韓国の美
ペゲッモ
© 韓国刺繍博物館
ペ
ゲモッは大きくふかふかとした西洋の枕には見ら
女たちはペゲッモに刺繍をして恋い慕う男性を思い描
れないものだ。韓国の伝統的なペゲ(枕)は布でで
いたり、夫や家族の健康を祈ったりした。ペゲッモに込めら
きたペゲトン(枕筒)に小豆、緑豆などの穀物や糠、
れたこのような格別な情緒は、時にはペゲッモを詩の素材と
そば殻、乾燥させた花びらなどを入れて作るが、西洋の枕に
して登場させることになる。その一つが、韓国を代表する現
比べてふんわり感は少なく、形も六面体か円筒型に近い。ペ
代詩人の未堂・徐廷柱(1915~2000)の「貴方は眠る」という詩
ゲッモはこのような枕の両端に当てる布のことで、枕の形に
で「貴方は眠り 私はそのペゲッモに真っ白な刺繍をする
従い四角形や円形になる。ペゲッモの装飾には多様な材料が
飛び立つ一羽の鶴だ」と詠っている。
使われた。貝殻で装飾した螺鈿(らでん)枕、 紙のように薄く剥がした牛の角に彩色し
ここに紹介するペゲッモは、赤と青の二羽の鶴が登場 する「宮中長生紋繍ペゲッモ」だ。ふちの鋸模様は
て装飾したファカク(華角)枕などがある。
災難や悪運を振り落とし、福を招くとい
しかし王室から庶民に至るまで最も広く
う除厄招福の意味がある。「宮中で使わ
使われていたのは、布に刺繍をした繍枕だ。
れていた麝香の香りで、それが宮中で作
衣服や寝具の装飾に健康や幸福の祈願を込めた韓国
られた刺繍だと鑑別できるんです」という
人は、ペゲッモにも願いを込めて刺繍したが、そのモチーフ
韓国刺繍博物館のホ・ドンファ館長(83歳)所蔵
は使用する人の性別や背景によってさまざまだ。女性用のペ
の工芸品だ。ソウルノヒョン洞にあるこの博物館では今年
ゲッモには、主に牡丹、蘭草、蓮花、梅花などの花と蝶が、
10月にペゲッモ展が開催される。館長が数十年間にわたり
男性用の枕には松をはじめ、竹や梅などの四君子が縫い込ま
収集してきた100点あまりの宮中および民俗ペゲッモが出品
れた。新婚夫婦用のペゲッモには、夫婦円満と多産の願い
される。ペゲッモは「四方10センチの芸術」と呼ばれ、現代
を込め七羽のヒナを連れた一組のおしどりが使われた。鶴、
の韓国人に昔の人々の思いや手工芸の技を教えてくれる貴重
鹿、松、亀、不老草などの十長生や喜びと福を招く縁起の良
な資料となっている。
い文字なども枕の装飾にたびたび登場する。
韓國の芸術と文化
Vol. 16, No. 3 秋号 2009
金製舎利壺内箱。今年1月全羅北道益山市 にある国宝第11号の彌勒寺址石塔の解体・ 補修の過程で発掘された舎利荘厳具の中の 一点ⓒ © 徐憲康
6
32
16
1400年の眠りから覚めた 百済の舎利荘厳具
26
40
8 彌勒寺址と彌勒寺址石塔 金奉建
46
16 彌勒寺石塔利荘厳の遺物を発掘 李光杓 26 説話からみた彌勒寺の起源 趙興旭 70
32
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46
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56
62
66
70
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82
84
89
発行 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル Tel : 82-2-2151-6544 Fax : 82-2-2151-6592 www.kf.or.kr
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| 翻訳 金明順
申水晶
掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、〈Koreana〉や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。 1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌〈Koreana〉は英語、中国 語、フランス語、スペイン語、アラブ語、 ロシア語、ドイツ語でも発刊されています。
金製舎利壺の外箱と内箱、内箱がら出た舎利。 6 Koreana | 秋号 2009 百済の金属工芸術の優秀性を物語っている。
1400年の眠りから覚めた 百済の舎利荘厳具 国宝第11号の彌勒寺跡石塔の解体・補修の過程で国宝級の遺物「舎利荘厳具」一体が発見された。 百済の歴史研究において貴重な資料となる今回の発掘作業について考え、 「タイム・カプセル」のような彌勒寺址石塔のミステリーを解いてみよう。
秋号 2009 | Koreana 7
彌勒寺址と彌勒寺址石塔 彌勒寺は百済を代表するお寺で、三国時代における最大規模のお寺である。ここに建てられた石塔も建築史上、 記念碑的な位置づけとなっている。彌勒寺の歴史を振り返りながら、補修作業の現状と復元の問題点を多角的に 考えてみる。 キム・ボンゴン(金奉建、国立文化財研究所長) 写真 : 国立文化財研究所 | 写真 : ソ・ホンガン(徐憲康)
8 Koreana | 秋号 2009
2
009年1月、彌勒寺址石塔に1400年近くも潜めていた国
百済の滅亡以来、統一新羅時代(676-935年)にも、青銅
宝級の遺物の数々が日の目を見たことで、今年は年頭
製の鳳凰装飾、唐草紋アムマクセ(瓦)などが出土したことか
からその出土品はもちろん、彌勒寺そのものが学界やマスコ
ら、お寺が活発に経営されていたと見られる。高麗時代にも
ミからあらためて注目されている。石塔の舎利奉安の事情を
重創などを通じてお寺としての性格を維持していた。実際、
記した奉安記が発見されたが、その内容から639年の銘文が
今回の彌勒寺址発掘の結果、ヨンマル(龍マル)の両端を飾る
見つかり、7世紀に彌勒寺が創建されたことが事実として立
瓦である高麗時代のマンセが出土し、また多数の青磁も見つ
証された。発掘で出土した蓮華模様の瓦も7世紀のものであ
かったが、高麗時代にも彌勒寺は依然としてお寺としての機
ることが判明した。
能を果たしていたことを表す。 しかし、朝鮮時代に入ってからは仏教を抑え、儒教を
彌勒寺の過ぎた日 百済の第30代王の武王(在位600-641)時代に建てられた
拝む抑仏崇儒政策の影響で、彌勒寺などの仏教建築は宮殿や 官庁に比べて、その重要度は大きく落ちた。朝鮮時代の遺物
彌勒寺は、武王が心血を注ぎ、国を挙げて創建したお寺であ
は、僧侶達の居住空間であった僧房の北方を中心に出土し、
る。これと似たお寺として新羅の黄龍寺が挙げられるが、回
寺の領域がかなり縮小されて維持されていたことが伺える。
廊で取り囲まれた境内の面積が彌勒寺址の方が広いという事
朝鮮の英祖時代のカン・フジン(康候晉)は
実は、百済を代表するお寺として、彌勒寺の占める位置づけ
1738年に文集『臥遊録』で、彌勒寺
を象徴的に表している。
塔に触れて、100余年前に雷
彌勒寺址のユニークな配置方法。中園が3円並列型の 配置となっている。中園から南の方に3つの中門があ る。(イラスト/白錦林) 秋号 2009 | Koreana 9
1
の被害で塔の半分が崩れ落ちた事実を書いている。学界では 16-17世紀に起こった、文禄・慶長の役の前後の時期にお寺 が閉鎖されたものと見ている。
ユニークな配置方法 彌勒寺址は龍華山の稜線が左右に張り出した所に南向 きに位置している。全体の寺域は中門跡と講堂跡の北側に2
それから彌勒寺は廃墟と化し、石塔などは崩れたまま放
個の石築で檀を設け、敷地を造成している。前面部は南門と
置されていた。20世紀初めの写真をみると、依然として畑の
中門の間の長方形の区域を回廊で取り囲んでおり、中心部は
真ん中に半分ほど崩れたままの彌勒寺石塔が確認できる。そ
東、西及び中園という三つの領域に分けている。各区域には
の後、1974年8月に円光大学校が行った発掘調査の際に東塔
塔と金堂を1棟ずつ配置する百済固有の1塔式伽藍配置方式
址が見つかり、1980年からは韓国政府の調査機関である国立
に従って、3つの円を並列に配置する方式である。ただ、講
扶餘文化財研究所が「百済文化圏調査事業」の一環として彌勒
堂だけは中園の北側だけに配置している。東・西園の北側は
寺址全域を対象に17年間に及ぶ発掘調査を実施した。その結
講堂の方に開放する構造になっていて、中園には木塔を、東
果、東塔と西塔の間に木塔を建て、一直線上に3基の塔を配
と西園には石塔を建てた。
置して、それぞれの塔の北側に金堂を1棟ずつ配置した伽藍
彌勒寺の3円並列方式は、他の寺院ではその例のない非
配置であることが分かった。現在は寺域全体が史跡第150号
常にユニークな配置方法である。これは兜率川に居住してい
に、また石塔は国宝第11号に指定されて保存されている。
た彌勒が未来に3回の説法を通 じて衆生を救済するというお
2
10 Koreana | 秋号 2009
1 お寺の入り口に立っている彌勒寺址幢 竿支柱(宝物第236号)。この二本の石 柱は、旗を掲げた竿である幢竿を両端 から支える機能を果たしている。 2 彌勒寺址から出土した蓮の花文瓦とマ ンセ 3 彌勒寺西塔のデジタル復元図 ©パク・ジンホ 4 解体以前の彌勒寺西塔の姿
4
経の内容に基づいたものであると見られる。つまり、彌勒寺 創建の思想的背景として、当時北東アジアに栄えた彌勒思想 があることが分かる。彌勒思想による配置方式は金提、錦山 寺彌勒殿に3基の仏像を奉安したこととも関係がある。 『三国史記』の記録によると、創建当時の彌勒寺の姿に 対して、仏像を据えた仏殿、舎利を奉安する塔や回廊な ど、3か所を作ったと伝えられる。発掘の結果、実際に回 廊で区画された3つの園を持った配置と池が見つかり、記録 の信頼性が確認できた。お寺は仏教の宗教観を実現し た宗教建築物であり、彌勒寺は彌勒思想が寺院の配置 にそのまま適用されたユニークな例の一つとして 取り上げられている。
建築歴史的な意味合い 益山彌勒寺址には当初、東と西園にそれぞ れ1基の石塔が存在していた。上輪部の下段の露盤石 を根拠に、東園9階塔の本来の姿を推定・復元したのが 1990年代のことである。6階の一部のみが残っ ている状態だった西園の石塔は、現在解 体されて修理される過程で今回の発掘に つながった。 3 秋号 2009 | Koreana 11
1 朝鮮総督府が発刊した〈朝鮮古跡図譜〉に載った殖民 地時代の彌勒寺址石塔の姿 2 黄龍寺の全体復元計画案 3 彌勒寺址の全景 4 解体した西塔の補修整備を巡っては、3階まで復元し て4階以上は整備する案(左側)、既存の形相を保存 する歴史的イメージ再現案(右側)など、様々な方法 が話し合われている。
1
彌勒寺は百済の武王が心血を注いで建立した護国寺であり、国を挙げて建てたお寺だった。当然ながら、建立の工程で当代最高 の技術者らが参加したと思われる。当時百済には優れた建築技術があり、新羅や日本の寺院建築と築造に大きな影響を与えた。
2
12 Koreana | 秋号 2009
3
4
本来塔は仏様の舎利を奉安するために作られた建造物
数も多かった。彌勒寺址石塔も複数階で高層だったと推定さ
である。材料は煉瓦であり、その形態はインドの仏教聖地で
れ、解体以前に残っていた6階の高さも14.21mもある。全
あるサンチにある古代インドの塼塔であるサンチ塔のよう
羅北道益山市の旧行政区域だった益山郡の邑誌である『金馬
に、器をひっくり返した形をしている。インドの塔は中国に
誌』(1756年、英32年刊行)は彌勒寺石塔の高さが10階以上で
仏教が伝わってから、当時中国で流行っていた構造楼閣形を
あり、東方最高の石塔であると記述している。彌勒寺址石塔
象った木塔に形が変った。
は現存する石塔の中では最高の技術を誇る。最大規模の石塔
高句麗を通じて仏教が伝わる過程で木塔が韓国にも建
を建てるためには、石造加工や建立技術が欠かせないが、彌
てられた。楼閣形木塔を建てた跡が見られる平壌の清岩里寺
勒寺址石塔の存在は当時の百済の石塔加工技術と建立技術が
址がその例である。ところが、それ以来は周辺で手に入れや
いかに優れたものであるかを物語ってくれる資料といえる。
すい花崗岩を材料にした石塔が主流を成すようになった。益
彌勒寺は武王が心血を注いで完成した護国寺であり、
山彌勒寺址石塔は木塔が石塔へと変遷する過程における最初
国を挙げた建築であったため、当然、建立の工程に当代最高
の例として、建築史上非常に重要な意味合いを持つ。多くの
の技術者たちが参加したものとみられる。百済は当時進んだ
副材料を一つずつ組み合わせていく構造方法を用いている反
建築技術を保有しており、新羅と日本の寺院建築に大きな影
面、石塔は木材に比べて加工するのが難しいため、石をその
響を与えた。黄龍寺9階木塔は百済の職人だったアビジを招
まま積み上げるやり方を用いる。益山の彌勒寺址石塔をよく
待して645年に建てたと伝えられる。黄龍寺木塔が建築され
見ると、幾つもの石材を木造建築のやり方のように繋ぎ合わ
る時期には、既に彌勒寺が完成した時期であり、アビジは彌
せて構造を完成している。しかし木塔は、材料の木材が可燃
勒寺の創建にも参加した可能性が高い技術者だったと思われ
性であるため、戦争の過程で焼けてしまう経験から、中国で
る。『三国史記』にも彌勒寺創建の際、眞平王が技術者を派遣
は塼塔、韓国では石塔へと、材料を変えるようになったの
して助けたという記録が残っていることから、百済と新羅が
だ。ただ、木材の供給が円滑な日本の場合は、木塔の伝統が
お互いに建築技術面で協力し合ったと見られ、彌勒寺こそ、
そのまま受け継がれた。
その交流の場であった可能性がある。
仏教が伝わった初期の木塔は楼閣形の建物を倣って階
日本最古の歴史書である『日本書紀』には百済が6世紀初 秋号 2009 | Koreana 13
1
め、日本に仏教を伝えたという事実が記録されている。当
石塔の安全に対する精密診断を経て、解体工事を行うという
時、大和政権の権力者だった蘇我氏の要請で、588年(百済 威
最終決定が下された。2001年から国立文化財研究所が解体
徳王35)に百済から造寺工(建築技術者)、瓦博士(瓦を焼く職
工事を受け持ち、六階部分から進められていた解体は基壇部
人)、画師などの職人が渡来し、彼らがその翌年に日本初の
位まで完了した。
仏教寺院である飛鳥寺を創建したと記録されている。実際に
二階の解体過程で遺物が見つかったが、銘文のある統
飛鳥寺から出土した蓮華文の瓦は円形突起式と三角突起式の
一新羅時代の小さな壺の破片、高麗時代の1317年の瓦片、
瓦であり、蓮弁に比べて真ん中の子房を小さく表したことが
朝鮮後期の18世紀のコインなどが発見されたのだ。見つ
一番の特徴であるが、これは6世紀後半に、扶余地域だけで
かった遺物を通して彌勒寺址石塔の補修工事が過去数回も行
流行っていた瓦の模様である。
われたことが推定される。
一方、四天王寺の配置は南北軸線上に中門・塔・金堂・講
