の受賞を知った大学の同門たちはそれぞれお祝いの言葉を伝 えてきた。権威ある賞の受賞者として、病院長や医療院長らと会って慶熙医療院レベルでア ルバニアと交流・協力できる方法を模索する機会も得た。韓国とアルバニア歯科大学のとの姉 妹提携など、教育分野においても力になりたかったシムさんにとって、今回の受賞は大きな 機会になったのだ。
教育と医療リーダーシップ開発 シムさんの妻ユ・ソヨンさんは彼の後輩にあたる。解剖病理専門医として1994年から 2002年まで、アルバニアのティラナ大学の解剖病理科に勤務した。診断はもちろん、専門医・ 解剖病理技師の教育から医学書・ジャーナルの普及、細胞病理学の導入に至るまで多方面の活 躍をした。細胞病理学内科を専攻したシム院長も1994年から1998年までティラナ大学の呼吸 器・結核病院で専門医として勤めた。彼は初めて噴霧治療を導入した他、喘息の治療も始め た。さらに、1996年には図書館も開いた。 「直接診療することも重要ですが、教育やリーダーシップ養成にも高い関心があります。 自立の方法を教えるわけです。2000年までは公共機関で働いていましたが、その後は2001年 にオープンしたシャローム・クリニックを中心に医療活動を広めることに重点をおいていまし た。今年からは教育と医療リーダーシップの開発に乗り出す考えです。1990年度にも試みま したが、当時はうまくいきませんでした。人々が薬や診療など、当面必要なことばかり求め 夏号 2010 | Koreana 67
ていましたから。我々は、彼らがひとり立ちできる仕組みを作りたかったんですが、そんな意図を理解してもらえませ んでした」 1992年に共産主義の没落でアルバニアも開放に向かったが、共産主義独特の手続き重視の仕組みは依然として仕 事の足かせとして残っていた。それまで何とかやってきたためか、助けてあげようとしても人々の反応は芳しくなかっ た。切実さがなかったわけである。不十分なインフラも悩みの種だった。シャローム・クリニックでの診療の際にも午 前8時から午後5時まで電気も 入らなかった。医療機器に必要な検診を受けなければならない患者は午後5時から診 療した。国立大学病院の救急医療センターの施設があまりにも厳しかったため、シム院長のシャローム・クリニックに は昼夜を問わず患者が押し寄せた。それでも、2004年に内科専門医のチェ・ジョヨン(崔照永)宣教師の合流で、少しは楽 になったという。 「ここまでアルバニアに長居できた秘訣を尋ねる人も多いですが、何もなかった状態から始まって、少しずつよく なるということがあまりにも大きく感じられたというか。前より良くなったと感心する内に時間がこんなに経ってし まったわけですね」と笑うシム院長。
「仕事が待っている。早く行かなくちゃ」 ソウルからアルバニアのティラナまでは丸一日かかる。シム院長がアルバニアへ発った当時は、徹底した反共主 義時代であり、近寄りがたい雰囲気が強かったのにもかかわらず、二人がアルバニアを選んだ理由は一体何なのか。 「人生って、自分の意思で決まるわけではないでしょう、ははは。アルバニアに一足先に入っていた高麗大学校医 科大学出身の女医さんを通して初めて知るようになりました。疲弊して貧しい所という情報しか持っていませんでし た。そして、私が所属していた宣教団体が立ち上げたアルバニア・チームに加わるようになりました」 シム院長ではなく、アルバニアが彼を選んだわけだ。貧しい共産主義国家という情報しかない状況で、妻と二人 の子供を連れて飛行機に乗ったシム院長だが、乗り継ぎのために降り立ったロンドンの図書館でアルバニアに関する本 を読んでからは、アルバニアという国に対して熱い感情を抱くようになった。 「家内と子供はロンドンに残して、まず私がアルバニアに入って状況を把握するつもりでした。ところが、資料を 今年からは教育と医療リーダーシップの開発に取り組む考えです。1990年にも試みましたが、 当時はうまくいきませんでした。人々が当面必要な薬や診療などをもっと願っていたからです。 ところで、私自身、一生ここに住むというよりは、彼らの自立を助けることがもっと 大事であることをよく知っています。
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68 Koreana | 夏号 2010
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調べる内に、アルバニアの人々の写った写真を見るようになりました。彼らの虚ろな目からは、貧しさと疲れの中に救 いを求める叫びが読み取れました。家内も同じように感じたと言いました。我々に出来ることって多いだろうな、早く 行かなくちゃと思いました」 一方、アルバニアのティラナ空港の当局としても、韓国国籍の家族は珍しい存在であった。幸い、ビザを発給す べきかどうかを巡って、口論(?)になった空港関係者らには「北朝鮮」はお馴染みの国であった。North Koreaがあるから South Koreaもあるのではと解釈したせいか、結局ビザをもらうことができた。それから17年が過ぎた。その間、紆余 曲折も多かった。1997年のアルバニア内戦の際には、それまで積み上げてきたもの全て捨ててイタリアに逃れなくては ならなかった。 「最初は現地の人に、一生ここに住むと話していました。自分もそう信じきっていました。しかし、内戦の危険が 高まるにつれて、直ちに撤退するように命じられました。仕方ありませんでした。この間、人質事件が起きたアフガニ スタンから脱出して来た後輩から、悩みの相談を持ちかけられました。人質事件があるからといって、全てを捨てて逃 れ出てきた自分を許せなかったのです。私も同じだったから。今は、自分がここに一生滞在するというよりは、彼らの 自立を助けることがもっと重要であると考えています。今年からは、その作業に本腰を入れることになります」 湿気が多くて寒いアルバニアで17年間も生活する内に、体力もだいぶ弱まった。人は引き際をわきまえるべきと いうが、それが一体いつなのか、自分はアルバニアに充分貢献できたのか、などと悩んでしまう毎日だという。できれ ば、もっと長くアルバニアに居続けたいというシムさん。アルバニアで働く医療宣教師も増えている。アルバニアを根 拠地として、コソボ、マケドニア、バルカン半島にも診療活動を広げる計画である。 宣教師アレンが朝鮮に建てた最初の西洋風病院であった廣恵院は、後日韓国で初めて医者を輩出したセブランス 医学校の産屋となった。現在、韓国の医学は世界的なレベルに達していて、医者の数も8万人にのぼる。世界に向かっ て羽ばたく医者や医学者も多い。この全ての実りは126年前、アメリカから来た一人の医療宣教師から始まった。はた して100年後、アルバニアはどう変わっているんだろう。シム・ゼデゥ院長夫妻の献身がアルバニアの地で大きく実るこ とを期待する。 1 アルバニアの歯医学セミナー会場のシム・ゼデゥさん。彼はアルバニアの歯科教育 発展に向けて、韓国の教育機関との連携を模索している。 2 コソボ紛争当時、難民キャンプで診療を行っているシム・ゼデゥさん。 3 彼はアルバニア軍人病院にレントゲン機を寄贈した。 4 解剖病理科の医師や職員たちとユ・ソヨンさん。