また、解体の過程で木塔の心柱に当たる心柱石が六階
堂を一直線に配置した百済の典型的な1塔1金堂式伽藍配置
から下部まで繋がれて いるのが発見された。石塔の段を積
と同じで、百済仏教の影響を証明している。
み上げる度に5cm前後の黄土を敷いたユニークな技法の跡も 見つかったが、これは重い石を積み上げる際に、一種の緩衝
解体と補修
材と水平を取る役割を果たしていたものと見られる。
百済の武王当時は勇壮で華麗だったはずの彌勒寺址石
2009年1月14日には、一番下の心柱石舎利孔内から舎
塔の姿は見る影もなく半分ほど崩れ落ちたまま放置されて
利を保管する壺の形をした舎利器など、数多くの遺物が発見
いた。塔の補修工事が始ったのは日本による殖民地時代の
され、彌勒寺の創建時期に関する疑問を解く成果を挙げた。
1915年のことである。ところが、当時の補修工事といえば、
現在は下層基壇を解体していて、今年中に解体作業を
崩れた部分をセメントを塗る程度の応急措置に過ぎなかっ
完了させ、2014年までには補修作業を完了する計画である。
た。それも時間の経過とともに、強度が落ちて、表面も黒ず
一方、補修の方向性に対しても様々な議論があった。9階へ
むようになった。したがって、1978年と1989年には西塔に
の復元案と解体以前の状態である6階への復元案が対立した
対する調査とともに東塔に対する復元設計報告書が出され、
が、真正性、構造的安全性、そして考証の難しさなどの理由
14 Koreana | 秋号 2009
1 解体した石塔から出た石が分類・保管されている 光景 。 2 西塔の断面図。木塔の心柱に当たる心柱石が基 壇から6階まで積み上げられている。 3 国立扶余文化財研究所が1996年に刊行した〈彌勒 寺〉に載った彌勒寺の配置図 。
講堂址
西園
中園
東園
西塔
木塔
東塔
西幢竿支柱
2
から、結局6階への復元案に落ち着いた。
東幢竿支柱
3
る方法である。彌勒寺址の場合は発掘の結果、建築物の基壇 などは露出されているため、一部遺構基壇の復元は考証上の
彌勒寺復元を巡る幾つの方向性
問題もなくもっとも現実的な方法である。さらにこのやり方
ローマに本部を置くユネスコの傘下機関である「文化財
は考古学的な遺構の損傷も最小限に抑えるメリットもある。
保全および復元のための国際センター(ICCROM)」では、復元
第三に、寺域全体を復元するよりは、一部の建築物だ
は極めて例外的な場合に制限的に行われるべきであると規
けを復元する方法である。これは、すべての建築物を復元す
定している。つまり、戦争や火災など、やむを得ない事態に
る場合に発生する費用と事後管理などの問題を考慮した折衝
よって文化財が損なわれた場合に限っている。さらに、この
案である。
条件を満たしたとしても原型に対する証拠が十分ではない状
第四に、寺域内にあるすべての建築物を復元する方法
態で推定による復元は原則的に禁じている。彌勒寺は雷や火
である。この方法は考証の問題がまず解決されるべきであ
災などのやむを得ない理由によって毀損された文化財である
り、その他にも予算の問題も残る。さらに、全体復元はこれ
ことは事実だが、原型に関する証拠が不十分である。従っ
らの問題以外にも、現存の遺構を毀損してしまう恐れがある
て、彌勒寺復元の方向性は次のように考えられる。
という問題と事後活用と管理の問題も提起される。
第一に、実際に建築物の復元を試みる代わりに、コン
全体復元により起こりかねない遺構損傷の問題の解決
ピューターグラフィックなどのテクノロジーを用いた間接復
策として、遺構が残っている場所以外の場所を選択して移
元の方法を採用することである。この場合は、復元工事費用
転・復元する方法も一つの代案として考えられる。これはエ
の削減、事後管理の問題が簡単に済むというメリットはある
ジプトのアスワンダムの水没の際に、文化遺跡を他の場所に
ものの、実物の復元に比べて現実感が乏しいというデメリッ
移転して復元した方法と同じやり方である。
トがある。 第二に、建築物の復元よりは基壇など、一部の補修に 集中する方法である。これは、考証が不十分である場合、推
彌勒寺復元の問題は、上述した様々な問題点を綿密に 検討してから、もっとも合理的な方法を見つけるべきであろ う。
定に依存した復元を避けながらも基壇などの遺構を保存でき 秋号 2009 | Koreana 15
彌勒寺石塔利荘厳の 遺物を発掘 「これほどまでに完璧な形のまま出土した古代舎利工芸品は非常に珍しい」というのが発掘された遺物に 対する評価である。百済工芸の流れを明らかにしてくれる金製舎利壺を始め、百済人の暮らしと 内面世界を映しだす遺物の数々を調べてみよう。 イ・グァンピョ (李光杓、東亜日報 文化部記者) (徐憲康) 写真 : 国立文化財研究所 | 写真 : ソ・ホンガン
造形美と工芸技法の優れた金製舎利壺 16 Koreana | 秋号 2009
秋号 2009 | Koreana 17
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18 Koreana | 秋号 2009
2
009年1月14日、全羅北道益山市金馬面箕陽里にある百
ず、この塔が解体に至った理由は、木塔様式で建てられた点
済時代の「彌勒寺址石塔(国宝第11号)」の解体現場。国立
が上げられる。木造建物で塔を建てれば、長持ちしないとい
文化財研究所の発掘調査団は「彌勒寺址石塔」が崩壊する恐れ
う問題点がある。柱も多く必要とし、その間には石門を設け
があるという判断から、2001年10月に着手したこの塔の解
て、さらにその上に梁のような石まで載せなければならない。
体作業は8年目に及んでいる。6階部分から解体し始め、1階
そうするためには、我々が普段見てきた石塔より、はるかに
の塔身と基壇部にクレーンが及んでいた。塔の解体というの
多い量の石が必要になる。塔を構成する石の数が多くなれば
は緊張続きの作業だが、1階の解体が進むにつれて、調査団
なるほど、塔の安定性は脅かされる。一つの石でも間違うと、
の緊張はさらに高まった。伝統的に昔の人々は塔の中に舎利
連鎖的に塔全体が揺るがされて、ややもすれば崩れてしまう
荘厳具のように重要な仏教関係の遺物を収めてきたからだ。
ためである。反対に、石の数が少なければ少ないほど、塔の
これまでも基壇部や1、2階の塔身から様々な遺物が発見され
安定性は確保される。つまり、彌勒寺址石塔は木造建築物模
ていた。さらに地表面に近づくにつれて、重要な遺物が見つ
様の木塔形式を受け継いでいるため、副材料を多く使うこと
かる可能性が高まっていたため、調査団は期待と緊張感が漲
になり、常にリスクに晒されるしかなかった。
っていた。
懸念は現実となった。もともと彌勒寺には、真ん中に 木塔が立っていて、その左右に2基の石塔があった。しかし、
世紀の発見
木塔と東側の石塔は既に朝鮮時代以前に崩れ落ちてしまい、
それに、彌勒寺址石塔は並の塔ではなく韓国の現存する
西側の石塔だけが残ったが、この西側の石塔もおぼつかない
伝統石塔の中でも最も古く、一番大きな塔である。また、失
状態になった。もともと9階だったのが、塔の最上階から3
われたしまった百済武王(在位600~641)時代の彌勒寺の謎を
階は完全に崩れ落ちて、残りの部分もかなり崩れていた。
秘めている。そして、建築物様式において木塔から石塔へと
8年に及ぶ解体作業が順調に進み、いよいよ1階の解体
変遷する韓国石塔の発展過程をそのまま見せてくれる塔でも
に差し掛かることになった専門家らは、塔の復元作業の進め
ある。塔身を見ると門と柱があり、柱の上を横切るように石
方について話し合い始めた。このような状況でその日、調
が置かれているが、それはまるで建築物を思わせる。石を利 用して木の家を建てるように塔を作ったという点は、百済石 工らの石を扱う技術はかなりの腕前だったということが分か る。このように、多方面において重要な鍵を握っている塔で あっただけに、調査団の期待はさらに高まっていた。彌勒寺 址石塔の解体作業は、スタートから至難の作業であった。ま
1 金製舎利壺の内箱から出た様々な色と形のガラス玉 2 石塔の解体で、舎利荘厳具の発掘現場。心柱石の中央 から舎利孔が見える。
2 秋号 2009 | Koreana 19
発掘調査団がクレーンを使って心柱石の上石を慎重に持ち上げた瞬間、どこからともなく短い歎声が上がった。 心柱石中央の舎利孔から黄金の輝きが見えた。予想通り舎利荘厳具だった。
1 1 銀製冠装飾と金製小型板、金製毛抜き 2 舎利荘厳具発掘の瞬間 3 発掘には先端装備が動員されて、厳しい分析作業がまず行われる。
査団は1階の基壇部の心柱石の下部を発掘していた。ちなみ
舎利瓶の壊れた破片が見つかった。この塔と遺物は7世紀初
に、心柱石は塔の内部の中心柱を支える大きな石のことであ
めのものだった。彌勒寺址石塔から見つかった遺物は19種
る。
類、683点にのぼる。 調査団はクレーンを使って心柱石の上石をそっと持ち
上げた、その瞬間、どこからともなく短い歎声が上がった。
舎利荘厳の意味
心柱石中央部の舎利孔(舎利荘厳具を安置する空間)から黄金
舎利はパリ語のSariraを漢字で表した言葉である。仏様
の輝き見えたからだ。予想通り舎利荘厳具だった。舎利孔の
の体から出た遺骨や結晶を眞身舎利といい、仏様が説法した
底に緑色のガラス板が置かれていて、その上にこれらの遺物
経典を法身舎利という。
が安置されていた。百済王室の安寧と彌勒寺の繁栄を願って
塔はもともとは釈迦の遺骨(舎利)を安置するお墓であっ
作られたすべての舎利荘厳具が1400年の眠りから覚めた瞬
たため、インドの仏教聖地であるサンチにあるサンチ塔のよ
間だった。
うなインド初期の塔をみると、その形がお墓みたいに丸い形
この日、発見された遺物は、壺の形をした金製舎利壺
をしている。
(金製舍利壺)、金製舎利奉安記、銀製舎利器6点、装飾用の
釈迦が亡くなってから約200年が経った後、インドのマ
刀らしい短刀2点、金製毛抜き、銀製冠装飾、布施した人の
ウリヤ王朝の3番目の王様であるアショーカ王(在位期間紀元
リストが記された薄い金板の破片、様々な玉などが500点余
前 273~232年)は、どうすればより多くの人々に仏様の教
り、遺物を包んでいた布も一緒に見つかった。金製舎利奉安
えと真理を伝えられるかについて考えた。熱心な仏教信者で
記を通して確認された遺物の年代は639年だった。
あると同時に仏教の後援者だったアショーカ王は、8基の塔
国立文化財研究所は金製舎利壺を発見した後、X線撮影
に納められていた釈迦の遺骨を8万4千個に分けて、インド
を行ってその中にある小さな舎利壺の存在を確認した。その
各地にある8万4千基の塔に安置した。仏様の遺骨を多くの
中から舎利12顆(穀物の粒を数える単位)と舎利を収めていた
塔に納めることは、より多くの人々に仏様の教えを広めるた
20 Koreana | 秋号 2009
2
Summer 2009 | Koreana 21
3
1
1 彌勒寺創建の背景が記されている金製舎利奉安記。金板に漢字を陰 刻した後、赤く塗って(朱漆)字が鮮明に見える。 2 発掘されたばかりのガラス玉の数々。7世紀、百済のガラス工芸術の 高い水準を証明している。 3 中部徳率の人、支栗が金1両を布施するという内訳が記録されている 金製小型板。
めの工夫であった。やがてこの遺骨は中国や韓国などにも伝 わった。 仏教の発展とともに塔はその後も建てられた。しかし、 釈迦の舎利は手に入れられなかったため、塔の中に舎利の代 わりに仏様の教えが盛り込まれた仏経や舎利に似た玉などを 入れるようになった。塔の心楚石や基壇部、塔身部には小さ
2
な空間を別に設けて、そこに舎利または仏教を象徴する物を 安置した。つまり、塔は釈迦のお墓ではなく、仏教の象徴で あると同時に礼拝の重要な対象となった。
百済の金属工芸の白眉
塔の中に舎利などを入れて安置する小さな空間を舎利 孔と呼ぶ。そして、舎利を安置する行為を舎利荘厳といい、 そこに使われる器物を舎利荘厳具という。
彌勒寺址石塔からは、珍しく様々な種類の舎利荘厳具 が出土した。その680余点の中でもっとも関心を集めたのが 「金製舎利壺」と「金製舎利奉安記」である。
韓国の昔の舎利荘厳具を見ると、幾枚に
特に金製舎利壺は、その造形美と工芸技法において百
も重ねて舎利などを奉安するのが普通であ
済の金属工芸の白眉といえる。高さ13センチ、幅7.7センチ
る。舎利を舎利瓶に入れた後、その舎利
胴体にに宝柱形(一方が尖った玉の形)の取っ手がついている
瓶はまた小さな舎利器(または舎利箱)の中
蓋がある。表面はつると小さな円が連なっている華麗な模様
に安置するように、小さな舎利器をもっと
で精巧に装飾されていて、胴体は中央部分で上下に分離でき
大きい舎利器に入れて奉安するやり方であ
るようになっている。蓋と細長めの首、肩から胴体につなが
る。それからこの舎利器(または舎利箱)を
る曲線は端整で優麗である。金製舎利壺の造形美と装飾を通
舎利孔に入れると、舎利安置が完了する。
して、7世紀百済の金属工芸の優秀性がよく分かる。壺の形
舎利瓶は緑色のガラスや透明な水晶で作
をした金属製の舎利器は非常に珍しい。
られた。ちなみに、緑色は無限の生命力を
この金製舎利壺の中からもう一つの金製舎利壺が見つ
もった仏様の教えを象徴する。
かった。舎利壺が外箱と内箱から成っていることが確認され
舎利瓶を入れた舎利器(または舎利箱)
たのだ。前述したように、金製舎利壺は舎利外箱、中にある
は金・銀・銅などの多様な材料を使って、円
金製舎利壺は舎利内箱というわけだ。この金製舎利内箱は高
筒や四角形の箱、六角や八角の筒の形をし
さ5.9センチに幅が2.6センチである。宝柱形の取っ手がつい
た器や伝統的な建物である殿閣などの形な
た蓋など、全体的な形や模様は舎利外箱に似ている。しか
ど、多彩であった。
3
し、外箱とは違い、胴体が分離されない一体形である。 秋号 2009 | Koreana 23
舎利内箱からは舎利12個と玉、濃い茶色の壊れた舎利
主の階級はもっと低かっただろうと解釈した。つまり、地位
瓶が見つかった。これらの遺物から、彌勒寺址石塔に安置さ
が高いほど華蕾の数が多く華麗な冠装飾を着けていたという
れた舎利器は舎利外箱の中に舎利内箱を安置し、またその内
説明である。もちろん、確定はできないが、彌勒寺址石塔か
箱の中にガラス製の舎利瓶を安置した典型的な3重構造が確
ら出た銀製冠装飾は、これから百済時代における銀製冠装飾
認された。ただ、ガラス製の舎利瓶が壊れた状態で見つかっ
の発展過程と特徴、着用主、仏教供養の習慣などの研究に
たのは残念である。まだ断定できないが、当時の百済が熱心
とって、貴重な資料になるものと期待される。
な仏教国家であったことから、内箱に入っている舎利は釈迦 の眞身舎利であるという意見も提起されている。 この他に、銀製冠装飾は百済特有の形をしていて、端
彌勒寺址石塔からの出土品の中には、18点の金製小型板 が入っている。この遺物について、百済の人々が貨幣のよう に使っていた金貨の一種であるという主張が提起されて関心