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オン・ザ・ロード
西海5島、 統一の日を 待ち侘びる島々 韓国人にとって西海にある5島は、半世紀以上にわたり対峙しているという南北の 現実を思い起こさせる緊張の地だ。ここでは、ものものしい軍事的な警戒と漁業や 観光といった島民の活動とが自然に共存している。そしてここには何よりも 美しい海岸線が続いている。 キム・ヒョンユン(金熒允、エッセイスト)| 写真 : 權泰鈞
© Yun Ki-jung
ペクリョン島(白翎島)の頭武津の珪岩が演出する海岸の 絶壁と奇岩怪石。西海5島で観光客が最も多く訪れる 絶景スポット。 70 Koreana | 夏号 2010
旅
の初日、私は 白翎島に向かった。 仁川港から228㎞先にある、白翎島は朝鮮半島 の中ほどの、西海にある島の中でも最北端に
位置する島だ。時速60kmで快走する水中翼船は4時間後 には私を見知らぬ島に降ろしてくれた。 3月の下旬ここはまだまだ春の訪れが遅いとみえ、 空は曇り風も強かった。冷たい天候の中で港はうら寂し かった。誰もいない遊覧船の案内所と用途の分からない コンテナ、そしてその後ろの古びた飲食店の看板をのぞ きこんでいる間に、定員400人の船の座席を5分の2ほ ど占めていた乗客らは、あっというまにいなくなってい た。黒色の登山用のパーカーを羽織り、左腕に太極旗の マークをつけた30人ほどの中年の一行もいつのまにか消 えていた。おそらく、昔勤務していた部隊を訪問した往 年の海兵隊員なのだろう。
孝行娘と戦車 私はタクシーを呼んだ。この島で3代に渡って暮 らしているという運転手の声は、5年前に北朝鮮の首都 平壌に行った時に聞いた、その地の男たちの強いアクセ ントときつい口調を思い出させた。ここが北朝鮮の地の 近くにあるということを実感した。 運転手は北朝鮮の長山串が見える海岸の上にある 沈清閣で私を降ろしてくれた。沈清閣は孝行娘の沈清を 奉る記念館だ。彼女は目の見えない父の目を治してあげ ようと、中国からきた船乗りたちに米三百石でその身を 売り、龍王への人身御供となった古典小説の主人公だ。 しかしその沈清がこの島では伝説上の人物になってい た。親切な運転手は海の向こう側のある地点を指した。 その親孝行な娘が船乗りにせきたてられ、その身を投げ た「印塘水」と呼ばれている海だ。北朝鮮の地である黄海 道長淵郡海岸面の長山串と白翎島のちょうど真ん中あた りだ。小説の中の沈清は海に飛び込み龍王の妻となる が、この地域の伝説では彼女は竜宮から蓮の花に乗り再 び印塘水に浮かび上がり、白翎島の沖に流れてきてヨン ボン蓮蕾岩にたどり着いたという。 沈清閣は岩塀で囲まれた小さな公園の中にある。 そして同じ岩塀の中には長い大砲を構えた戦車が一台 止っている。その大砲は北の海岸を照準しているが、す 夏号 2010 | Koreana 71
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ぐにでも起動できるという様子ではないようだ。後で聞いた 話だが、西海5島にはこのように退役した戦車や上陸用の装 甲車のようなものが、あちこちに置いてあり、この地域が軍
1 独特な海岸地形の発達している白翎島。ユリの花が咲き乱れる夏の風 景。 2 白翎島と仁川を結ぶ旅客船。 3 韓国最大のアザラシの生息地白翎島
事的地域であることを認識させているという。
二つの境界線のぶつかり 西海5島とは北朝鮮と韓国の海上の境界線であるNLL 北方限界線の近くに集まっている韓国領有の5つの島、白翎 島、大青島、小青島、延坪島、隅島(島民不在で、旅客船も 不通)をさす。NLLは1953年朝鮮戦争が休戦になった直後に 決められたものだが、当時のクラーク駐韓国連軍司令官が北 朝鮮との協議なしにこのラインを定めという。それに対抗し 北朝鮮側はだいぶ遅れて自分たちの海上の軍事分界線MDLを 主張している。1973年に出されたこの主張によれば、5島は 彼らの主張するラインの北側に位置している。それで南北間 で西海5島が突然重要な議題となり、これをめぐり領海侵犯 の論争が始まったのだ。 北朝鮮は領海問題に対する自分たちの新しい主張とと 72 Koreana | 夏号 2010
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もに海には軍艦を、空にはミグ機を配置し、この地域の住民 たちに威圧感を与えてきた。一方韓国政府もこの島の軍事力 を大幅に増やし、5つの島を巨大な要塞に変身させた。
から波浪注意報が出されたのだ。 私は海辺の道を歩いて頭武津に行き時間をつぶした。 この島の北西の海岸、つまり昨日遊覧船から見えたところ
軍事地域だとはいうものの遊覧船もある。この日の午
だ。海岸の砂利道が途切れたところの坂道を登っていくと、
後、私は遊覧船に乗ってみた。この島の南の海岸にある港か
海の見下ろせる崖の端に出た。そこには軍事哨所があるが、
ら北西の端まで行く、この遊覧船からは玄武岩でできた絶壁
昼間は誰もいない。私は崖の端に立ち、向かいの北の地を眺
が見物できる。船が進むにつれ絶壁はどんどん高くなり、そ
めた。私は去年の夏にカヤックを習った。それに乗り、艪を
の真下にできる泡沫は更に大きく、更に白く飛び散ってい
こいでこの海を渡ったらどうなるだろうかと思った。それほ
た。美しい風景だった。だからといって、ここが軍事地域だ
ど禁断の地が近くに感じられたのだ。
という現実を忘れるわけではない。鵜がのんびりと飛んでい
頭武津の崖から狭い階段を下りると北西の海岸に出る。
る遥か絶壁の上層部に、対空砲の陣地が断崖に出来た窓のよ
昨日、遊覧船から見た海が眼下で大きくうねっていた。高波
うに開いているのが見えた。
で鵜が海に入ることができずに崖の上を楽しげに飛び回って いた。崖と真下の岩が鵜の白い糞で侵食していた。
波浪注意報
ここならもしかしてアザラシが見られるのではないか
旅の二日目、この日も私は白翎島にいた。
と期待して来たのだが残念ながら見られなかった。頭武津は
計画では午前までここにいて、午後1時に出航する船
中国の渤海湾で冬を過ごしたアザラシが春になると子供を
に乗り大青島にいくつもりだった。しかし 一日に朝と午後
連れて訪れるという白翎島に3つある地区の一つだ。まだ来
の二便しかない船は港に足止めされていた。波が高く気象台
ていないのだろうか? 出会った村の漁師に尋ねたところ、 夏号 2010 | Koreana 73
1 環境の影響で都市の子供たちよりも安保意識の高 い白翎島の子供たち。 2 全体的に丘陵の山地だが、海岸は急傾斜の絶壁を 成している小青島。
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3 大青島から眺める小青島。
「彼らはすでにやってきているが、まだ寒いので外に出ない
的だ。私はここで裸足になってしばらく散歩した。韓国一澄
だけだ」と言う。漁師は、その天然記念物が海中で飽食を楽
んだ空気を胸いっぱい吸って、豆石を踏みしめながらの散歩
しみながら、魚獲のためにしかけておいたワナを壊してだめ
は、今度の旅のなかで私に与えられた至福の一時となった。
にしてしまうと、非常に腹をたてていた。公式的には300頭
大青島では港からさらに北に1時間ほど歩いて玉竹浦
ほどがやって来ることになっているが、5年程前からその数
海岸を訪れた。そこは広い海岸砂丘だ。2平方キロメートル
が増えており、今では1000頭以上に増えているようだ。
にわたり広がる砂丘を地元の人々は砂漠と呼んでいる。朝鮮 半島には砂漠はないが、私もここを砂漠と呼ぶことに喜んで
地球の30億年の歴史を秘めたプン岩 旅の3日目、朝の船に乗り大青島に行った。幸い、波浪 注意報は解除されていた。人口の70%が農業に従事して耕作 地が十分な白翎島に比べて、山が多く農地の少ないこの島で は、人口の90%が漁業で生計をたてている。
同意することにした。松林を背景にし海を見下ろすような砂 漠の砂粒は、遥かな昔からそうであったかのように静かに輝 いていた。 私は今回の旅で小青島にもよる予定だったが波浪注意 報のため、白翎島に1日多くとどまったため、小青島行きは
白翎島の3分の1程度の面積に、4分の1程度の1200人
あきらめ、そのまま午後の船で仁川に戻った。初日、白翎島
がこの島で暮らしている。そして白翎島には8台あるタク
に渡った時のように、仁川に帰る船も小青島のそばを通過す
シーがここはわずか2台だけだ。この西海の島々は美しい海
るので、私は船上からプン岩を見ることができた。
岸線をもっている。そこで軍事地域であるにもかかわらず夏 になると大勢の観光客が訪れる。
プン岩というのは、その名前のようにプン(粉おしろ い)をぬったように色白から由来した名前で、実際には石灰
白翎島で私は沙串海岸と豆石海岸を訪れた。長さ4km
岩が変成した大理石だという。さらに資料によればこの大理
もある沙串海岸は引き潮時には300mもの砂地となり、世界
石の中に藍藻類の堆積物であるストロマトライトが含まれて
で二つしかない天然飛行場となる。豆石海岸は名前のとおり
いるという。私には発音さえも難しいこの物質は30億年以上
に1kmの海岸をびっしり埋め尽くした豆ほど小さな石が魅力
の地球の歴史を物語る重要な化石だという。私は畏敬の思い
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© 鄭寶相
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© 鄭寶相
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私はペクリョン島(白翎島)の頭武津の崖の上に立ち、遠くに見える北朝鮮の地を見つめながら、思った。 カヤックに乗り艪を漕いでこの海を渡って行ったらどうなるだろうかと。 禁断の地は目の前にあった。
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1 孝行娘の沈清を奉る記念館の白翎島沈清 閣、遠くに北韓が見える。
でその岩を見上げ、船の上から敬拝した
2 海岸線にそって張りめぐらされた鉄条網が 分断の現実を物語る。
孤独な島々の孤独を楽しむ
3 垂直絶壁の絶景に静かな海水浴場もいくつ かある大青島。
旅の4日目、前日に高波にもまれながら仁川に戻った私 は、翌朝、延坪島に渡る船に乗った。 延坪島という名前は私には聞きなれた名前で、子供の 頃好物だったチョギ(いしもち)という魚の主な生産地だった 島なのだ。延坪島のチョギは私の年代の韓国人にとって最も 好まれた食べ物だと言える。それだけに私はこの島がこれほ ど小さいとは意外だった。1970年以降、チョギの収穫量が激 減したことで、島も小さくなってしまったのかもしれない。 大きさが大青島の半分にも満たないこの島には当然タ クシーが1台もない。私は歩いてこの島の南端の丘の上にあ るチョギ歴史館に行った。「犬も金をくわえて走り回る島」と いう言葉があるほど、一時はこの島を大いに栄えさせたチョ ギ物語を聞かせてくれるところだ。私は切り立った断崖絶壁 とその足下で砕ける波を見下ろしながら、この海いっぱいに 埋めつくしていたチョギの群れが姿を消した理由を考えてい た。 島の北端の丘の上の望郷展望台に上ると、海の向こう に北朝鮮の海州の地が見えた。私が一晩過ごした民宿の主人 の話によると、1980年代までは電灯がこうこうと照っていた その海岸が、真っ暗な闇夜に包まれて久しいという。今では もうセメント工場が稼動する音さえも聞こえなくなったとい う海州の地、私はその向かい側の人々の顔が見たくなった。 しかし、10キロは決して遠い距離ではないが、互いの顔を識
1
別できるほどの近さではなかった。白翎島も大青島もそう だったように、ここでも島の要所要所に軍部隊があった。偽 装色を施した部隊の塀と哨所、そして軍服の軍人とたびたび 出くわした。しかし私はいつの間にか彼らを気にしなくなっ ていた。彼らは最初から私に関心を払わなかったし、誰ひと りとして、私に声をかけなかった。まるで軍人たちが私が歩 き回る自由を守るためにそこにいるのだと錯覚してしまうほ どに、私は軍事地域の中で完全に自由だった。 海岸への道程は鳥のさえずりと波音以外、私について くるものは何もなかった。そうやって歩を進めながら、目の 前に開けた海岸に到着したとき、私は悟った。「この数日間、 私は孤独な島の孤独を自由に楽しんだのだ!」 「人々を緊張さ せるこのものものしい5つの島が、実は私のようなのんびり とした旅が好きな人間には何よりの場所ではないか」と、旅 の終わりに思った。 夏号 2010 | Koreana 77