整な形で洗練された工芸品である。優雅な姿の金製毛抜き、
を集めている。この小型板の中の一つに布施した人の名を記
青色と玉色など、様々な色と形をしたガラス製の玉も7世紀
録した銘文が確認された。そこには「中部の徳率(百済16ク
百済の工芸技術を証明するのに十分な遺物である。これらの
ラスの内、第4品)地位の人である支栗が金1両を布施する(中
舎利荘厳具の一切を調査した考古学者と美術史学者らは「百
部德率支栗施金壹兩)」という内容が記されている。それに関
済最高の工芸美術品と評されている百済金銅大香炉(国宝第
連して、書体専攻者のソン・ファンイル(孫煥一)京畿大学校
287号)に劣らない」と口を揃えた。今回の発掘によって、百
研究教授は、「この金板は舎利奉安に参加した人々が彌勒寺
済美術の歴史がを塗り替えられ
に布施したものであり、その中
ることになったのだ。
の一つに単位を「金1両」と表現 した事実は金貨であることを表
明らかになった百済人の日
す」と主張した。また、大田大
常生活
学校のイ・ハンサン教授も「金製 小型板の機能は貨幣と見るのが
金製舎利壺が百済の工芸美 術の流れを示す遺物だとすれば、
妥当であろう」と、同意見を述
銀製冠装飾と小型の金板、舎利
べている。
奉安記は7世紀における百済人の
また金製舎利奉安記も7世
日常生活と内面を示唆していて
紀の百済の書体と文体の風習
興味深い。
1
これまでにも10点余りの百
を理解するのに役立つ興味深い 出土品である。この奉安記は横
済時代の銀製冠装飾が見つかっているが、残念ながらその制
15.5センチ、縦10.5センチ・サイズの金板に漢字を陰彫した
作時期は確認できていない。しかし、今回見つかった2点の
あと、赤い漆(朱漆)を施して字が鮮明に見えるようにしてあ
「銀製冠装飾」はその制作時期を推定できた。正確な制作年代
る。そこには彌勒寺創建の背景と布施者の名前が記されてい
は断言できないが、一応塔内部に安置された時期は639年で あることが確認されたのだ。
て、発見当時から大きな話題を呼んだ。 ソン教授は舎利奉安記に記された書体が中国北朝の様
これまで銀製冠装飾は、百済の高位官僚が使っていた
式に従っているという意見を述べた。そして、舎利奉安記に
ものだという見解が支配的だった。それでは、なぜ仏教と関
記された銘文に欠落している文字があって、その文字を後で
係のない銀製冠装飾を塔の中に舎利荘厳具と一緒に収めたの
書き添えた痕跡が確認できると述べた。舎利奉安記の裏面を
か。古墳出土遺物の専門家であるイ・ハンサン(李漢祥)大田
見ると、もともとは「盡用善根」と書いたものを、「用」と「善」
大学校の教授は「639年彌勒寺石塔の舎利奉安法会に出席し
の字の間に小さな字で「此」を書いているというのだ。これに
た百済の高級官僚が自分の所有物の中から一番貴重な物を供
ついて彼は「当時百済人が書き忘れた「此」字を書き添えたが、
養したと考えられる」という興味深い見解を打ち出した。ま
この「此」字は「塔を建てて舎利を奉安する一連の行為」を意味
た彼は、2点の冠装飾の中で5本の華蕾が飾られた物の持ち主
する。この銘文の中で行為の主体を明らかにするためには欠
は恩率(16クラスの内、第3品)以上の官吏であり、3本の持ち
かせない文字であるため、その文字をあえて書き添えたの
24 Koreana | 秋号 2009
1 金製毛抜き 2 歴史学界と考古美術史学界に研究課題を投げかけた金製舎利壺と金 製舎利奉安記などの舎利荘厳具
2
だ」と説明している。
板(以上国宝第123号)などの舎利荘厳具が見つかった。その
彌勒寺址石塔から出土した舎利荘厳具には、当時の官
発見からこの塔と舎利荘厳具の年代を巡り、意見が分かれ
僚達の冠装飾の着け方から舎利奉安法会における布施の習
た。大体9世紀前後の統一新羅末または高麗初めに制作され
慣、文章の書き方に至る生活の断面が伺われる。一つの遺物
たという見解が有力だったが、百済時代に制作されたという
に潜められている歴史の謎が本当に面白い。
見解も少数ながら提起されていた。
さらに、今回見つかった舎利荘厳具には百済人の仏教
そして今回、彌勒寺址石塔の舎利荘厳具の発見をきっ
に対する宗教的祈願だけでなく、百済王権の強化を内外に知
かけに、統一新羅末-高麗初め制作説が疑われるようになっ
らせるという象徴的な意味合いも盛り込まれている。多くの
た。彌勒寺址石塔の舎利荘厳具が王宮里5階石塔と、そこか
専門家たちはその根拠として舎利奉安記に出てくる下記の部
ら出た舎利荘厳具の制作時期に関する論議に再び火がついた
分に注目する。
のである。
「願いますは、末永く供養し、永遠に尽くすことなく、
既に、王宮里5階石塔の舎利荘厳具が百済のものであ
この善良な根源を財産とし、謹んで大王陛下の寿命は山岳の
ると主張していたハン・ジョンホ東国大博物館学芸士は、舎
ように堅く、治世は天地とともに永久に、上には正法を広
利荘厳具のみならず、王宮里5階石塔も百済時代のものであ
め、下には創生を教化して下さい」
るという意見を打ち出した。彼はその根拠として王宮里5階
この文章の中に見られる「大王陛下」という表現は百済
石塔の舎利器に飾られた蓮の花柄と小さな円の模様などのデ
が内外ともに王権が強化されたことを意味する。と同時に、
ザイン方法が彌勒寺址石塔の舎利荘厳具と類似している点、
対外的にも百済の王が中国の君主と肩を並べるほどの地位で
王宮里5階石塔の基壇部の構造も彌勒寺塔と一致している点
あることを誇示しようとするものと解釈される。政治と仏教
(心柱石の周りが十字形の通路型構造である点)などを提示し
が密接に関わっていた時代であることを考えれば、この推論
ている。
は蓋然性が高い。彌勒寺址石塔から出土した舎利荘厳具に
しかし 、この意見に対して学界の関係者らは概ね慎重
は、このように多様な政治・社会・文化的意味が含まれている
な立場である。ある仏教彫刻の専門家は「2基の塔の舎利荘
だけに、百済歴史の研究において非常に貴重な資料と言わざ
厳具の模様が似ていることは注目すべきであるが、王宮里石
るを得ない。
塔から出てきた仏像の年代は9~10世紀の後百済または統一 新羅時代のものであり、この疑問を解くまでに王宮里石塔と
王宮里石塔にまつわる謎を巡る論議 彌勒寺址石塔からあまり遠くない所に益山王宮里5階 石塔(国宝第289号)がある。1965年にこの塔の解体・修理の 過程で、塔の内部から舎利瓶、舎利箱、仏経を彫り込んだ金
舎利荘厳具を百済のものであると断定することは無理な話で ある」と述べた。 彌勒寺址石塔というタイムカプセルが開封された瞬間、 再点火した学界の論議は今後暫く続きそうだ。 秋号 2009 | Koreana 25
説話からみた彌勒寺の起源 今回の発掘内容において学界と世間の関心が集まったのは金製舎利奉安記である。ここに彌勒寺 創建の背景と布施者の名前が記されていたからである。彌勒寺創建にまつわる説話の内容を紹介 するとともに、今回明らかになった内容について解説する。 チョ・フンウク (趙興旭、国民大学校 国語国文学科教授) 写真 : 国立文化財研究所 | 写真 : ソ・ホンガン(徐憲康)
彌勒寺縁起説話には、武王と善花公主 が獅子寺に向かう途中、龍華山の麓に ある池に着いた頃、彌勒三尊が池の真 ん中に現れて、その場所にお寺を建て たと伝わる(イラスト/白錦林) 26 Koreana | 秋号 2009
童謡>は新羅眞平王時代、後に百済第30代の王・武
<薯
と、善花公主と結婚した武王が獅子寺に向かう途中、龍華山
王(在位600~641)である薯童の作と知られている
の麓にある池の中央に彌勒三尊が現れると、王妃の願いでそ
郷歌作品の一つである。武王の幼名、薯童が、新羅の首都に
こに彌勒寺を建てたと伝えられているためである。そのた
入って眞平王の三番目の娘、善花公主への求愛の歌だったと
め、我々は<薯童謡>が武王と善花公主との国境を越えた恋物
伝わる。
語であり、彌勒寺は武王の王妃となった善花公主の要請を受 けて武王の時に創建されたお寺であると考えていた。
<薯童謡>を見直す理由
ところが最近、彌勒寺址石塔を解体·補修する過程で<舎
『三国遺事』をみると、この<薯童謡>に関する内容が含
利奉安記>が見つかり、この<舎利奉安記>に記された内容に
まれた薯童説話は、全羅北道の益山にあった彌勒寺の創建
よると、武王の王妃はこれまで知らされていなかった沙宅氏
説話でもあることが分かる。薯童説話の最後のところをみる
となっている。このため、<舎利奉安記>の発掘を契機に<薯童
秋号 2009 | Koreana 27
1 〈薯童謡〉の背景説話が収録されている『三国遺事』の武王朝 ©文化財庁 2 1993年に復元された彌勒寺東塔
1
〈薯童謡〉は百済武王と善花公主との国境を越えた恋物語であり、彌勒寺は武王の王妃となった善花公主の要請で武王時代に創建 されたお寺として知られている。それでは今回発掘された〈舎利奉安記〉による記録はその事実を否定するものなのか。いや、そ うとも言えない。
謡>と彌勒寺創建に関する内容を改めて検討してみる必要が
麻を配ばりながら親しくなり、子供たちが薯童に従うように
あると思われる。
なった。ところで、薯童は<薯童謡>を作って子供たちに歌わ せた。
<薯童謡>と薯童説話
子供たちの歌声がソウル中に響き渡り、宮殿の中にま
百済の武王と新羅の善花公主との恋物語である<薯童
でとどくようになった。よって臣下たちが王様に申し出て公
謡>に関する物語は、『三国遺事』巻2紀異編武王調に載って
主を遠い所に島流しにさせた。公主が旅立とうとすると、王
いる。<薯童謡>の背景説話が収録されている武王物語を調べ
妃が一斗の純金を旅費として与えた。公主が島流しの地に着
てみると次のようである。
こうとする頃、薯童が現れて深々とお辞儀をして仕えさせて いただきたいと申し出た。公主は薯童がどこから来た者なの
百済第30代武王の名前は璋である。母親が寡婦となり
か知らなかったが、ひたすら彼を信じて喜んだ。それで薯童
ソウル南側の池の周りに家を建てて暮らしていたが、池の龍
は公主を護衛することになり、そのうちに密かに情を通じ合
と情を通じて璋を生んだ。幼い頃の名前は薯童だったが、そ
うようになった。その後、やっと公主は薯童の名前を知るよ
の技量は計り知れなかった。常に薯(芋)を掘り起こして売っ
うになり、その歌の内容が当たったことにも気づいた。
て暮らしていたため、人々が薯童と名づけた。薯童は新羅眞
一緒に百済にやって来た公主は、母からもらった黄金
平王の三女の善花公主が非常に美しいという話を聞いて、髪
を取り出して、暮らしていく計画を立てようとした。ところ
を刈って新羅の首都にやってきた。薯童が街中の子供たちに
が薯童が大笑いしながら聞いた。「これは何だ」。「これは黄
28 Koreana | 秋号 2009
金ですので、百年の富が享受できます」。そうすると薯童が 言った。「私が幼い頃に麻を掘り出していた所には黄金が山 ほどある」。この言葉を聞いた公主がびっくりして聞いた。 「それは天下の宝物だから、あなたがその場所を知っている
内容を説明している部分は彌勒寺縁起説話である。 ただ、この武王の物語を見ると、薯童説話と彌勒寺の 縁起説話の性格が違うことに気づく。薯童が善花公主と結婚 して王位に就くという薯童説話は事実の記録というより、一
なら、それを私の両親のいる宮殿に送ってはどうですか」。
種の物語であり説話的な内容である。なぜなら、薯童の行跡
薯童が応えた。「いいよ」。それで金を山積みにして龍華山
は武王の歴史的行跡と一致しがたい部分も多いためである。
の獅子寺の知命法師の所に行き、金を送る方法を尋ねると、
この点のために、『三国遺事』を書いた一然自信も、百済の武
「私が神通力で送るから金を持ってきてください」と命法師が
王は法王の息子であるが、薯童説話では寡婦の息子として描
応えた。公主は手紙を書いて
写されていて、詳しい内容は
金と一緒に獅子寺の前に置い
確認できないと疑問を呈して
た。そしたら知命法師が神通
いるのである。ところが、彌
力で一晩でその金を新羅の宮
勒寺縁起説話は武王によって
中に送った。眞平王はその謎
彌勒寺が創建された事実に基
めいた変化に驚いて薯童を尊
づいて書かれた物語である。
敬するようになり、常に手紙
薯童説話は民間に伝承さ
を送って安否を伺った。それ
れていた説話を基に作られたも
で薯童は人心を得て王位に就
のである。これは薯童の出生か
いた。
ら即位までの内容が我々の民間
ある日、王が王妃と一緒
に伝わる様々な民談の内容と似
に獅子寺に行こうと龍華山の
ている点からも確認できる。薯
麓にある池に到着すると、彌
童の母親が池の龍と情を通じて
勒三尊が池の真ん中に現れた。
薯童を生んだという薯童の誕生
それで車を止めてお辞儀した。
説話は、韓国の民談でよく見ら
そし て 夫 人 が 王 に 申 し 出 た 。
れるように、優れた能力を持つ
「ここに大きなお寺を建ててく
主人公の誕生と関連のある異類
ださい。お願いです」。王は承
交婚譚と同じ内容である。さら
諾した。それで知命法師に池
に、薯童が麻を掘り出した所に
を埋める方法を聞いたら、知
多くの黄金を見つけて人心を得
命法師が不思議な力で一晩中
て、王位に就いたという物語
に山を崩して池を埋め平地に
は、父親と喧嘩して追い出され
した 。 彌 勒 三 尊 の 像 を 作 り 、
2
殿と塔、廊廡をそれぞれ三か
た娘が炭焼き男と出会って、多 くの黄金を発見しては金持ちに
所に建てて、お寺を彌勒寺と名づけた。眞平王が数人の工
なったという炭焼き男の生金藏説話と同じ内容である。つま
人を遣わして手助けしたというが、今でもそのお寺が残っ
り薯童説話は歴史的事実の記録というよりは、民間伝承の説
ている。
話的性格を持っているといえる。 薯童説話のもつ民間伝承的性格は、<薯童謡>の内容から
以上、武王の物語を調べてみると、この内容は二つの
も確認することができる。<薯童謡>は薯童説話の中で、武
物語から成っていることが分かる。つまり、一つは薯童の物
王が善花公主を娶るために、嘘の内容を作って歌っていた
語であり、もう一つは彌勒寺の創建物語である。つまり、上
歌である。薯童が子供たちを口説いて歌わせたという<薯童
述の武王物語では、薯童が善花公主と結婚して王様になると
謡>は、その歌詞が郷札で表記されている。この郷札表記は、
ころまでは薯童説話であり、彌勒寺を創建するようになった
我々にまだ文字がなかった当時、漢字と意味と発音を借りて 秋号 2009 | Koreana 29
1
韓国語を表記するも
見つかった。国立文化財
のであり、それを正確
研究所は2001年から彌勒寺
に解読することは非常に難
址石塔の解体調査及び補修整備を行って
しい。<薯童謡>に対する正確な解読は難しいが、
きたが、2009年1月に彌勒寺西塔の1階
大体次のように解読される。
を解体する過程で金製の舎利壺や舎利奉 安記など、多くの遺物を収拾した。
善花公主様は
中でも特に関心を集めたのは、<舎利奉安記>の内容であ