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料理
コンクッス-夏に味わう 栄養満点の冷たい麺料理 コンクッスは冷した大豆の汁に、茹でた素麺を入れて食べる夏の麺料理だ。水に浸けてふやかした大豆を ミキサーにかけ粉砕すれば手軽に汁を作ることができる。「高タンパク低カロリー」のこの韓国の伝統的な 健康食でしばし夏の暑さを忘れよう。 イ・ジョンイム(李鐘任、大韓食文化研究院院長) 写真 : 安洪范
Spring 2010 2010 78 Koreana | 夏号
今
も昔も食欲の落ちる暑い夏には、冷たい一杯のコン クッスが何よりの栄養食となる。冷たいガラスの器に 盛った真っ白なコンクッスは味が良いだけでなく、見
た目にも涼しく夏の暑さに疲れた心身に活力を与える。現代は 食生活の変化とともに肉類などの脂肪を過度に摂取することが 多く、各種の生活習慣病の原因となっている。そのため植物性 タンパク質の大豆で作ったコンクッスは現代人にとって最高の 健康食品である。韓国人は暑さをサンゲタン(蔘鶏湯)、ユッケ ジャン(辛い肉のスープ)のような熱い食べ物で吹き飛ばすこと を好むが、夏には冷麺をはじめとしてコンクッス、ケックッス など冷たい料理もよく食べる。
コンクッスの由来 韓国でコンクッスがいつ頃から食べられていたのかは正確 には分からないが、1800年代末に出た調理書の『是議全書』にコン クッスとケックッスが出てくることから見て、かなり昔から食 べられていた料理であることが分かる。あまりに普遍的な料理 なので、その以前から食べていたものの、あえて記録に残すこ とはしなかったのかもしれない。 昔、両班たちは夏にケッ(ゴマ)の汁にクッス(麺)を入れ たケックッスで暑さをしのいだ。朝鮮時代の書籍『東国歳時記』 の夏の季節料理のところを見ると麺を打って、カボチャ、キュ ウリのような青菜と鶏肉をのせて、その上に鶏の肉汁にゴマを 炒って挽いたものを混ぜた乳白色の汁をかけて食べたという記 録がある。一方庶民は大豆の汁に麺を入れて食べて暑さに打ち 勝ったと書いてある。最近では鶏の肉汁よりもむしろ大豆の方
緑色が美しい緑茶素麺を使ったコンクッス
夏号 2010 | Koreana 79
大豆は多様な栄養と機能を備えており、肉類に代わる唯一の健康食品として 脚光を浴びている。大豆を原料にした加工食品には豆腐、味噌、醤油、 チョングッチャンなどがある。 2
に、大豆は多様な栄養と機能を備えて
レン酸などの不飽和脂肪酸で、血管壁
おり、肉類に代わる唯一の健康食品と
にコレステロールが溜まるのを防ぎ動
して脚光を浴びている。大豆を原料に
脈硬化の予防に効果がある。このよう
した加工食品には豆腐、味噌、醤油、
に、大豆は多様な栄養と機能を備えて
チョンクッジャン(清麹醤)などがあ
おり、肉類に代わる唯一の健康食品と
る。
して脚光を浴びている。大豆から作ら コンクッスの主材料である大豆に
は8つの必須アミノ酸がすべて入って
れる加工食品には豆腐、味噌、醤油、 チョングッチャンなどがある。
いる。また大豆はタンパク質食品であ りながら脂肪はほとんどなく鉄分、カ ルシウム、カリウム、ビタミンAと
冷コンクッスの作り方 前述した昔の調理書『是議全書』
C、葉酸など各種ビタミンとミネラル
にコンクッスの作り方が簡単に説明し
が豊富な一方で、カロリーは低く肥満
てある。「大豆を水に浸けてふやけた
の予防に効果がある。大豆には水溶性
ら、さっと湯がいてからメットル(碾
食物繊維が豊富なので便秘の予防とガ
き臼)で挽き、それをざるでこして塩
ンの予防に効果がある。また血糖を
で味付けをした後、クッス(麺)を作り
が健康食品として人気があるので、コ
ゆっくりと引き上げるのにも役立つの
そのうえに青菜を千切りにしたものを
ンクッスは夏の冷たい麺料理の代表格
で糖尿病の治療にも効果的だ。また骨
のせる」とある。コンクッスを作るに
となっている。
を丈夫にするカルシウムやマグネシウ
はまず大豆を水に十分に浸けて、ふや
ム、女性ホルモンである植物性エスト
けたら皮を剥き沸騰したお湯でさっと
ロゲンが多く更年期症状の緩和と骨粗
湯がき取り出す。冷めたら碾き臼やミ
大豆の成分であるイソフラボンは
しょう症の予防にも効果的だ。また骨
キサーにかけて粉砕し、塩で味をつけ
カルシウムの利用率を高めガン細胞の
格の成長期の青少年にも大豆は勧めた
れば、コンクック(大豆汁)ができ上が
増殖を低下させるので特に、乳がんと
い食品である。
る。冷たく冷やしたコンクックに麺を
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大豆の栄養的な価値
前立腺がん、卵巣がんの予防に効果的
大豆の成分であるイソフラボ
入れてキュウリの千切りをのせていた
だ。大豆に豊富に含まれているタンパ
ンはカルシウムの利用率を高めガン細
だく。大豆を粉砕するときに、ゴマや
ク質は大部分がリノール酸とリノレン
胞の増殖を低下させるので、特に乳が
黒ゴマ、落花生、松の実などを混ぜる
酸などの不飽和脂肪酸で、血管壁にコ
んや前立腺がん、卵巣がんの予防に効
とさらに香ばしく、深い味を引き出す
レステロールが溜まることをふせぎ動
果的だ。大豆に豊富に含まれているタ
ことができる。
脈硬化の予防に効果がある。このよう
ンパク質は大部分がリノール酸とリノ
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麺で変化を与える コンクック(大豆汁)に入れる麺は
冷コンクッスの料理方法(3人分)
素麺が最もよく使われる。素麺は西洋 のパスタ用の麺のように乾燥したもの
材料
を湯がいて作る。コンクックに入れて
素麺 300g、きゅうり ⅓個、チェリートマト 3個、
食べるには太さの一番細い素麺がぴっ
朱赤色のパプリカ⅛個、
たりだ。乳白色の大豆汁にやはり白い 麺を入れ、飾りとして野菜をのせれば
梨 ⅛個、松の実大さじ1、 ゴマ 少々。 コンクック(大豆汁): 水でふやかした白い大豆 カップ2、炒めたゴマ大さじ1。
シンプルで素朴なコンクッスが完成す
水カップ5 (大豆を茹でるときにカップ2 、
る。そこに視覚的、味覚的な変化をつ
大豆を轢くときにカップ3)、塩小さじ1
けたいなら、クロレラ素麺や緑茶素麺 を使えばよい。淡水緑藻のクロレラの 粉や緑茶の粉を混ぜて作った麺だ。麺
料理方法 1
の緑色がコンクッスを華やかにしてく れ、大豆汁の香ばしい味に麺のほろ苦 く香りの良い風味が加わり味も一層豊
味噌などを作る白い大豆を準備し、きれいに洗ってから10時間ほど水に 浸けふやかした後、手でもんで皮を剥く。
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鍋に水カップ2を入れて、ふやかした大豆を入れてさっと湯がいてから冷 ます。大豆は煮すぎると香ばしさがなくなる。
3
かになる。キュウリ、トマト、梨、カ
碾き臼かミキサーに茹でた大豆とゴマを入れ、水カップ3を入れながら 細かく粉砕する。
イワレ大根、松の実のような多様な飾
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③の汁を塩で味をつけし、冷蔵庫に入れて冷やす。
りで装飾性と栄養分を加えれば食べる
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きゅうり、パプリカ 、梨は千切りにし、チェリートマトは薄く輪切りに
楽しみも増加する。
しておく。 6
鍋に水を入れ塩を少々入れ、沸騰したら素麺を入れて箸でほぐしながら 茹でる。茹で上がったら冷水でよく洗ってぬめりをとる。(洗った麺は整 えておく)
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器に素麺を盛り、きゅうり、パプリカ、梨の千切り、チェリートマトの 輪切りをのせ、コンクック(大豆汁)をかけて氷を浮かべ、最後に松の実 とゴマを適当量散らすと出来上がり。
1 水に浸けてふやかした大豆を鍋でさっと煮る。 2 乾燥状態の素麺、緑色のが緑茶素麺。 3 水に浸けるまえの大豆。
3 夏号 2010 | Koreana 81
遠くの目
「本」から見える日韓関係 ノンフィクションや評論については手元にデータがないので詳しいことは分からないが、 文学書の数字を見て目を疑った。前述のとおり2009年に韓国で翻訳出版された 日本の文学書は886点だが、同じ年に日本で刊行された韓国の文学書はわずか 10点(前年は13点)しかないのである。 ほんだ・おさむ(本田 修、国際交流基金ソウル日本文化センター所長)
「ポ
ラナビ著作・翻訳賞」をご存知だろう
何よりも驚くのは、日本の小説の翻訳書の多さで
か。韓国での日本理解を深めるた
ある。2009年に韓国で出版された日本の文学書は886
め、韓国人の著作者・翻訳者を応援
点。同年に韓国で出版された文学書全体の1割を超え
しようと国際交流基金が2007年度に創設した賞であ
るというのだから大変な数である。出版関係者の話し
る(注1)。第1回は、日本に関するエッセイ・評論が対
によると、日本の主な文学賞が候補作を発表すると、
象で、キム・ジュニャン(金俊壌)氏の『イメージの帝
韓国の出版社は翻訳出版権獲得のためいっせいに動き
国:日本列島の上のアニメーション』が、また、現代
出すのだそうだ。日本でもベストセラーになった村上
日本小説の翻訳書を対象にした第2回では、イ・ヨンミ
春樹の『1Q84』は、韓国語版の権利をめぐって各社が激
(李英美)氏が翻訳した吉田修一の『キャラメル・ポップ
しい争奪戦を展開し、入札の結果約1億円で落札され
コーン』 (原題『ひなた』)と『悪人』が授賞作に選ばれた。
たと報道された(同書は韓国のネット書店が発表した
ノンフィクション分野を対象にした第3回では、チョ
「読者が選ぶ今年の本(2009)」に選ばれ、同年8月の刊
ン・ジェジョン(鄭在貞)氏の『京都からみた韓日通史』
行以来8カ月で発行部数が100万部を突破するなど過去
が受賞した。
数年で最高の売れ行きとなっている)。
本を選んで賞を出すのは大変な作業である。過去
こうした日本小説の人気にはさまざまな理由があ
数年の膨大な書籍の中から選考対象に該当するものを
ろう。個人主義やポスト・モダンの状況が一歩進んだ
拾い出し、数次にわたる絞り込みを経て、最終候補作
日本の姿が韓国の若い世代に新鮮に映るという分析の
の読み込みを行う。選考委員は、大学やマスコミでの
ほか、韓国は純文学と大衆小説の区別が明確で日本の
お仕事や執筆活動で多忙な方々ばかり。それでも、熱
ようなクロスオーバーの作品が少ない、推理小説の作
心に作品を読み、真剣に議論をしてくださる姿には頭
家がほとんどいない、作家の多くは短編を中心に書い
が下がる。
てきたため複雑・緻密なストーリー展開の魅力に欠け
過去3回の選考は、韓国での日本関係図書の出版 傾向を知り、日本に対する関心のあり方を考える機会 でもあった。
82 Koreana | 夏号 2010
ている、といった研究者の指摘もある。 小説の活況に比べると、日本に関する評論やノン フィクションは、刊行される本の数も控えめである。
第3回「ポラナビ著作・翻訳賞」授賞 式。第1回から3回までの受賞者が 顔をそろえた。
しかしながら、取り上げられるテーマが多様化し、綿
(その逆は1,525本)。韓国では日本のTVドラマを地
密・正確な取材にもとづく高水準の作品が増えている
上波で放送することはまだ解禁されていないが、それ
のは喜ばしいことである。ノンフィクション分野の最
にしても日本に流入する韓国のTV番組の数は圧倒的
終選考に残った作品も、いわゆる日本文化論に加え
である。
て、日本の老舗企業、プロ・スポーツ、都市の再活性
映画の数も興味深い。2009年に韓国から日本に輸
化など日韓の共通関心事項が並んでいて、この分野の
出された映画は65本、その逆は50本。年により逆転す
一層の発展が期待される。
ることもあるが、大きくみると両者の本数はほぼ拮抗
こうなると、気になるのは日本での韓国関連書物 の出版状況である。
している。 小説が国境を越えて多くの読者に受入れられるた
ノンフィクションや評論については手元にデータ
めには、作品の魅力、読者の関心に加えて、優れた研
がないので詳しいことは分からないが、文学書の数字
究者や質の高い翻訳者、出版に結びつく情報の流通な
を見て目を疑った。前述のとおり2009年に韓国で翻訳
どが必要となる。
出版された日本の文学書は886点だが、同じ年に日本
韓国も、韓国国際交流財団、韓国文学翻訳院、大
で刊行された韓国の文学書はわずか10点(前年は13点)
山文化財団などが近年、自国の作品の海外発信に力を
しかないのである(注2)。
入れている。
日本では韓国の小説はなかなか売れず、これまで
日韓の相互理解を拡げ、深めるためには優れた
刊行されてきた本の多くは自費出版の延長のようなも
出版物の交流が不可欠である。これからも、両国関係
のだった、と翻訳を何冊も出されている日本の老大家
者の方々と一緒になって、よりよい環境づくりに取り
から伺ったことがある。韓流ブームがあってもこの状
組みたい。
況はあまり変わっていないようだ。日本人は結局、韓 国に関心がないのだろうか。必ずしも、そうではな い。例えば、TV番組。韓流ドラマなど日本に輸出さ れた韓国のTV番組は2009年1年間で11,344本に上る