密かに花嫁になって
る。なぜなら、<舎利奉安記>の内容にこれまで知られていな
薯童坊ちゃまを
かった沙宅氏家門の王妃が中心になって舎利を奉安したと記
夜、こっそり抱いていく。
されてあったからだ。これは、これまでに彌勒寺創建の主体 が武王の王妃だった善花公主であるという事実とは異なる内
善花公主が人目を盗んで薯童と情を通ずるという<薯童 謡>の内容は童謡でありながらも民謡的性格をももつ。<薯童
容である。明らかになった<舎利奉安記>の中から関連の内容 を見ると次の通りである。
謡>の歌詞は現在も歌われる「誰々はこっそりと誰々が好きだ よね」という民謡や童謡の歌詞と似ている。<薯童謡>がこの
我が百済の王侯様は佐平沙宅積徳のお嬢さんであり、
ように童謡的性格を持っているため、新羅の子供たちが簡単
極めて長い歳月の間、いい縁起となって、今生に優れた果報
に歌うことができたのだろう。また善花公主の愛を得るため
をいただいて万民を労って育て上げ、仏経の棟梁になって優
に歌う<薯童謡>の歌詞は、民謡によく見られる求愛詩にある
に浄財を喜捨して伽藍を建て、己亥年正月29日に舎利を供
内容といえる。<薯童謡>はその民謡的性格のために、簡単に 人々の間に広がり、新羅の宮中までに伝播されたのである。
<舎利奉安記>で明らかになった事実 全羅北道益山にあった彌勒寺は三国時代の寺院の中で、 百済のお寺としては最大規模だったと伝わる。この彌勒寺 は『三国遺事』に書かれている武王の記録に見られるように、 武王が王妃のお願いを聞いて創建したお寺だ。当時武王の 王妃は当然善花公主だったため、彌勒寺は善花公主の要請 で武王が創建したと伝えられてきた。 ところが、最近の彌勒寺址石塔を解体·補修する過程で 彌勒寺の創建と関連して新しい事実を明らかにする遺物が 30 Koreana | 秋号 2009
2
1 金製舎利壺外箱は胴体の中央部分から上下に分離され、取っ 手の付いた蓋が付いている。 2 6月27日から一か月間、益山の彌勒寺址遺物展示館の特別展 示室で開かれた〈彌勒寺址石塔舎利荘厳具特別展〉 3.『三国遺事』に出る武王の誕生説話の場所である忠清南道扶余 にある宮南池。この一帯は薯童公園になっている。© 權泰筠
3
養した。
しかし、その相違点は『三国遺事』の内容をもっと詳し く分析すれば理解できる。『三国遺事』の武王関連の内容は、
この記録によると武王40年の己亥年(639年)正月に彌勒
前述した通りに薯童説話と彌勒寺縁起説話という独立した内
寺西塔に舎利を奉安していて、舎利奉安の主体は王妃だった
容から成っている。この場合、薯童説話は説話的内容に基づ
沙宅積徳の娘であったことが分かる。ここでの沙宅氏とは百
いたものであり、一方の彌勒寺縁起説話は事実に基づいたも
済後期の貴族勢力であった大姓八族の一族である。沙宅氏の
のである。つまり、武王と善花公主との恋物語という説話的
存在は大佐平を務めた砂宅智積が末年に過ぎ去った日の光栄
内容である薯童説話が事実としての彌勒寺創建を話している
と歳月の空しさを嘆きながら作った砂宅智積碑の内容を通じ
彌勒寺縁起説話に自然につながっているのである。
て知られている。従って、<舎利奉安記>の記録によれば、彌
一般的に特定の寺院の由来と関連のある物語を伝える
勒寺創建と関係のある人物は善花公主ではなく、当時の王妃
寺院縁起説話は、寺院の神聖化を通じて仏経の大衆化を図
だった沙宅氏であることになる。
り、仏経を広める目的から作られる。そのために寺院縁起説
しかしこの<舎利奉安記>の記録が武王と善花公主との
話はお寺の敷地を決める事件にまつわる奇異な物語が基に
関係を否定する記録だと見なすことは難しい。なぜなら、こ
なったりもする。武王と王妃の行跡の際、池の真ん中から彌
の記録は彌勒寺創建の主体は王妃の沙宅氏だったことを記し
勒三尊が現れたことを見てお寺を建てたという彌勒寺縁起説
てはいるものの、善花公主が武王の王妃ではないことは記さ
話はこのような神異譚の寺院縁起説話である。
れていな。つまり、<舎利奉安記>の内容が薯童説話を否定す
寺院縁起説話はお寺の霊験さを誇示するために、民間に
る記録ではないというのだ。武王の王妃が一人ではなかった
広く伝承されている説話を縁起説話として用いることもある。
とする見解を考えれば、武王と善花公主との恋物語は依然と
薯童説話が彌勒寺縁起説話につながったのもその理由からで
して薯童説話によって認められる物語である。ただ、彌勒寺
あろう。つまり、薯童説話は知命法師という当代の高僧を間
の創建は当時王妃だった沙宅氏と関係があると理解すること
に入れて彌勒寺縁起説話につなげているのだ。結局薯童と善
ができる。
花公主との恋物語である薯童説話は、民間に広く伝承されて いて、やがて僧侶階層によって彌勒寺の創建を説明する必要
彌勒寺縁起説話の理解
性が浮上すると、彌勒寺縁起説話につながったといえる。
これまでに我々は『三国遺事』の記録を基に、百済武王
したがって、薯童と善花公主との愛という薯童説話は
が<薯童謡>を作って新羅の善花公主と結婚し、王妃となった
民間に伝わる説話としての意味をもっており、武王によって
善花公主の要請によって彌勒寺を創建したと考えていた。と
彌勒寺が創建されたという彌勒寺縁起説話は歴史的事実とし
ころが、彌勒寺西塔の<舎利奉安記>に記された内容によって
ての意味合いを持っているといえる。民間に伝わってきた薯
明らかになった新な事実によれば、彌勒寺創建は当時の王妃
童説話は彌勒寺縁起説話とは別の物語だったにもかかわら
だった沙宅氏と関係があることが分かった。つまり、『三国
ず、彌勒寺の創建物語に花を添えるために彌勒寺縁起説話に
遺事』の内容と<舎利奉安記>の内容に食い違いが生じたのだ。
つながったのである。 秋号 2009 | Koreana 31
文化フォーカス
ミョンドン 芸術劇場がリオープン 韓国の文化界が取り組んできた〈劇場を取り戻すキャンペーン〉が功を奏し て、ソウルの明洞芸術劇場が再生オープンした。新しく文化の中心になる この場所だが、実は1930年代まで遡るほど長い歴史を有している文化の名 所である。その歴史と再スタートの意味を考えてみる。 キム・ムンファン (金文換、ソウル大学校教授、演劇評論家) 写真 : 明洞劇場
34年ぶりにリオープンした明洞芸術劇場
一
時は韓国で一番高い地価を
人が所有していたが、彼は1939年に團
と縁の深い場所といえる。地名が殖民
誇 っ て い た ミ ョ ン ド ン( 明
城社を買収して、大陸劇場に名前を変
地時代に明治町に変わり、その地名に
洞)に劇場が復元した。映画
えた後、映画専用館として運営し、当
ちなんだ明治座が建ったのである。現
館ではなく、名実共に演劇専用劇場で
時京城劇場街の「縁の下の力持ち」と
在の新世界デパートの所にあった日本
ある。1934年、日本による殖民地時代
なっていた。
公使館を中心に、その一帯は近代風の
に明治座という名前の映画館がオープ ンしたが、その場所に現在も健在して いる建物のバロック風の外観を最大限
商店街として開発され、今日に至るま
〈劇場取り戻しキャンペーン〉の 背景
で商圏として発展してきた。今は手ご ろな値段の商品が主流となっているが、
損なわずに補修された記念すべき作業
明洞は朝鮮時代に明礼坊と呼ばれ
依然として日本の観光客がよく訪れる
である。もともとこの建物は建築事務
ていたが、伝統音楽を守ってきた掌樂
観光スポットである。商業的に繁盛し
所を経営していた石橋良介といういう
院があった所でもあり、もともと芸術
ていた地域であっただけに、自然に芸
32 Koreana | 秋号 2009
術家らが集まるようになったのだ。 この建物は1945年の独立以来、
規模の劇場に生まれ変わったのである。
建物を10階建ての新社屋に建て替える
国立劇場が1973年に装忠洞に新
計画を打ち出すと、演劇界の人々を中
1961年までは市公館として使われた
築・移転した時、当時の文化広報部が総
心に文化界から〈劇場を取り戻すための
後、1957年から1973年までは国立劇場
務処からこの建物を借りて明洞芸術劇
キャンペーン〉を繰り広げることになっ
として使われた。これは1961年に市民
場というタイトルで貸切専用の劇場と
た。折りしも、大韓総合金融の破綻に
会館が開館して、移転するまで、つま
して活用していた。ところが、この建
よって、敷地を買収するきっかけが生
り1957年から1961年までは二つの機能
物は1976年に大韓投資金融、大韓投資
じ、明洞商店街繁栄会は競売の流れを
を併せ持っていたのである。1962年に
信託に売却されてからはオフィス用に
誘導し続けた結果、2003年12月に政府に
国立劇場に改修・復旧される過程で座席
なり、劇場としての機能も終えること
よる買い入れにこぎつけた。それから5
数が1178席から820席に減らされたが、
になる。
年にわたる工事が完了し、2009年5月に
今回の復旧工事でさらに552席規模の中
1994年11月、大韓総合金融がこの
とうとうこの建物は明洞芸術劇場とし
秋号 2009 | Koreana 33
1
2 1 明洞芸術劇場の前身である明洞時代の国立劇場 2~3 2009年6月5日、明洞芸術劇場の開館式典の光景
3
ヒ(尹福姫)などがその舞台を飾ってい
の劇団の公演を中心にその歴史的背景
昔この劇場では、史上初のオペラ
た。さらに1960年代以降、韓国演劇の
を探ってみることも意味があるだろう。
公演、初めてのオーケストラ公演、そ
柱であった大学劇出身の同人劇会の活
して専属劇団の新協と民劇が統合され
躍もここが中心であった。「明洞伯爵」
た最初の国立劇団の公演が相次いだ。
を自任していた作家のイ・ボンに言わ
さらに、1962年に国立オペラ団、国立
せると「我が国の文化はすべてここに
国の演劇界も他の分野と同じようにく、
国劇団(現在の国立創劇団)、そして国
ある」と言うほどであった。
左・右翼対立の様相を呈したが、1948
て再誕生したのだ。
国立劇場のスタート 1945年8月15日に独立を迎えた韓
立舞踊団を立ち上げ、韓国最高の公演
つまり長い間韓国の芸術、特に公
年に大韓民国政府の発足をきっかけに
芸術のレベルを確保するとともに、当
演芸術の拠点として機能してきたわけ
社会主義系列の演劇人らが北朝鮮に寝
時最高の人気を誇っていた歌手ヒョ
だが、中でも演劇が中心になっていた
返ったり、身を隠したりしたことで、
ン・イン(玄仁)や新人歌手のユン・ボク
だけに、国立劇団を始めとするその他
混乱は一応収束された。同年の12月、
34 Koreana | 秋号 2009
明洞芸術劇場は「演劇を専門とするチャーターなしの公演場」として、ほとんどの作品を独自制作する公演制作劇場(プロデュース シアター)として運営することになる。専属の劇団を擁しない演劇専門制作劇場の登場は、韓国の公共劇場運営の歴史において新 しい試みである。
当時の文教部(現在の教育部)が広報処
ゆる純粋な正統演劇系列と大衆劇系列
Arm's Length Principle」への要求と国
から興行許可権を引き受け、国立劇場
との対立もあって、再び分立されてし
立劇場の収益性だけを考える商業劇場
設置に関する法令を作成した。そして
まい、1959年5月に前述した新協と民
とは一線を画すべきだという強い警告
翌年の10月に国立劇場運営委員会が組
劇など、二つの専属劇団が国立劇場の
が提起されたが、国家政策と予算には
織され、初代劇場長が任命された。当
中に住まいを設けることになった。一
反映されないまま、1961年5月16日に軍
時の劇場は過去の府民館(1997席、ソ
見して一つの屋根の下の二つの家族と
事革命が起こってしまった。
ウル市中区太平路に位置した現在のソ
いう奇妙な姿ではあったが、一応力を
革命政府の初代文化広報部長官
ウル市議会の建物)とすることが決ま
合わせた演劇人の活動は観客から好評
は自由党政権当時、広報処長として乙
り、1950年にはそこで国立劇場の開館
を得た。もちろん、その後ろには映画
支路の入り口に小劇場(円覚社)を開い
式が行われた。続いて、〈元述郎〉 (創
が大衆にかなり浸透していたため、映
て2年以上経営した経験もあって、個
作劇) 、 〈万里の長城〉 (創劇) 、 〈春香伝〉
画を通じて親しみを持ち始めた俳優達
人的に芸術の振興に関心が大きかった
(創作オペラ)、〈雷雨〉 (翻訳劇)などを
を直接見てみたいという願望も強かっ
が、彼の主導で国立劇場は1961年10
公演しファンの期待を集めたが、韓国
たことがある。人気ではなく、芸術的
月に再び文公部の管理下に置かれるこ
戦争の勃発で国立劇場も釜山に避難す
観点から見て、あまり評価できない公
とになった。折りしも、同年11月7日
ることになった。1951年10月、劇場長
演ばかりが披露されたが、その中には
に市民会館も開館し、国立劇場は4年
はそこで国立劇場を再開することを申
〈ウィルヘルム・テル〉や〈罪と罰〉など
間に及ぶ居候の立場から脱することが
し立てたが受け入れられず、辞表を出
の公演もあった。
出来るようになり、それをきっかけに
した。政府は1952年5月にソウルを修
そんななか、1960年4月19日、学
115年間も放置されていた、古くて不
復するまで、国立劇場を大邱に置くこ
生革命が起こった。イ・スンマン(李
便になった劇場に対して、客席、舞
とを決め、デグ(大邱)文化劇場を利用
承 晩 )初 代 大 統 領 の 長 期 執 権 に 抵 抗
台、冷・暖房施設、トイレ、ロビーな
することになって開館公演を準備した。
し、変革を求める人々の思いは国立劇
どを補修して、「きれいで、寒くも暑
1957年6月、4年ぶりにソウル入り
場にも影響を及ぼしたが、運営側と過
くもない」国立劇場として様変わりし
を果たしたソウル市は市公館として使
去の政権との馴れ合いに対する批判か
た。この成果に支えられて国立劇団が
われていた今の明洞芸術劇場を共同使
らだった。これに対し、「官は支援す
再スタートを切るようになり、国立劇
用する一方、専属の国立劇団を発足さ
るのみ、創造行為には一切口を出せ
場オペラ団、国立国劇団、国立舞踊団
せた。しかし、この劇団は過去のいわ
まい」といういわゆる「手の長さ政策
(韓国舞踊、現代舞踊を併合)などの専 秋号 2009 | Koreana 35
やっとだった。リオープン後の2年間
日に減らすしかなくなった。当然なが
に劇場長が5回も交替するという、行
ら貸切専用劇場として存続を図るしか
政的な問題点も劇場の不振を煽った。
手はなかった。ただ、1960年代から演
1962年3月22日から4月末までの
その中で、1964年4月22日から国立劇団
劇界に新風を吹き込んだ大学劇出身の
一か月間、リオープン記念芸術祭が開
の〈ベニスの商人〉の公演を皮切りにス
人々が中心となった同人劇会があった
催された。〈大春香傳〉 ( 国劇)を始め、
タートしたシェイクスピアー誕生400
おかげで、ほとんど唯一のこの劇場を
〈王子ホドン〉 ( 創作オペラ)、〈若さの
周年を記念して、6つの劇団が参加して