注1:ポラナビは韓国語で「紫の蝶」 。国際交流基金のロゴマーク に由来する。 注2: 『出版ニュース』 2010年4月中旬号。舘野晢「日本と韓国、 『文学書』 の翻訳刊行状況を比較する」による。
夏号 2010 | Koreana 83
暮らし
ソウル城郭-
都心に息づく歴史 ソウルはもともと精巧に築造された石造りの城で囲まれていた。最近、昔の城郭の跡を辿って 歩きながら、ソウルの歴史に触れて、市内の景色を眺望できるという散策コースで週末を 過ごす市民が増えている。以前は部分閉鎖となっていた区間が順次開放されたことで、 ソウルを一周できる循環探訪路が完全に復旧したからである。 ナ・スホ(那秀昊、韓国外国語大学校通訳翻訳大学院教授) 写真 : 金容喆
ソ
ウル城郭が建てられてから600年が過ぎた今、城郭に沿って歩けるということは、ソウル市民 にとって新鮮な経験といえる。1968年1月、北朝鮮が送り込んだ一団の武装スパイがソウル近 郊の山に侵入した事件が発生して以来、城郭のもっとも長い区間が閉鎖されてしまい、一般市
民の立ち入りは禁止されていた。1993年に仁王山が一般に開放されたのを皮切りに、大統領府の青瓦台 の裏山にあった北岳山の閉鎖区間も2006年から2007年にかけて順次開放された。今韓国民は城郭を通し て、ソウルの貴重な歴史を体験できるうえ、新しい角度から都市を眺望できるようになった。
六百年を超える歴史 朝鮮王朝は1392年から1910年に日本の植民地になるまで、500年以上も朝鮮半島を治めていた。 1394年に朝鮮を建国した太祖は、ソウルに遷都した。しかし、新しい首都を宣布するだけでは充分では なく、一国の首都にふさわしく、あらゆる制度と施設を整備しなければならなかった。宮殿と共に、儒 教国家にとってもっとも重要な宗廟が建てられ、さらに1396年には城郭の建設も始まった。 ソウルは周囲を山に囲まれていて、特に都市の中心部は「内四山」と呼ばれる山々によって四方が 囲まれている。内四山とは、北側の北岳山(342m)、南側の南山 (262m)、東側の駱山(125m)、西側の仁 王山(338m)を指す。ソウル城郭は山地は石で、山間に広がる平地は土城で、この四つの山を連結してい る。もともと、城郭のほとんどは1396年に完成したが、城門とその他の防御施設の完成までにさらに数 年がかかった。 20余年が経ったのちに、世宗大王は毀損した城郭の全面的な補修整備の事業を命じた。1422年に始 まったこの城郭補修工事には、全国各地から30万人以上の民が動員されたが、当時のソウルの人口が10 万人程度であったことを考えれば、その規模の大きさの程が想像できる。わずか5週間で、既存の石城 と防御施設の補修が完了し、土製の城は石城に変わった。 もともとソウル城郭は、都城の防御を目的に建設されたが、16世紀後半から17世紀初頭にかけた激 動の時期には本来の役割を果たせなかった。いくら丈夫な城郭であっても、城を守り敵に対抗できる兵 力がなければ奪われるしかないのだ。1592年に日本が侵略してソウルまで進軍してきた際、宣祖と朝廷 の臣下らは、城郭を無防備のまま捨て去り、首都を背に避難を余儀なくされた。1624年に李适という武 官が反乱を起こした際にも、抵抗すらできず首都を明け渡してしまった。さらに1636年、清が侵略した 時にも、仁祖はソウルを離れて南漢山にある山城に避難したが、清の軍隊が南漢山城を包囲して王を降 84 Koreana | 夏号 2010
伏させた。 清の軍隊は引き揚げる前に、朝鮮に条約の締結を迫った。その条約には既存の城郭を補修したり、 新しい城郭の建設を禁止する条項が含まれていた。したがって約70年の間、ソウルの城郭はだんだん廃 れていった。ところが、18世紀に入ってから粛宗がその条約を破り、城郭の整備を命じ、1704年から始 まった工事は5年間に及んで完成した。 近代化と日本による植民地時代の過程で城郭は発展の障害となった。1898年と1899年、電車を敷設 するために城郭の一部が除去され、20世紀に入った後もなお他の区間が撤去された。1910年、日本が韓 国を併合した後、対アジア戦略の一つとして韓国の近代化計画を打ち出した。1912年にソウルの近代化 計画が発表され、ソウルの平地城郭のほとんどが撤去された。1975年になってようやく、韓国政府は城 郭の補修に取り掛かるようになったが、この作業は現在も続いている。2006年に文化財庁とソウル市は 2013年の完成を目指し、ソウル城郭の復旧工事をスタートさせるとともに、工事が完了すれば、ソウル 城郭をユネスコ世界遺産への登録を申請する計画である。 ソウル城郭には 距離の短い散策路か ら山の稜線に沿って 登る長いコースまで あり、訪問客には 多様な選択肢がある。
ソウル城郭の現状 もともと全長18.2キロメートルに達していたソウル城郭だが、現在はその内の10.5キロメートルだ けが残っている。損なわれていない区間の内、もっとも長い箇所は北側の北岳山を通る区間であり、途
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1 ソウル城郭の中で、北岳山コースの スタート地点であると同時にゴール 地点となる彰義門。 2, 3 ソウル城郭巡りは、ソウル歴史 の重要なポイントを経験すると同時 に、新しい視点で都市を眺めること ができる。
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「ソウルの歴史に触れたい方は宮殿を訪れたらいいです。ところで、ソウル城郭に沿って歩いてみると、昔のソウルの規模と 風水地理説に基づいた都市の配置が一目で分かります。ソウルに対する新しい視点を発見できますよ」
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中寸断された区間もあるものの、西側の仁王山まで続く。それ より短いが、恵化門と興人之門(東大門)を結ぶ東側の洛山と、南 側の南山にも一部が残っている。中でも一番人気のある区間は、 仁王山から北岳山まで続く区間であるが、長い期間、立ち入り 禁止区域であったことも人気の一因だと思われる。 ソウル市のク(具)さんはソウルに住んで久しいが、今度兄 弟三人でソウル城郭を訪れる計画に胸をときめかしている。「今 回の登山は待ち遠しいです」、そして「我々はソウルに住んで、 既に40~50年が過ぎましたが、北岳山にはスカイウェイのドラ イブコースを通って八角亭に行っただけです」と続けた。仁王山 と北岳山が見える市内の中心街で働くチョ(曹)さんは、月二回 程度はソウル城郭を訪れると言う。「頂上からソウル市内を見下 ろすのが好きですが、城郭にはその他にも展望スポットが多く、 展望台も設けられていて景色が楽しめるのも嬉しい」とチョさん は言う。仲間のイ(李)さんも同感しつつ、「ソウルの歴史に触 れるためには宮殿を訪れてもいいです。しかし、ソウル城郭に 沿って歩いていると、昔のソウルの規模と風水地理説に基づい た都市配置が一目で見下ろせます。ソウルに対する新しい視点
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が発できます」と付け加えた。 城郭のほとんどが稜線に沿って建てられているので、訪問客は眼下に広がる美しいソウル市のパ ノラマを満喫しながら、かなりの運動効果も期待できる。彰義門から東側に向かって歩くと、北岳山に 沿って建つ城壁の急傾斜をくねくねとした階段に沿って上がらなければならない。しかし頂上にたどり 着くと、爽やかな空気と、峰と峰の間に現れたソウルの景観に目を奪われて、疲れも吹っ飛んでしまう ようだ。 目の前に広がる景色を充分楽しんだ後は、城郭の成り立ちを通して歴史の中へと旅立つことができ る。城郭には朝鮮王朝の太祖時代に建てられた城壁と、世宗時代に補修工事を経て建てられた城郭、そ して数世紀後に建設された城壁まで、3種類の城郭築造様式がはっきりと現れる。もともとの城壁は比 較的小規模で、不規則な形をした石が使われていて、かなり有機的な印象を与える。世宗が城壁を補修 する際、大きな長方形の石を基本にしながら、その間の隙間を埋め込むために小石を混ぜて築造した。 この城壁は有機的に見える一方で、その線はもっと一定である。18世紀の建築物にはその特徴がもっ と顕著であるが、一定の大きさで正四角形の形に整えられた花崗岩を用いて、丈夫で雄大な城壁を建設 した。北東側にある粛靖門のように城壁と城壁をつなぐ幾つかの区間から、その三種類の築造様式が連 なった形態が見られる。 観察力のある訪問客であれば、城壁を構成する石の中に文字が刻まれているのを見出すかもしれな い。その石に記されている内容はたいてい、工事の日付や責任者の名簿である。また、全国から民が動 員されたので、その区域の工事を担当した人足の出身地域を記した内容もある。城壁は概ね180メート ルを基準に、全部で97の区域に分けられているが、その区域を単なる番号ではなく、漢文の入門書であ る千字文の本文を使って区間を表示した。最初の区間は北岳山の頂上付近で、千字文の最初の字である 「天」を用いて名づけた。その順番は東の方向、すなわち時計回りに沿って辿って行くと、北岳山の頂上 に戻ってくるという最後の区間は、千字文の97番目の字である「弔」と名づけた。 最後に城郭そのものの特徴も見逃せない。もっとも目に付きやすく、象徴的なのは城壁の上にある 女檣(城郭の上にある欄干)である。その女檣には小さな隙間があって、遠くから見ると歯並びのように 見えるが、その女檣にはそれぞれ三つの銃眼(銃を撃つための穴)が掘られている。両側にある二つの穴 は城と並んで水平になっているのに比べて、真ん中の穴は斜めに下の方に向いているため、守備する側 夏号 2010 | Koreana 87
の兵士は、敵が城壁に近づこうが離れようが関係なく射ることができる仕組みである。さらに、城壁の 周りに四角形の雉城と大きな曲線型の曲墻が設けられている。雉城と曲墻のおかげで、守る側は様々な 角度から敵に銃を撃つことができるため、城壁の両側を防御できるようになっている。城壁に沿って歩 いた時、もっとも印象深かった構造物は数多くの城門であった。4大門の内、東大門(興仁之門)と南大 門(崇礼門)は混雑した都心の真ん中に位置しているが、南大門は2008年の火事で焼失し、現在復元工事 が進められている。西大門、つまり敦義門は植民地時代に日本によって撤去されたが、2013年までに復 旧される予定である。北門の粛靖門だけが現存している。
新しいトレンドのトレッキング ソウル城郭は当時の都の歴史を語る大事な文化遺産であると同時に、現代都市の中で息づいてい る。現在、ソウルの中心部を取り囲んでいるため、各地点からアクセスしやすく、ちょっとした散歩や 山の稜線を上り下りする本格的なコースに至るまで、訪問客には多様な選択肢がある。現代に生きる 人々は、もっぱら目的地をひたすら目指すあまり、周りの景色を眺めるほどの余裕を失いがちだが、中 にはスピードを落として、目的地を目指すよりはそこに辿り着くまでの旅路の過程を大事に考える人々 も多い。 このように旅路を楽しみたい人々を中心にトレッキングの人気が高まっている。韓国人の間で ちょっとしたブームになっているこの新しいレジャーの紹介を目的として、韓国政府から支援をうけた 「韓国トレッキング学校」という教育機関が設立された。同校のウェブサイト (www.kts2009.com)には、 トレッキングを「危険と逆境を乗り越え、冒険とチャレンジを通して達成感を味わえるのが登山の目的 だとすれば、トレッキングはリスク軽減に努めて、余裕を持って安全に、景色を楽しみながら自然に同 化することを目的とする」と紹介されている。 朝鮮半島には幾つか長いトレッキング・コースがある。智異山は韓国で済州島を除き、一番高い山 で高さが1916メートルあり、幾重にも山間に囲まれている谷は韓国人に特別なイメージを与える場所で ある。最近、オルレギルといって、智異山を一周する道がトレッキング・コースとして復元された。長 さが300キロメートルに及ぶこのコースは、人間の手が加えられていない自然のままの姿を維持してい 1 る箇所を通過する。このコースは幾つかの小さな区域に分かれていて、小旅のコースとしてもぴったり
である。 韓国の南西側に浮かぶ済州島には海岸に沿ってオルレギルが形成されているが、韓国で一番高い漢 拏山(ハンラサン、1960m)を一周するようになっている。現在15のコースがあるこの道は島の西側の端 から東端まで215キロメートルに及び、これからも様々なコースができる予定である。ソウル近郊でも、 現在北漢山の周りに沿ってトレッキング・ コースを作る工事が行われている。今年 3月、コースの最初の区間である巡礼街 道が開放され、2013年までは全区間が完成 するものと見られる。トレッキングは既 に登山と一緒に心身を健康にする新しい ライフスタイルとして韓国人の間に浸透 しつつあるのだ。
眼前に広がる景色を充分満喫した後、 城郭を通して歴史の中にタイムスリップすること もできる。
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韓 国 文 学 の 旅
朴
婉
緒