通じて、韓国の演劇の伝統が受け継が
賛歌〉 ( 演劇)などが公演された。しか
代表作を一か月間公演した際は、戦後
れたことはアイロニーといえる。1968
し、4つの専属団体にKBS交響楽団や合
最多といえる3万7千人が入ったことは
年3月、新劇60周年記念公演〈それでも
唱団まで加わったこの芸術祭には、一
幸いなことだった。ところが、それも
幕は開く〉 は単なる公演のタイトルとい
か月間でわずか1万3千人が集まっただ
一回きりに終わってしまった。1966年
うよりは、当時死亡直前の状態だった
けだった。有料観客だけを数えれば、1
度予算が要求額の半分程度に削減され
韓国演劇の根性を象徴していたといっ
回平均100人程度に過ぎなかった。さ
てしまい、文化芸術界の反発にも関わ
ても過言ではない。当時の状況をある
らに、予算も底を突き、その後は劇場
らず、補正予算にも反映されなかった
新聞記者は次のように書いている。
のチャーターで命脈を維持するのが
ため、年間80日だった公演日数を30
属団体が生まれた。
60年代のリオープン
36 Koreana | 秋号 2009
「韓国唯一の舞台芸術の殿堂であ
る国立劇場は冬場と夏場になると、い
決めたのだ。それから1967年10月には
やはや2か月も休館しなければならない
着工式まで行われた。
(中略)。舞台芸術の育成に向けて国の
問題はその費用を賄うために明洞
予算で運営される国立劇場は、他の機
国立劇場を売却することにしたのであ
関よりないがしろにされている。冷房・
る。文化的結論というよりは政治的判
暖房どころか自家発電施設もないため、
断から決まったその決定に、演劇人ら
劇団広場の〈ウィンザの陽気な上さん〉
は戸惑うばかりであった。「地下1階、
を公演した際は、停電でロウソクの光
地上3階規模の建物に、1千5百席の客席
を頼りに公演し、この前はオペラ〈春香
に130席の特別席規模、それに特別席に
傳〉公演の時などは外国の来賓を迎えた
はトイレ、茶室、サービス・ルームを設
のに、また停電が起こり、50分も待たさ
けるほか、4百坪の舞台には回転・昇降・
れるという恥をかいてしまった」 (『東亜
水平装置を設け、100人以上が演奏でき
日報』、1996.12.20)
るオーケストラ・ボックス、テレビ中継
ところが、韓国の中央情報部長
装置などが設けられる」という計画が一 体演劇界の実情にふさわしいも のなのかに関する疑問とともに、 やっと未来への見通しがつき始 めた時期に、その措置でかえっ て演劇活動が完全にストップし かねないという抗議が相次いだ。 劇場は4度も競売に賭けられ たが、あいにく毎回流れた。そ の状況を受けて、政府は1970年 に劇場の内部を部分改修して芸 術劇場へと名前を変えた後、従 来のように貸切専用劇場として 活用することにし、国立劇場は 1973年8月26日、装忠洞への移転 を完了した。その後、1975年に運
明洞芸術劇場の内部施設。建物の外観は最大 限に保存しながら、内部は現代風の公演場に 様変わりした。
営をストップして総務処に変換 が北朝鮮を訪問したことがきっかけと
されてから1976年11月に売却された。
なり、韓国の演劇界も少なからぬ影響 を受けることになる。当時の平壌に坂 萬寿台芸術劇場のような大型の文化ス ペースがあることを知った韓国政府は、
「公演制作劇場」として再スター トを切る 以上から分かるように、文字通り
それに劣らぬ劇場が必要であると判断
波乱万丈の歳月を経る中、時代に翻弄
し、慌て装忠洞民族文化センターを作
されながらも多数の演劇人など、公演
り、その中に国立劇場を設けることを
芸術家らにとっては故郷のようなこの 秋号 2009 | Koreana 37
〈孟進士宅慶事〉の場面。明洞国立劇場時代の1969年にも公演されたことがあり、 韓国を代表する風刺劇が明洞芸術劇場の開館作であり、40年ぶりに同じ場所で公演 された。
建物が劇場としてリオープンするとい
インから20メートル(限
う事件は、70・80歳を迎えている当時の
界距離22m)を最適距離
観客だけでなく、韓国の文化界全体に
とし、15メートルが俳優
とって大きな喜びである。
の表情と動作まで詳しく
明洞芸術劇場は外壁に塗られてい
鑑賞できる距離とされる
た厚さ3ミリのペイントを取り除くなど
ことを考えれば、舞台と
の復元工事を行って、建物の外面上の
観客がかなり近くで呼吸しながら共感
請して公演するプレゼンターとしての役
原型を最大限保存・復元する一方、内部
できる最適の空間条件を備えていると
割に偏っていて、一部制作公演の場合も
は現代的な公演場としてリノベーショ
自負する。すなわち、3階まで階数を増
独自制作よりは外部の劇団との協力を通
ンを行い、建物の持つ歴史的意義と公
やして視線角を確保する一方、バルコ
した共同制作の形をとるのが一般的だっ
演場としての効率性を同時に確保でき
ニーのある馬蹄型を配置して客席が舞
た。それに比べて明洞芸術劇場は「演劇
るように取り組んだ。地下1階、地上
台を抱き込むような雰囲気を創り上げ
を専門とする貸切無しの公演場」 として、
5階、558席規模の現代式公演場として
て、俳優と観客がもっと近く感じるよ
ほとんどの作品を独自制作する公演制作
生まれ変わった明洞芸術劇場は、幅12
うに工夫した。
劇場(プロデュース・シアター)として運 営していくという。
メートル、深さ7メートルのプロセニア
ただ、以上のようなインフラの面
ム舞台と馬蹄形客席を設けた。劇場側
以上に関心が集まるのが今後の運営計画
は特に舞台と客席間の最大距離が客席
である。これまで韓国における公共公演
1階が13.5メートル、客席2階が16メー
場の運営方式は、概ね貸切中心に運営さ
長期間、民間劇団と公共公演機
トルであり、普通舞台セッティングラ
れたり、制作済みの内外の公演作品を招
関で企画を担当していた新任ク・ザフ
38 Koreana | 秋号 2009
革新的接近
に、国内の中堅演出家らが内外の名作 演劇を紹介する「名演出者・名演劇展」、 市公館と明洞国立劇場時代に上演され た演劇を中心に、現代韓国の演劇史上 重要な意味を持つ作品を年代別に区分 して2000年代における韓国の主要演劇 まで公演することで、化石と化してし まった韓国現代演劇の名作らに命を吹 き込むために企画された3か年プロジェ 接的にサポートし、韓国の演劇発展に
クト「韓国現代演劇風景シリーズ」、現
向けた基盤を固めようとするのだ。つ
実的環境のために、小劇場の空間に埋
まり、明洞芸術劇場はプロデューサー、
没しやすい新鋭の演出家と芸術家たち
演出家、劇作家、俳優、スタップ間の
に創造力を育んでもらい、中劇場のス
多様な結びつきを支援することになる。
ペースを経験できる機会を提供する「創
また、民間部門ではなかなか手が出せ
造力拡張プロジェクト」などを準備して
ないような難しい作品制作などにおい
いる。さらに、中南米、中東、アフリ
て、財政・人材・技術支援をトータル的
カなど、相対的に国内にはあまり知ら
にサポートすることで、演劇界には新
れていない海外の戯曲を掘り起こして、
しい刺激と発展の契機を、観客にはよ
舞台にする作業も引き続き行っていく
り幅広く劇芸術文化が観賞できる機会
計画である。
を提供することになる。ちなみに、日
作品と演出陳は明洞芸術劇場は準
本の新国立劇場、スイスのビディ劇場、
備した2~3倍の数の候補作の中から、
ン( 具 滋 興 )劇 場 長 は 、 専 属 劇 団 も な
フランスのコリンヌ国立劇場などから、
明洞芸術劇場運営諮問委員会の諮問を
く、演劇専門制作劇場の登場は韓国の
これと似た運営例が見つかるという。
通じて最終選定することになるが、常
公共劇場運営における新しい試みであ
既に、リオープン記念公園シリー
時観客と内外専門家らのアドバイスも
り、韓国の演劇界にとっては意味ある
ズが始っているが、2010年からの企画
聞き入れて、候補作の選定とプログラ
ターニング・ポイントを提供するとみて
も期待されている。新鋭劇作家らを中
ミングに反映する計画である。さらに、
いる。つまり、このような公共劇場の
心に中長期台本作業計画を立てて、多
公演作品の中から、反応の良かった作
運営パラダイムの変化は既存の個別団
彩な戯曲の生産から公演までを受け持
品をレパートリーに加え再公演するこ
体、アーティストまたは作品を支援す
つ「創作戯曲発掘プロジェクト」、昨年
とで、韓国的レパートリー・システムの
るやり方や公演団体が公演場を借りや
一年間観客と評論家らから高い評価と
可能性を施策してゆく。
すくなるように料金を下げるなど、ま
話題を集めた優秀作と問題作を招請し
とまりのなかった支援策から一歩進ん
て披露することで、これまでの1年
スタートする明洞芸術劇場を通じて、
で、劇場を中心に安定的な公演制作環
間、韓国の演劇界の流れと苦労が確認
韓国の演劇が返り咲くことを多くの
境を整えることで演劇界全般を直接・間
できる「優秀公演招請シリーズ」、さら
人々は期待している。
政府が支援する財団法人として再
秋号 2009 | Koreana 39
インタビュー
こ
こに実に醜い足がある。歪んだ足の指と押しつぶれ
き起こった。
た爪、たこと豆だらけの足だ。人の足に似た木の
これはシュトゥットガルト・バレエ団の終身団員である
根っこのようにも見える。ピカソの作品を連想さ
プリマバレリーナ、カン・スジンが1986年19歳で最年少入団
せるようなこの奇怪な足の主は世界的バレリーナ、カン・ス
してから20年になることを記念する祝賀公演だった。今年で
ジン(姜秀珍)だ。一日10時間以上続く練習で1年に250足以
400年の歴史を誇る世界トップクラスのバレエ団が現役団員
上のトーシューズを雑巾のようにボロボロにしてしまうとい
のために祝賀公演を行うことは非常に稀なことだ。彼女はこ
う練習の虫の足だ。一方、重力に逆らい優雅に宙を舞う白鳥
の年3月にはシュトゥットガルト・バレエ団の50年の歴史上、
の足でもある。彼女の足を見て世界で一番美しい足だといっ
わずか4人に与えられたという舞踊貴人(Kammertaenzerin)
た人もいる。韓国の高名な詩人の高銀は「その足の写真を最
に選定された。
初に見たとき、心臓がドキドキしてしまい、しばらく両手で
9月にはシュトゥットガルト・バレエ団を世界のトップ
ギュッと心臓を押さえていました。感動というのはこういう
バレエ団に導いた天才振付家ジョン・クランコ(1927~1973)
ことなんだという実感しました」と語っている。
の伝統を最もよく受け継いでいる舞踊家に授与される「2007 年ジョン・クランコ賞」を受賞した。シュトゥットガルト・バ レエ団は、「ジョン・クランコが振付けた代表的な作品で特別
特別な祝賀公演 2007年7月7日の夜、ドイツのシュトゥットガルト・オペ
な解釈とずば抜けた芸術性により作品を輝かせたカン・スジ
ラバレエ劇場では特別な公演があった。ドイツの名門シュ
ン氏に敬意を評する」と授賞理由を明らかにしている。ジョ
トゥットガルト・バレエ団の「ロミオとジュリエット」の公演
ン・クランコの作品に関する限り最高の舞踊家の地位を公認
だったが、公演が終わりカーテンコールでジュリエット役
するという意味だ。
のプリマバレリーナが舞台に登場すると客席を埋め尽くし た1500人の観客は一斉に立ち上がり大きな拍手を贈った。
「鋼鉄の蝶」の神話の始まり
「Sue Jin Kang」と書かれた記念の垂れ幕が降りてきてバレエ
しかし彼女の華麗な跳躍の陰にはその「美しい足」からも
団の団員70人の一人ひとりが彼女にバラの花7本ずつを贈っ
分かるように、怪我や肉体的苦痛を日常茶飯事として苦難と
た。オペラバレエ劇場にはまた大きな歓呼と拍手喝さいが巻
孤独の道を黙々と歩んできた一人のバレリーナの姿がある。
姜秀珍
カン・スジン 世界で最も美しい足のバレリーナ 今年の城南国際舞踊祭のために故国の土を踏んだカン・スジンは、シュトゥットガルト・バレエ団の終身団員のプリ マとして、世界トップクラスのバレリーナだ。作品のキャラクター創造に非凡な才能を示す彼女の愛称は「鋼鉄の蝶 」。舞台での絢爛たる跳躍と日常の厳しい自己練磨を一つにした呼び名だ。 チョン・サンヨン (鄭相永、ハンキョレ新聞文化部長) | 写真 : グンデル・キリアン
40 Koreana | 秋号 2009
1993年、カン・スジンがシュトゥットガルト・バレエ団で初めて主役 を務めた舞台「ロミオとジュリエット」の第1幕ジャンプの場面。
42 Koreana | 秋号 2009
1
1 「オネーギン」では貞淑で愛情溢れるタチアーナに変身した。 2 40歳を越えても10代のジュリエットのキャラクターを完璧に消化したとの評価を 受けているシュトゥットガルト・バレエ団のプリマドンナ、カン・スジン。
2
カン・スジンは1979年サンファ芸術中学校1年の時、運命的に
はバレー学校の卒業を前にしてスイスのローザンヌ国際バレ
バレエと出会った。
エコンクールで東洋人としては始めて1位に入賞した。翌年、
ある日の授業時間に「バレエを習いたい人はいませんか」
クラシックバレエとネオクラシックバレエ、モダンバレエな
という先生の問いかけに手を挙げたのがきっかけだった。そ
ど、すべての作品を踊ることのできるシュトゥットガルト・
の頃、彼女は韓国の古典舞踊を習っていた。韓国舞踊では骨
バレエ団の門を叩いた。そして「鋼鉄の蝶」の神話が始まる。
の構造が内側に曲がるように訓練するが、バレエは反対に骨 を外側に広げなければならない。そのため彼女は練習で骨の
2000年に迎えた危機、そして再起
構造を変えなければならなかった。バレエを始めて1年6カ月
カン・スジンは世界トップのバレリーナになる過程で怪
目で梨花女子大学主催のバレエコンクールで最優秀賞を受賞
我や肉体的苦痛を友としてきた。「朝、目が覚めるといつも
した。1982年サンファ芸術高等学校1年の時に韓国を訪れた
体のどこかが痛くて、痛くない日はむしろ練習をさぼったん
モナコ王立バレエ学校長・マリカ・ベソブラゾヴァによってそ
だと反省します。バレエをしているとほとんど毎日どこかが
の可能性を見出され、留学生として迎えられた。カン・スジ
痛いので、痛みを友と考えるようになりました。苦痛も私に
ンが15歳の時のことだ。
は普通のこと、当たり前のことです」
モナコ王立バレエ学校への留学時代、寄宿舎は夜の9時
2000年には足首の骨にひびの入る負傷で1年間舞台を休
になればすべての電気が消されてしまう。そこで彼女は11時
むという危機が訪れた。周りに知らさず痛みに耐えて練習と
になり警備の深夜パトロールが終わると、密かに寄宿舎の上
公演を重ねていたが結局は医師から「舞踊の暫定的な中断」と
の階のスタジオに行きわずかに射し込む王宮の光と月光を浴
いう措置を受けた。「また踊ることができるのか」と悩み、長
びながら明け方まで練習を続けた。クラスメートとのレベル
い間さ迷った。そんなある日、シュトゥットガルト・バレエ
差を少しでも縮めなくてはならなかったからだ。1985年に
団のリード・アンダーソン芸術監督は静かに彼女を呼び「スジ 秋号 2009 | Koreana 43