パク・ワンソ(朴婉緒、1931~)は40歳で『裸木』で文壇にデビューし、その後、人間の二重性と偽 善を余すところ無く描きつくした小説で、「この時代の卓越したストーリーテラー」という評価 を受けてきた作家だ。自分の戦争体験をもとにして戦争が家族史に与える影響を扱った長編小 説を何冊も発表している。
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作家評
女たちの
朝鮮戦争 パク・ヘギョン(朴恵涇)
朴
婉緒は長い間、男性作家 の独壇場だった朝鮮戦争 と南北分断という歴史的な素
材を女性の視点と感受性で再現し、韓国
を背負うことになった女たちにとって人生 とは、生き残ること、生存することが唯 一の課題だった。朝鮮戦争を扱った彼女 のほとんどの作品がそうなように、『空港
文学史に新しい可能性を開いた特別な存在だ。特
で会った人』でも作家の主な関心事は戦争で
に彼女の小説は男性的な力の論理に基づいたマク
はなく戦争からとり残された女たちの人生だ。前
ロ的な歴史解釈の裏に選り分けられていたミクロ
線で戦う男たちに引けを取らないくらい熾烈な戦
的な日常を小説の舞台として積極的に取り上げて
いを後方に残された女たちもしてきた。『空港で
いる。戦争が個人の人生に残した深い傷跡を豊か
会った人』の中で米軍のPXは当時の韓国の女たち
な質感で描いているのが特徴だ。歴史や政治など
が生計のためにがむしゃらに貧困と戦っていた現
と関連した骨太の素材を具体的な経験で解きほぐ
実の一つの象徴的な舞台だと言える。そういう意
していく彼女特有の巧みなストーリーテラーとし
味で『空港で会った人』の中でPXで働く韓国の女
ての才能は、朝鮮戦争と分断の現実を扱った作品
たちが体中に巻きつけた米国製の商品を下着の中
でも遺憾なく発揮されている。特に日本の植民地
に隠したまま、のろのろと歩いている喜劇的な様
時代から朝鮮戦争勃発前後までの歴史的な激動期
子は戦後の廃墟の中で生き残らなければならな
は、作者自身の幼年期から青少年期にかけての成
かった当時の韓国人の悲劇的な暮らしを反映して
長期と一致している。そのため自己のアイデン
おり、笑うことのできない場面だ。
ティティーが形成される最も敏感な時期に彼女が
知ってのとおり朝鮮戦争は南北に国境を分
経験した歴史的暴力は、その小説の中に消すこと
断された韓国人同士の内戦であると同時に東西の
のできない霊魂のトラウマとして繰り返し登場し
イデオロギーが朝鮮半島で熾烈な交戦を繰り広げ
ている。
た国際戦でもあった。アメリカが韓国の同盟国と
朝鮮戦争を素材にした彼女の作品の中で、
して確固たる位置を占めたこの戦争で、アメリカ
戦争とは女性にとって息子をはじめとする家中の
は当時の多くの韓国人にとって韓国を共産主義の
男たちがある日突然無残な死を迎えるという納得
脅威から守ってくれる有り難い国であり、戦争で
できない災いに過ぎない。しかし戦争のもたらし
廃墟となった国に新たな物資を供給してくれる救
た悲惨な現実の中で、生き残った者たちは生活を
援者だった。当時米軍が通り過ぎる街角には半裸
続けていくほかない。彼女たちが到底受け入れる
の子供たちが群がり「ギブミー・チョコレート、ギ
ことも、許すこともできないイデオロギーという
ブミー・キャンデー」と叫んでいた。それはまさ
巨大な怪物が男たちを飲み込み、突然一家の生計
に施す側のアメリカと恵んでもらう韓国との関
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係を示す象徴的な光景だった。子供たちが道で米
猛獣の目のような完璧な孤独がこもっている」目
軍に向かい「ギブミー」を叫んだように、大人たち
は「三千万韓国人がみんなヤンキーのおかげで生
の「ギブミー」はPXでアメリカ製の商品を密かに
きている」という現実の前で、強者の力に屈従し
持ち出して横流しすることだった。戦争で廃墟と
まいという彼女の孤独な戦いの総決算だった。逼
なった国で、ひどい貧困と生存の危機と戦ってい
迫した生存の危機に直面している韓国人にとっ
た韓国人にとって、生まれて初めてみる珍しい米
て、衛生だなんだかんだと言っている米軍の余裕
国製の商品の並ぶPXは何よりも強烈な羨望の対
はそれこそ蛮行にしか見えなかったのだ。
象であった。その為、当時の韓国人にとって、PX
彼女は戦場に行った夫が軍人らしく名誉の
で売られている珍しい米国製の商品は単なる生計
戦死を遂げることを願い、あるいは「お前らは
の手段を越えて、未来の幸福を保証してくれる神
三千万韓国人が皆お前らのおかげで生きてると
秘的な宝石だったのだろう。『空港で会った人』で
思っているかもしれないが、韓国人のおかげでご
PXの商品を横流ししていた韓国女性が本当に盗
飯を食べてるヤンキーもいるんだ。私がそのヤン
みたかったのは未来の幸福に向けての切実な希望
キーを食べさせている韓国人さ。私の夫はアメリ
だったのだろう。
カ人なんだよ」と豪語しながら威張っているのは、
しかし逼迫した生計のためであれ、未来の
彼女には命よりももっと大事なもの、自尊心があ
虚しい希望のためであれ、米軍の前で限りなく卑
るということだ。そこで「 私がアメリカに行った
屈になるほかなかった当時の韓国人にとって、PX
らもう、そんな舌を巻かなきゃならないようなア
は羨望の対象であったのと同時に己のみすぼらし
メリカの悪口は言わないの。国の言葉で、国の悪
さ、悲惨な有様を実感させる強烈な劣等感の対象
口言いながら生きていくの」という彼女の言葉の
でもあった。そんな意味でイデオロギーというの
中には単純な愛国心以前に、どんな切迫した現実
は前方の戦場にだけあったのではない。アメリカ
の中でも自分の人間的な価値は放棄しないという
の資本力に屈従した貧しい国の女たちもまたイデ
決然たる意志が込められているといえる。そして
オロギー戦と戦っていたのだ。『空港で会った人』
私たちもまた、この滅亡しかけている猛獣の目を
で「サンノメ・ベッチ」という国籍不明の罵声を口
見つめながら「三千万人がヤンキーに助けられて
癖のようにして生きているムデソアジュマは、米
いるとしても、彼女一人それに逆らい、一人でヤ
軍の前で頭を下げる屈従の習慣が身についた人々
ンキーを助けていると言うのだから、なんと孤独
の間で、わけも無く堂々としていた。まだ十分に
でメチャクチャなことだろう。しかし彼女なら出
食べられる肉の塊を漢江に捨てようとする米軍の
来る」という語り手の言葉に同意しないではいら
腕にかみつくムデソアジュマの「滅亡しつつある
れない。
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