1
2
「朝、目が覚めるといつも体のどこかが痛くて、痛くない日はむしろ練習をさぼったんだと反省します。バレエをしているとほと んど毎日どこかが痛いので、痛みを友と考えるようになりました」
ン、時間がかかっても待っているから心配しないように」と
彼女は今も公演の無い日には毎日午前6時に起きて6~8
語りかけた。またシュトゥットガルト・バレエ団の同僚ドン
時間は練習する。若いときには公演を前にして19時間練習し
チ・ショークマン(49)の「君ならできる」という言葉が彼女に
た時もあった。他の人が2~3週間で履きつぶすトーシューズ
歯を食いしばらせた。「踊りを何よりも愛していたので決し
を彼女は一日に4足も履きつぶしたこともあった。バレエ団
てあきらめることのなかった」彼女は2002年に劇的な再起に
の物品担当者が「もっと長く履いてくれ」と哀願したほどだ。
成功しただけでなく、あこがれのシュトゥットガルト・バレ
激しい訓練で足の指はひび割れ、豆ができ、化膿すると
エ団の終身団員となり、私生活ではドンチ・ショークマンと
いう過程を繰り返している。足の負傷がひどく、皮膚に似た
結婚する。
生肉をトーシューズの中に入れたまま公演をしたこともあっ
カン・スジンにとってバレエとは何か?「一言で言って人
た。彼女は「公演の途中で生肉の血が滲み出てきたがどうし
生そのものです。バレエのない人生なんて想像できません。
ようもなかった」とその時のことを回想する。骨が曲がり、
24年前にシュトゥットガルト・バレエ団に入団した時も、現
足の指の節々がたこや豆だらけの彼女の「美しい足」はこのよ
在も同じです。毎日練習し、公演することが何よりも重要で
うにして出来上がったのだ。
す。才能は1パーセント、残りの99パーセントは努力だと思 います」
舞踊評論家の張光烈さんは「他のバレリーナが練習の虫 カン・スジンと公演をするのを嫌がることもある」という「中
「練習の虫」らしい言葉だ。彼女は昔も今も「素晴らしい
には彼女と一緒に練習していて途中で倒れてしまうバレリー
バレリーナになるには当然、才能と体力など、すべてを兼ね
ナもいる」と教えてくれた。そして「そんなに体を酷使した末
備えていなければなりませんが、根気強い努力と忍耐無しに
に、完全な姿で舞台にあがり軽やかに飛び上がるのがカン・
は不可能です」という。
スジンだ」という
44 Koreana | 秋号 2009
1
「椿姫」の一場面、カン・スジンは高級 娼婦マルガリータ役に彼女自身の個 性を反映させる。
2 「眠りの森の美女」の一場面 3 「舞踏会」の一場面
3
非凡なキャラクターの創造力 カン・スジンは卓越した表現力で観客を魅了するバレ
ジュリエット」では40歳を越えた年齢で10代のヒロインを演 じ、ジュリエットのキャラクターをよく表現しているとの
リーナとして知られている。彼女を長い間見守ってきた舞踊
評価を受けた。彼女は「30歳であれ、40歳であれ、50歳であれ、
評論家の張光烈さんはその秘訣を「長い間の訓練で培われた
配役に没頭すれば13歳にも14歳にもなることができ、70歳に
正確なテクニックと彼女だけの独特なキャラクターを作り出
もなれる」という。
す非凡な能力」だという。
今年4月、韓国の城南市で開かれた2009年-城南国際舞
彼女はこの20年間に「眠れる森の美女」、 「魔笛」、 「ロミオと
踊祭のために訪韓した彼女は「思い通りに体が動いてくれる
ジュリエット」など20世紀の生んだドラマバレエ作品と、「カル
間はバレエを続けたい」と情熱をほとばしらせていた。6月
メン」、 「雲」 など80個以上の小品バレエ作品で主役を演じてき
には「ロミオとジュリエット」でスペイン公演を行い、ドイツ
た。ジョン・クランコ(1927~1973)、モーリス・ジョーベール
のシュトゥットガルトで「オネーギン」を舞台にかけた。バレ
(82歳) 、イリ・キリアン (62歳) 、ジョン・ノイマイヤー (67歳) 、
リーナにとっては「還暦」ともいえる不惑の40代をはるかに越
ウィリアム・フォーサイス (60歳) 、ハンス・バン・マネン、クリ
えた年齢でむしろ絶頂の技量をほとばしらせているのだ。
ストファー・フィルデン、ナチョ・ドゥアト (52歳) 、レナート・
カン・スジンは年をとれば自分自身がさらに良く分かる
ツァネラ(48歳)など最高の振付家が作る難しいドラマバレエ
ようになり、舞台に立つ前にはいまだに体が震えはするもの
の作品だ。そして公演のたびに評論家と観客の賞賛が続いた。
の、舞台では自由を感じるという。「過去と未来は重要では
「椿姫」では叶わぬ恋に苦しむ高級娼婦マルガリータの
ありません。今日も一生懸命に練習し懸命に生きていくこと
キャラクターに自分の個性を溶け込ませて演じ、「オネーギ
が重要なんです。昨日よりもより良い公演をすることにだけ
ン」では貞淑で愛情溢れるタチアーナに変身した。「ロミオと
に全力を尽くしています」。鋼鉄の蝶の力強い飛翔は続く。 秋号 2009 | Koreana 45
巨匠
1
漆匠
孫大鉉
内に秘められた美しい漆器 漆塗りとは漆の木の樹皮に傷をつけて採取した樹液を製した塗料を塗ることをいい、漆匠はその技と技能を 備えた漆塗りの職人を指す。漆塗りは高度の集中力と繊細さが要求される。漆匠ソン・デヒョンさんは、 漆塗りを習い始めて12年目にしてようやく一人前の漆塗りとして認められるようになったと語る。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : アン・ホンボム(安洪範)
46 Koreana | 秋号 2009
まざまな器や家具などに漆
た。11世紀の高麗時代、文宗が遼の国
を塗って乾燥させること
に螺鈿漆器を贈ったという「東国文献
で、美しい光沢と特有の香
備考」の記録は当時の制作技術の水準
り、温かい質感を長く楽しめる。器に
が高く特産品化していたことを示して
漆を施すことで装飾的な付加価値が高
いる。1123年に宋の使臣として高麗
まり、美術品としての価値が生じる訳
を訪問した徐兢は、開城を訪れた後の
だ。さらに漆は防腐性、耐久性、耐熱
見聞記『高麗図経』に「細密可貴」すなわ
性にも優れ、実用的にも高く評価され
ち、「技術が精巧で尊いというほかな
ている。1236年~1251年に制作され
い」と高麗の螺鈿漆器を高く評価して
た高麗時代の燦爛たる文化遺産である
いる。
さ
《八萬大蔵経》が、現存しているのは、
朝鮮時代には王室と官需要品を製
木材の卓越した乾燥方法と精巧な刻字
作した京工匠と地方の外工匠がいて、
技術、科学的な経板庫の自然通風構造
工芸材料に従い技能が細分化され専門
とともに、漆が大きな役割を果たして
化していた。ここの匠たちは当代最高
いる。最近では自動車、船舶などにも
の制作技術を保有し、民間の匠たちに
漆が使われている。
大きな影響を与えた。京工匠は木工、 竹工と並び漆工が中心軸となったほ
2000年の歴史をもつ漆
ど、漆の比重が高かった。
韓国、中国、日本など、東アジ
朝鮮末、尚宮(宮廷女官)の養子と
アの国々で発達した漆は数千年の伝統
して宮廷で遺物を管理し、漆器を修理す
を受け継がれてきた。中国は漆を厚く
る仕事として京工匠の命脈を受け継いだ
重ねた後で、塗った層に文様を刻む彫
チョン・ソンギュ (全成圭) 匠は傑出した
漆が特徴であり、日本は漆の地に金粉
弟子を育てたが, その中でもミン・ジョン
を塗したり、金箔を施す蒔絵が発展し
テ (閔鐘泰) 、キム・ボンリョン (金奉龍) 、
た。韓国は慶尚南道昌原郡茶湖里から
キム・テヒ (金泰熙) 匠は三大漆匠と言わ
出土した紀元前後の遺物に見られるよ
れるほど素晴らしい実力を発揮した。ソ
うに2千年を越える漆の歴史を持って
ウル市無形文化財第1号の漆匠ソン・デ
おり、高麗時代に螺鈿(らでん)漆器の
ヒョン (孫大鉉、 60歳) さんはミン・ジョン
漆技術と造型水準が絶頂に達し
テさんの一番弟子だ。
1 作業に熱中するソン・デヒョンさん。貝殻を貼り付けた器に 何度も漆を塗った後、炭やクリスタルで落とし、剥がれない 文様は刃物でそぎ落とす。 2 ソン・デヒョンさんの最初の公募展授賞作「玳瑁伏彩菊唐草文 母子盒」
2
秋号 2009 | Koreana 47
1 漆塗りをした小盤と茶器。湯のみの内側に金箔を施して華やか さを増している。漆塗りは自然な色調の美しさだけでなく防腐 性、耐湿性、耐熱性にも優れ実用性も兼ね備えている。 2 ソンさんが高麗漆器法の玳瑁伏彩法を再現した菊唐草文。玳瑁 伏彩法とは海亀の甲羅を薄く切り透明にして、内側に赤、黄色 の色を塗り、外側にその色がうっすらと映る様にした韓国固有 の伝統技法だ。
「『どうせ何回も塗るんだから、一回ぐらいは』と少しでも気を抜くと、それは 失敗作になります。先生はいつも『見えないところに気をつけろ』と注意され ました。漆塗りは内側が重要だからと」
1
三代にわたって受け継がれた匠
月ほどかかりますが、完成にいたるま
だった。少年ソン・デヒョンは小学校
の精神
で10年以上かかる作品もあります。漆
卒業後、すぐに社会にでる。ソウルヨ
は集中力と根気のいる作業です」
ムチョン橋近くの貿易会社で使い走り
ミン・ジョンテ匠は亡くなる1年 前の1996年に、数多くの弟子の中でソ
「『どうせ何回も塗るんだから、一
として働き始めるが、その貿易会社の
ン・デヒョンさんを一番弟子として公
回ぐらいは』と少しでも気を抜くと、
式に宣言し、臨終の数ヶ月前に遺言の
それは失敗作になります。先生は『工
偶然に訪れた工房で出会った漆作
ように自分の号である「壽谷」をこの弟
程ごとに真心が不足すれば百年持つ
品に彼は魅了され、暇さえあれば使い
子に譲った。「生命の谷」という意味の
作品が五十年ももたなくなる』とおっ
走りをしながら肩越しに漆の勉強を始
この号はまた、ミン・ジョンテ匠の師
しゃいました。高麗螺鈿漆器の<螺鈿
めた。漆を知れば知るほど、その奥の
匠であるチョン・ソンギュ匠の号でも
玳瑁菊唐草文念珠盒>のように、千年
深さに驚かされた。その時、そこで働
あった。ミン・ジョンテさんは自分の
が過ぎても変わらずに美しい光沢を放
いていた人々から漆分野の3人の大家
師匠がしたように、「壽谷」の精神を受
つ作品を作る匠の職人魂こそがまさに
の話を聞き、無鉄砲にもミン・ジョン
け継ぐ弟子を育てて号を渡したのだ。
寿谷精神だと思います」
テ先生を訪ねる。情熱一つで自分のも
壽谷ソン・デヒョンさんは1999年ソウ ル市の無形文化財となる。
あった建物に漆塗りの工房があった。
とを訪れたこの青年を師匠は始めは見
一生の業
向きもしなかった。ちょうど陶磁器が
「先生はいつも『見えないところに
ソン・デヒョンさんは16歳になっ
数千度の熱にたっする窯の中で出来上
気をつけろ』 と注意されました。漆は内
た年の9月のある日のことを忘れるこ
がるように、木器が数日の乾燥期間を
側が重要だからです。初塗りと上塗り、
とができない。彼が漆の光沢にすっか
経て完全に漆が乾き、その光沢を発す
布張り、粉土張りなど漆は基本的に20
り心を奪われてしまった日だ。1949
るのに2年余りの時間を必要とするよ
あまりの工程を経ます。そこに螺鈿模
年、黄海道長縣で生まれたソンさんは、
うに、彼も試験台を経たのだ。6ヶ月
様を入れれば25の過程がさらに加わり
彼が母のお腹の中にいる時に父を亡く
後、工房のありとあらゆる雑用を誠実
ますので、螺鈿漆器一つを作るのには
した。彼は韓国戦争当時、母の背に負
にこなしていた彼を見守っていた師匠
少なくとも45の過程を一つひとつ丁寧
ぶわれて南に避難してきた。他郷で母
は弟子になることを許してくれた。
に仕上げていかなければなりません。
と共に暮らしていく、その暮らしぶり
「一筆揮之」、すなわち字を一気
制作工程は基本的な作業だけでもが6ヶ
は世の荒波にもまれて生きて行く日々
に書き下ろす自然さを完成するために
48 Koreana | 秋号 2009
Summer 2009 | Koreana 49
2
無病長寿の象徴である十長生の絵柄 の「十長生図宝石箱」。イギリスのエ リザベス女王に贈られた作品だ。
は、筆にあった量の墨をつけなければ
塗って作った螺鈿漆器が代表的だ。韓
ならない。墨が足りなければ中間で切
国の伝統螺鈿漆器は太陽と月のように
れてしまい、もう一度墨をつけなけ
共存することの難しいものが調和を成
ればならず、脈が途切れてしまう。一
している。海の美しさを秘めた貝殻と
方墨の量が多すぎると字が濁って鈍く
山の知恵を抱く漆の木の樹液が一つに
なってしまい自然の味が出ない。ソ
なり、貝殻の芸術性と漆の実用性が調
ン・デヒョンさんは漆の難しさも同じ
和したのだ。
だと言う。刷毛(漆を塗るのにも最も
ミン・ジョンテ先生の螺鈿漆器の
大切な道具で筆と似ているが、一般の
技はそのまま弟子に受け継がれて光を
筆とは違い人毛や馬のたてがみを使用
さらに加えた。ソン・デヒョンさんの
し、それを色々な種類の厚さと幅、長
作品は1984年東亜工芸展に入選し、そ
さに圧縮したあと、周りを木で包ん
の後、世間の人々からその真価が認め
で鉛筆のように尖らせて使用する)に
られるようになる。以後、伝承工芸大
合った量の漆をつけて一度に均等に塗
典だけでも8回にわたり各種賞を受賞
らないと、きちんとした漆にはならな
した彼は1992年伝承工芸大典で国務総
い。ソン・デヒョンさんは漆塗りに自
理賞を受賞し、有名になり始める。ソ
信が持てるまでに12年かかったとい
ン・デヒョンさんの作品は伝統技法を
う。「見えない内側」に対する完璧さを
忠実に守っている一方で雄壮かつ繊細
要求する師匠の思いを弟子は金科玉条
な造型美を生かしたミン・ジョンテ先
とした。少しでも塗りが満足いかない
生の作品性を忠実に受け継ぎ、形態的
と未練なく、再び最初からやり直し
な再解釈を加えて現代的な感覚を生か
た。塗りなおしたり、修理しようと
していると高く評価されている。金大
思ったことは一度もなかったという。
中元大統領が日本の天皇にプレゼント
ミン・ジョンテ先生は螺鈿の技に
した双喜文寶石函、訪韓したイギリス
も優れていた。螺鈿とは純粋な韓国語
のエリザベス女王に贈られた十長生図
で「チャゲ」と呼ばれるが、サザエやア
寶石函など、国賓への贈り物として彼
ワビなど、色々な模様の貝殻の破片を
の作品が多数使われている。湖巌美術
器に貼り付けることを指し、これを応
館と国立民俗博物館には師匠と共に彼
用した工芸品としては螺鈿の上に漆を
の作品も所蔵されている。
50 Koreana | 秋号 2009
1
2
3 1 木器塗作業の初期の過程。生漆ともち米糊 を同じ比率で混ぜて木しゃもじでよく混ぜ 合わせる。 2 麻布を張った木器に準備した漆を均等に塗 る。麻布を張ることで木器の耐久性が高ま る。 3 精製漆でする下塗りの工程。刷毛に適量の 漆をつけて一気に均等に塗らなければなら ない。
4 下塗り、中塗りを経て木器に最後の上塗り をするソンさん。わずかな埃でもつけば、 全部そぎ落として、漆塗りの作業を最初か らやり直す。
粛然とした作業過程 漆塗りに使われる漆は大きく生漆 と精製漆に分かれる。生漆は原液から 不純物を取り除いたもので、それをよ く混ぜながら40度の熱を加えて水分を 蒸発させた後、ろ過したものが精製漆 だ。精製漆に酸化鉄を混ぜると黒漆と なり、朱砂、石黄など、自然から採取 した顔料を混ぜると彩漆になる。一般 的な木心漆器の製作過程は次のとおり だ。木材で製作された白骨の傷ついた ところを柔らいおがくずと生漆、もち 米の糊を混ぜて埋め、表面を平らに整 えた後、生漆を薄く塗る。
4
その上に再び生漆ともち米糊を同 じ比率で混ぜて麻布のぼろ布で布張りを
りとなる。完成した漆の上に貝殻をつけ
かしソン・デヒョンさんは一度も自分の
する。きめの細かい土粉、貝粉、炭など
て、再び精巧な漆塗りの作業を20回あ
選択を後悔したことはないという。経済
の混合物を漆と混ぜて布の目を埋めた
まり繰り返すと螺鈿漆器が完成する。漆
的には大変だった時期にも仕事に葛藤す
あと、砥石で磨く。再び土粉などの混
が乾くまで匠は一時も気を緩めることが
ること無くに楽しく漆塗りに集中できた
部合物を漆と混ぜて塗る過程を2回から
できない。
という。彼の傍らには、子供の1歳の誕
4回ほど繰り返すが、一度塗った後は湿
「漆乾燥場の扉を開けた瞬間厳粛
生日の指輪を溶かして材料にしろと差し
度60~80%、温度18~25度の乾燥場で
な気持ちになります。扉を開ける前に
出すほど、頼りになるパートナーである
乾かす。毎回、乾燥させた状態を確認し
手もきれいに洗い、服を正します。果
妻がいて、常に大きな力となってくれ
て異物や微細な埃がついていればサンド
たして望んだような色が出たか、小さ
た。自分と同様に漆の光に魅了された
ペーパーで数千回、滑らかになるまでこ
な染み一つついていないか恐くなりま
人々とかわす以心伝心の思いもまたどれ
すり、埃をよく拭き取ってからまた漆を
す。作品は匠が流した汗に比例して完
ほど美しいことか、漆匠ソン・デヒョン
塗る。その次に精製漆とチョボル漆をす
成します」
さんは深く、漆の臭いがしみこんだ声で
る。チョボル漆を乾かし、再び埃を拭き
彼の説明を聞くと匠にとって漆塗
取り、また漆を塗る中塗り、最後の上塗
りは険しい修練の場のように見える。し
淡々と語ってくれた。
秋号 2009 | Koreana 51
傑作/名品
キム・ホンドの《風俗図帖》 朝鮮時代の庶民の学びと遊び
《風俗図帖》は18世紀の風俗画の代表作品である。仕事、遊び、官礼など、200年前の韓国人の暮らしぶりを 25の画幅に盛り込んだこの画集から〈書堂(寺子屋)〉と〈シルム(韓国相撲)〉を鑑賞してみよう。 チン・ジュンヒョン(陳準鉉、ソウル大学校 博物館学芸官) 写真 : 国立博物館
檀
園キム・ホンド(金弘道、1745~1806)は、朝鮮時代
キム・ホンドは真の意味の大画家であった。彼の絵画は
後期を代表する天才画家である。彼が活躍した18
ジャンルを問わず、すべてに最高の能力を発揮した。山水
世紀後半から19世紀初頭の時期は、朝鮮王朝が政
画、人物画、花鳥画、動物画など、西欧の絵画よりも進んで
治・経済的に安定し、繁栄を謳歌していた時期だった。農業
いた東洋絵画のあらゆるジャンルにおいて第一人者だったの
国家だった朝鮮王朝も、この時期に入ってから清と江戸幕府
だ。キム・ホンドが自由自在に描き出した多様なモチーフの
との国際貿易などの商業活動が活発になり、社会が活気づい
絵の中で、特に人々に歓迎されていたジャンルが風俗画であ
ていた。さらに、同時代を治めた英祖、正祖などは、絵画を
る。風俗画は18世紀にもっとも多く描かれていて、様々な階
含めた芸術に対する目が高く自らも親しんでいた教養人で
層、職業の人々の生きる姿を写実的に描写した絵である。西
あった。その影響もあってか、この時期には絵画分野におい
欧の絵に比べ、やや観念的・哲学的になりがちな東洋の絵画
て、キム・ホンドの他にもチョン・ソン(鄭敾)、カン・セファ
の中で、写実性の高い風俗画はユニークな存在であった。し
ン(姜世晃)、シム・サジョン(沈師正)、シン・ユンボク(申潤
たがって、写実性の欠ける東洋の絵ばかりを見慣れた人々
福)、チョ・ヨンソク(趙榮祏)、イ・インサン(李麟祥)など、
は、リアルな風俗画に興味を示し熱狂した。18世紀に優れた
優れた画家らの活躍が際立っていた。中でもキム・ホンドは
風俗画家は多かったがキム・ホンドほどの成功は収めた者は
ひと際目を引く大家であった。
いない。 一方、同時期の西欧の美術界では、新古典主義と浪
平和な風俗画
漫主義と呼ばれる芸術思潮が展開していた。キム・ホンド
正祖時代には各分野の芸術が発展したが、絵画分野に
と同時代に活躍した画家は、フランスのジャック・ルイ・ダ
おいて最も支持されていた画家がキム・ホンドだった。彼は
ヴィッド(1748-1825)とスペインのフランシスコ・デ・ゴヤ
正祖の肖像画を数回にわたり描いただけでなく、正祖とその
(1746-1828)である。ダヴィッドはフランス革命の最中に活
臣下のために、様々なモチーフの絵を描いた。一方、正祖の
躍した新古典主義の代表的画家として知られる。彼の作品
即位した1776年、太平洋を挟んだアメリカ大陸では、イギリ
〈マラの死〉は、時代的背景と悲劇性を静かに物語ってくれる
スから独立を勝ち取り、それから数年後のヨーロッパではフ
風俗画の傑作である。一方、スペインの宮廷画家だったゴヤ
ランス大革命 (1789) が起きた。しかし、東洋にとってその変
は、ロマンチストらしくダヴィッドよりはるかに幅広い作品
革の嵐は遠い異国の話であった。韓国、中国、そして日本は
世界を披露するが、彼の作品も当時のスペインをありのまま
それぞれ清、朝鮮王朝、江戸幕府の傘の下で、西欧とは関係
に見せてくれる風俗画である。
なく繁栄を謳歌していた。 52 Koreana | 秋号 2009
さて、キム・ホンドの作品はというと、彼らのそれとは
《風俗図帖》の中の〈シルム(韓国相撲)〉。下絵もなく相撲取り と野次馬らを素描したように見えるが、緻密に構図を図り、 計算して人物を配置している。
秋号 2009 | Koreana 53
この画帖の絵に駆使された筆遣いの技法には驚くばかりだ。下書きもせず、直筆 で一気に描きあげたかのように画面いっぱいに各人物を描写している。まるで最 初から周到に構図を考え、人物を配置しているかのようだ。
違って平和で暖かい。キム・ホンドは朝鮮後期、もっとも豊
背にし、手の甲で涙を拭いながら座っている。その後ろには
かで栄えていた時代を反映していて、暴力と矛盾、狂気と混
開かれたままの本が見える。一方、先生の机の傍には一本の
乱の代わりに華麗で優雅な、そしてほのぼのとした人間群像
フェチョリ(鞭)が置かれている。哀れにも子供は泣きなが
を表現している。王室と高級官僚による華やかで優雅な行事
ら、鞭の罰を受けるために右手でズボンの裾紐を解いてい
を描いたものから、一般庶民の素朴な日常生活を暖かく愛情
る。小学校1~2年生ぐらいにしか見えない子供の心中は、今
あふれる視線で描いた作品に至るまで実に多彩である。ここ
にも自分のふくらはぎを叩くであろう先生の痛い鞭のことで
で紹介する《風俗図帖》の二作品は後者を代表する絵である。
いっぱいであろう。一方、周りの子供たちは罰を受ける羽目
《風俗図帖》の25図の作品には、その時代を生き抜いた庶民
になった彼に、同情するグループとその状況を面白がってい
らの素朴な日常生活の断片が盛り込まれている。この《風俗
るグループに分かれている。彼に同情する一人の子が、そっ
図帖》を通して現代の韓国人は、200年前の祖先の暮らしぶり
と口元に手をそえて密かに答をささやきかけ、もう一人は
に微笑みながら共感を抱くことができる。今では、人物の服
本を差し出しながら盗み見するように促している。手前の子
装、家や町並みもすっかり変ったが、韓国人は絵の中に自分
供たちは距離があるせいか、ことの成り行きを傍観している
の姿を重ねることができる。
様子である。とはいえ、口を開いて笑っているようにも見え る。
200年前の学びの場
手前のグループの中に教師と一番近い距離の人はガッ (訳
〈書堂(寺子屋)〉は朝鮮時代の人々の教育観をよく表し
注:韓国伝統の帽子)を被っている。成人式を経てガッを被っ
ている。韓国人は昔から教育に関心が高く、親は食べなくて
ているこの青年と罰を受けている子供の歳はかなり開いてい
も子供は教育させようと頑張った。教育を通して官吏になる
る。つまり、朝鮮時代の田舎の書堂では、今の小学生から中
ことで、昇進や経済的恩恵を享受できるという理由もあっ
学生までが一緒になって勉強していた。教師は子供のレベル
たが、当時の社会における道徳的・哲学的基準に見合った人
に合わせてそれぞれ教えていたのである。基礎教育の場合、
になるためにも教育は欠かせないという認識があった。〈書
現在の年齢に基づいて区分されている教育方法よりもっと効
堂〉の場面は朝鮮時代の農村、または都市部の小さな町内な
果的な方法だったと思われる。とにかくこの絵から、世界的
どの共同体単位で行われていた教育の現場である。〈書堂〉に
にも高い大学進学率を誇る韓国の高い教育熱が垣間見れる。
は老いた教師と9人の生徒らが描かれている。教師は机を前 にして座り、その前に生徒らは、左右2列にお互い向か合っ て座っている。ところで、その中の一人の子供が教師の机を 54 Koreana | 秋号 2009
相撲取りと観衆 韓国のシルム(訳注:韓国相撲)は西欧のレスリングとは
《風俗図帖》の内、〈書堂〉。200年前の朝鮮時代にお ける教育の現場が描かれている。
立って首に掛けた紐に木箱を預けて飴を売って いる少年である。彼はシルムには関心がなく、 ただ飴がたくさん売れることだけを願ってい る。しかし、勝敗に熱中している人々はこの飴 売り少年に誰一人として関心を払わない。ただ 一人、最下方を見ると、背を向けて座っている 子供だけがその少年を眺めている。 また違うユニークなスポーツである。またシルムは、韓国の 国技といえる「テコンドー」とも違って平和的なスポーツであ る。円の中で二人がルールに従った服装で互いの力と技を競
構図の特徴 《風俗図帖》の絵の構図には共通の特徴が見られる。背
い合いながら、先に土俵に尻の付いた方が負けとなる。作品
景がなく、白い紙の上に対象に焦点を絞って描写している。
〈シルム〉でも二人の男が、がっぷり取り組み合って力比べを
画面が小さいせいもあろうが、対象を注視させる有効的な方
している。背中を見せている男が相手の左足を取り上げて倒
法である。その小さな画面をいかに有効に活かしているのか
そうとし、一方の相手は倒されまいと右足で土俵を力強く踏
は、二つの作品の構図を丁寧に観察すれば分かるだろう。キ
ん張りながら相手のサッパを握り締めている。彼は眉間に皺
ム・ホンドは知らず知らずに鑑賞者側の視点を投入し、一緒
を寄せていて、相手も歯を食いしばり全力を傾けている。い
に共感できるように綿密にその構図を練っていたのだ。しか
ずれ一人は土俵に倒れてしまうだろう。傍らには二人の脱い
し、大家は全く余計な痕跡を残していない。
だ履物がきちんと置かれている。
さらに、この画帖で駆使された筆遣いの技法にも驚か
輪になって見物している人々の様々な姿にも注目しよ
される。デッサンもせずに、キム・ホンドは直筆で一気に描
う。右下の二人は相撲取りに一番近い所から、やがて決着が
きあげたかのように画面全体に人物描写をした。その結果は
つくであろう勝敗の行方に我を忘れ口が開いたままだ。他の
まるで、あらかじめ綿密に構図を計算し人物を配置したかの
人々も帽子を被ったり、あるいは脱帽したり、または扇子を
ように見える。このように力まず自然に人物を描き出せる画
口にあてたり、土俵に手をついたままで勝負の行方に注目し
家がキム・ホンドであった。キム・ホンドが30代後半に描いた
ている。中には、両手でひざ小僧を抱え込み履物を脱いで観
この《風俗図帖》こそ、韓国風俗画における記念碑的な作品の
戦している人を指して、次に出る選手だと主張する人もい
一つである。
る。緊迫した観戦客の中に、一人の部外者が見える。片側に 秋号 2009 | Koreana 55
文化イベント・レビュー
ソウル演劇祭30年の歩みを 振り返って
「春の日」の一場面。1984年の初演の舞台でも父親役を つとめた俳優、オ・ヒョンギョンは劇中の人物の年齢 に近づき、ベテラン俳優となって同じ役を演じた。
56 Koreana | 秋号 2009
今年で30周年を迎えたソウル演劇祭、今回は「代表作を新たに作る」という企画で、これ までの代表作が新たな演出と新たな俳優で演じられた。この演劇祭を当初からずっと見 守ってきた演劇評論家が在りし日々を振り返りながら、今回の舞台の意義を考える。 グ・ヒソ(具熙書、演劇評論家)| 写真 : 国立劇場
1
977年に大韓民国演劇祭という名称で始まったソウル
あったが、ソウル演劇祭の基本フレームは、新作創作劇の開
演劇祭は、韓国で最も古く韓国を代表する演劇祭だ。
発と公演という形式にこだわり受け継がれてきた。
主催も最初は韓国演劇協会だったのが、現在はソウル 演劇協会に移管されている。 2009年はソウル演劇祭が始まった1977年から数えて33
今年は30年間に出品された合計290の新作創作劇の中か ら、代表作9編と今年の開幕作1編の合計10編の作品が、4月 16日から5月24日まで大学路のアルコ芸術劇場と、今年新た
年になる年だ。ソウル演劇協会はソウル国際公演芸術祭とい
に芸術の殿堂内のトウォル劇場と自由小劇場で公演された。
う名称で開催された3年間を除いた残りの期間をソウル演劇
ほとんどの公演がアルコ芸術劇場で公演されていた例年に比
祭の年齢だと考え、今年を30周年を記念する特別な年だと
べて多様な劇場が登場したといえよう。
宣言して新たな形式の演劇祭を企画した。
今年のソウル演劇祭は、代表作に選ばれた9つの戯曲を 新しい劇団、新しい演出、新しい演技陣による今の時代に
代表作の再解釈
マッチした舞台にリメークするという趣向だった。9本の戯
この演劇祭が生まれた年1977年は、公演芸術に対する
曲のほとんどが時代を代弁する作品であり、作家の発言が比
韓国政府の文化政策が本格化した時期だった。その前年から
較的強く表現されていた。そのような作品の新たな舞台化に
大韓民国音楽祭が始まり、演劇祭と舞踊祭がその後に続い
強い意欲と熱い情熱が注がれた結果、多くの観客の関心を得
た。演劇祭が始まった当時、その目的は創作劇と劇団の支援
て、演劇祭は史上指折りの企画と観客動員数の両方で成功し
だった。ソウル演劇祭が最初から新作創作劇だけを対象にし
たといえる。
たことや、支援予算項目にいつも劇作家の作品料の支援項目
韓国の演劇界では創作劇は初演の舞台で終わる場合が
があったのも、創作劇の開発と支援という演劇祭の設立目的
多い。最近は劇団も増え公演の回数も多くなっているため、
によるものだった。その間演劇祭はコンクールスタイルで行
少しずつではあるが再演という声が聞こえてくるようになっ
われてきた。
た。それにしても、新しい解釈による新しい舞台、それも公
最初の年には劇団対象の団体賞に、2年目からは個人賞 が加わった。また海外の劇団を招聘し、海外作品の公演や 国内の成功作を招いた88オリンピック文化芸術祝典なども
演作品のすべてが再演というのは非常に珍しいケースだとい えよう。 そういう意味で今回のソウル演劇祭30周年記念公演「代 秋号 2009 | Koreana 57
表作を新たに作る」という企画趣旨とその実践は大きな意義
今回のイ・ソンヨルの舞台は初演の時の父親役の呉鉉京
があった。ではこのような舞台が得た成果は果たして何だっ
がまた同役を演じ、成功した二つの前作の舞台を克服する新
たのか。「新たな舞台」という最重要な目標は成し遂げられた
しい解釈を試みた。舞台は劇中の人物の年齢にさらに近く
のだろうか。
なった俳優呉鉉京の語りを中心に、うす暗い色彩と太い線で 表現された。原作者が最初に意図した政治的な権力構造の対
〈春の日〉
立など、いまや新しい読み方が要求されている部分だといえ
4月22日から28日まで、アルコ芸術劇場大劇場で公演さ
よう。そういう意味で今回のイ・ソンヨルの舞台はこの作品
れたイ・カンベク(李康白)作の「春の日」は劇団白首狂夫がイ・
の新しい解釈が今後も幾らでも可能であることを示したとい
ソンヨル演出で作ったものだ。この作品は1984年に第8回大
える。
韓民国演劇祭で劇団星座がグォン・オイル(権五鎰)演出で初 演し、1997年には世界演劇祭の公式招待作になり劇団琵琶が キム・チョルリ(金哲理)の演出で公演した。つまりこの作品
〈不可不可〉 イ・ヒョンファ(李鉉和)作の「不可不可」 (5月9日~15日、
は演劇祭だけでも3回目の上演で、それも劇団と演出が3回
アルコ大劇場)は、演劇祭に何度も参加申請してはいつも落
ともすべて違うということだ。原作は説話・神話的な構造を
選していたが、ついに1987年の第11回演劇祭から参加して
借りて80年代の政治状況を隠喩的に解き明かしたものだが、
きた作品だ。演劇練習室でのレッスンと公演が同時進行し、
初演の舞台はこの作品から政治的色彩を排除し、叙情的で詩
その両方を見つめる客席と一つになった舞台装置で、歴史的
的な温かい作品に仕上げていた。それに対して金哲理の舞台
な危機の反復と演劇練習の反復のなかで繰り返される台詞が
は97年の現実の中でそのような隠喩的な装置を取り除き、家
一つになっていく舞台だ。初演の時の舞台演出が早急な印象
父長的な社会を代表する父と新しい世代を代表する息子との
を与え、演劇の形式と「不可不可」の意味の説明に追われてい
間の対立構図を主軸にしていた。初演の舞台の父オ・ヒョン
たとすれば、今回の同じ演出家チェ・ユンイル(蔡胤一)によ
ギョン(呉鉉京)、97年の舞台の父キム・インテ(金仁泰)はとも
る新しい舞台では、はるかに余裕があった。前回は先輩俳優
にその舞台の中心として強い存在感を示していた。
として、今回は演出家役で出演したイ・ホジェ(李豪宰)と、
1 画家 李仲燮の人生とその芸術 を主題にした「旅立つ家族」 2 効果的な舞台装置で物語の テーマをより鮮明にした「凶家 に陽が差す」 3 高麗武人時代を背景にした「美 しい男」
58 Koreana | 秋号 2009
1
新たに登場した先輩俳優のキン・インテの余裕ある演技が劇
主人公の強烈な性格創造の面で少し物足りなさを感じた。以
全般に安定感を与えていた。
前の舞台の主人公であるキム・カプス(金甲洙)やカン・シン グ、そして新しい舞台のチョン・ボソク(鄭寶石)の3人の顔が
〈旅立つ家族〉
時折重なってしまう瞬間があり、それが残念であった。
キム・ウィギョン(金義卿)作の「旅立つ家族」 (5月18日~ 23日、アルコ大劇場)は、画家イ・ジュンソプ(李仲燮)の人 生と芸術をテーマにした作品だ。1991年の第15回演劇祭で イ・ユンテク(李潤澤)演出で参加し大賞をとり、翌年に
〈こんな歌〉 チョン・ボックン(鄭福根)作の「こんな歌」 (4月29日~5 月6日、アルコ小劇場)は、1994年に劇団展望がシム・ジェ
再演され、さらにニューヨーク、ロサンゼルス公演も
チャン(沈載燦)演出で上演した作品だ。当時の出演俳
行われた。1991年と92年の再演はイ・ユンテクがその
優はパク・スンテ(朴勝泰)、カン・シンイル(姜信一)、
劇的な才能でさらに磨きをかけたものだった。音
ソル・ギョング(薛景求)だった。
声とリズムが強調された俳優たちの台詞、イ・
夫を守ろうとするあまり夫を死
ジュンソプの絵を資料として積極的に活用し
刑囚にしてしまい、息子のため
た舞台美術、効果的な音楽の活用など、見
にとしたことが息子を死に追いやっ
ごたえのある豊かな舞台だった。2001年に
てしまっても、いまだに迷妄から覚めること
はソウル市劇団がキ・クッソ(寄國敍)の演出
のない一人の女の悲劇を描いたこの作品は、信じ
で日本で開かれたBeSeTo演劇祭に参加し
られないほど純粋な女の生活哲学を通して、時代のイ
た。この舞台は伝統的な音楽と動きを積
デオロギーを強く批判した作品だった。国立劇団の中
極的にとりいれ、日本の観客と評論家
堅俳優イ・ヘギョン(李恵慶)を主軸に、キム・ヨンピ
から高い評価を受けた。今回、劇団ソ
ル、キム・チュウァンなど、劇団コルモッキルの若い
ウル工場のイム・ヒョンテク演出で作ら
俳優が出演した今回の新しい舞台は、イデオロギー
れた新しい舞台は、戯曲の深い解釈と
の葛藤や象徴的で端正な舞台というよりは、日常性
3
秋号 2009 | Koreana 59
2
1
今年のソウル演劇祭では、これまでに上演された作品の中から9つの戯曲を選び、今の時代にマッチした新しい舞台を作りあげ た。その結果、演劇祭史上5本の指に入るほどの多くの観客動員に成功した。
が強調されて力が多方面に分散してしまい、キム・ヨンオク
変わり舞台が変わったことと、新しい俳優が大勢参加したこ
(金瑛玉)という主人公の主張や性格を十分に構築することが
とだ。この作品のこれまでの舞台を見ると劇場の大きさに合
できなかった。
わせた効果的な空間使用が特長だった。今回の新たな公演で 最もこれまでと違っていたのが芸術の殿堂小劇場の空間を使
〈凶家に陽が差す〉
用してつくられた高架道路や高架道路につながる道だ。家が
イ・へジェ作、「凶家に陽が差す」 (5月7日~17日、芸術
聳え立つという舞台装置はこの作品の話の方式とテーマをよ
の殿堂自由小劇場)。この作品は、1999年トンスンアートセ
り鮮明にしていた。新しく参加した俳優たちの演技も安定し
ンター小劇場で劇団人革イ・キド演出で初演され、2000年の
ていた。
ソウル演劇祭の招聘作、2004年LGアートセンター企画公演、 2005年フランクフルト国際図書展招待公演など何度も上演さ れてきた作品だ。初演の時から批評家、観客の熱い喝采を浴
〈沈清はなぜ2度も海に身を投げたのか〉 オ・テソク(呉泰錫)作、「沈清はなぜ2度も海に身を投
びており、近来の韓国演劇の傑作の一つといえる作品だ。伝
げたのか」 ( 4月25日~5月10日、大学路芸術劇場小劇場)は、
来の家神信仰(家の守り神)を基にある一家の歴史を物語る内
1990年劇団木花が劇団の専用劇場である衝突劇場木花で初演
容で、これまでにこの舞台にはオ・ダルス、パク・ヨンス、キ
して以来、芸術の殿堂小劇場、アルングジ小劇場、国立劇場
ム・ビョンチュンらが出演し、今回の破戒僧役のハン・ミョン
ハヌル劇場など、何度も国内で公演し、2005年には世界比較
グ (韓明求) は2004年からこの役を演じ続けている。その他は
劇文学会の招きでアメリカノースリッジでも上演されたこと
サムスン婆さん役のチョン・グッヒャン(全國香)以外はすべ
がある作品だ。劇作演出家のオ・テソクと劇団木花が何ども
て新しい配役だ。今回の舞台の新しいところは、まず劇場が
手直しを加えている作品で、今回の演劇祭の参加作の中で最
60 Koreana | 秋号 2009
3 1 一人の女の生活哲学を通して時代のイデオロギーを批判した「こんな歌」 2 炭鉱夫家族の悲劇的な歴史を描いた「オルガンの音」 3 古典「沈清伝」をモチーフに現代をえがいた「沈清はなぜ2度も海に身を投げ たのか」
2
も公演回数の多い作品だ。目の見えない父のために人身御供
の強い作品だった。作家たちは自分たちを取り巻く政治・社
となり海に身を投げた沈清が、現代の世の中において、不感
会的な状況に対して非常に敏感に、執拗に発信しようとして
症のまま死にゆく人々のために龍王との談判の後、再び人身
いた人々だった。30年の演劇祭の歴史の中から選び出された
御供として海に身を投げるというストーリーのこの作品は、
9つの作品以外にも、これまで演劇祭で重要な役割を果たし
ストーリーや主人公の性格の変化、時代に合った台詞の挿入
注目を浴び、再び照明をあててしかるべき作品が多くあると
などでだいぶ変わったが、紙箱や工作的な雑然とした舞台の
いう点も記憶すべきだ。
雰囲気は基本的に同じだ。俳優たちはそのたびに若返ってお り、つねに活力がある。 その他、演劇祭の開幕公演だった「ピカソの女たち」の女
今回、これらの作品をリメークした人々は作品に対する 新たなアプローチと演出でそれぞれ新しい舞台を創造しよう と努力していた。舞台美術、舞台空間の活用、照明、衣装、
優たちの演技競演、炭鉱夫家族の悲劇的な歴史を描いた作家
音楽などの要点おいてで技術的な洗練度が向上していること
ユン・チョビョンの炭鉱3部作中の2番目の作品「オルガンの
が確認できた。しかし、作品解釈の熱意とそれに伴う新たな
音」の舞台美術、「ハンスとグレーテル」のナム・ミョンリョル
解釈という点では物足りなさを感じた。
(南明烈)の演技を主軸にした深みのある作品解釈、「美しい
演劇祭30年、創作初演作品を中心に続いてきた演劇祭
男」の若い俳優たちを大挙して起用した新鮮な活力などが今
のあり方に対して反省すべきだという声が高い。30年の総決
回の演劇祭で注目された要素だった。
算のように新しい様式で行われた今回の演劇祭が大きな契機 となり、さらなる跳躍へのステップ台となることを願ってい
さらなる跳躍のために
る。
9本の作品のほとんどが韓国社会に向けたメッセージ性 秋号 2009 | Koreana 61
韓国再発見
自然への愛情あふれた童話 ビジネスマンとして成功し、韓国に住み着いたオーストラリア出身のジョン・ワーカーさんに、 童話作家という肩書きが加わることになった。彼が著した童話『小熊ウラの冒険』は、絶滅の危機 に瀕する韓国土着動物のバンダル熊 (ツキノワグマ)が主人公である。 ファン・ソンエ (黄善愛、フリーライター) | 写真 : アン・ホンボム(安洪範)
Summer 20092009 62 Koreana | 秋号
経済人ジョン・ワーカーさんと韓国人奥さん。彼が〈小熊月熊、ウ ラの冒険〉を書くに至っては、動物救助団体でボランティアー活 動をしている奥さんの影響も大きかった。
今
年5月5日の子供の日を迎えるにあたり、5~7歳までの子供を 対象にした本が出版された。『小熊ウラの冒険』というタイト ルのこの童話は、英語と韓国語で同時出版されたが、著者の
履歴が話題を呼んだ。著者のジョン・ワーカーさんは韓国最大の外資系 投資金融会社であるマッコーリー韓国インフラ投資・融資会社の会長で ある。韓国の美しい自然や檀君神話からモチーフを得た彼の本は、小 熊のウラの冒険を通して、自然への愛情や教訓を伝えている。
エネルギッシュな国 、韓国 ワーカーさんは2000年から韓国に住んでいるが、彼が韓国に住み 着くようになったのはほとんど偶然といえる。オーストラリア最大の 投資金融会社のマッコーリー社が海外への展開を計画するようになり、 ワーカーさんはビジネスの可能性を探る目的の海外出張の一環として 韓国を訪れた。そして彼は、空港に降り立つやいなや、韓国がエネル ギー溢れるダイナミックな所であると直感した。ビジネス的な見通し について前向きな印象を受けた彼は、一週間後に家を構えて支社を開 設するため直ちに仕事に取り掛かった。 最初はオフィスもなく、電話による業務に頼りながら4人態勢で 始ったが、現在は300人を超える社員を抱え、13社にのぼる系列会社の 業務を担当している。マッコーリー韓国インフラ投資融資会社は、株 式の投資や企業の合併、民間インフラ投資に関する仕事をする会社で ある。 ワーカーさんは当初、江南地域で生活していたが、洗練された 服装でヨーロッパの高級車に乗っている人々の姿を目にして、ソウル は豊かで華やかな場所という印象を受けた。しかし、時間の経過とと もに、多様で複合的な韓国人の暮らしと文化にさらに惹かれるように なったという。建築と食べ物に止まらず、シャーマニズム・仏教・儒教・ 秋号 2009 | Koreana 63
「韓国人は昔ながらの伝統を守り続けながら、自分たちの伝統的な食べ物や山などの良いところを話したがりま す。正確には言えませんが、韓国の人々はすべての物事に理由や意味を与えているようです。その伝統を韓国 人に忘れないでほしいです」
キリスト教など、様々な宗教的伝統から影響を受けてきた
るようになった。「人々は休憩を取ったり、頭を冷やすため
人々のライフスタイルから、彼は現代と伝統が巧妙に調和さ
に山を訪れます。山は韓国の自然と韓国人の生活ぶりにおい
れている姿を確認した。もちろん一方では、最初は韓国の食
て非常に重要な意味合いを持っていると思います。韓国で暮
べ物に馴染めなくて、また文化的な相違で苦労していた。
らすことになって、山神霊についても知るようになった。も
例えば、韓国人が社内の役職を重視することを分から
ちろんこれらすべては韓国文化のユニークなところでしょ
なかった彼が、秘書を役員より高い職位にしたことで、社員
う。韓国人の生活には文化的脈絡が潜んでいるようです。こ
の間で葛藤が生じたこともあった。彼はその出来事を教訓
の文化は独特の価値体系をもっています。しかし、西洋人の
に、「文化間の衝突」をうまく解決することに努めた。韓国
多くはもはやそのような文化的脈絡を持っていない。生活の
の文化を尊重しながらも開放的、革新的に、円滑にコミュ
深いところまで浸透している文化的伝統の多くはほとんど忘
ニケーションが取れる新しい職場文化の導入を試みたのであ
れられています。ところが韓国の人々は、大昔からの伝統を
る。ワーカーさんのそうした取り組みは満足できる結果につ
今だ維持しながら、ある食べ物の良さについて、あるいは山
ながった。創造性とチーム・ワークを強調するマッコーリー
の良いところについて語ります。うまくは説明できません
社の基本方針をベースに、相手を尊重し、会社に打ち込む仕
が、すべての物事にある理由や意味合いを持たせているよう
事熱心な韓国の職場文化が調和した結果、皆が満足できる幸
です。この伝統を韓国人に忘れないでほしいです」。20世紀
せな職場雰囲気を創り出すことに成功したのだ。
初頭、ドイツの社会学者のマックス・ウェーバーが西欧文明 の近代化の過程で西欧社会は「脱魔法」化したという診断を下
都心の中の自然 ソウルに滞在し始めて間もない頃、ワーカーさんは都
したが、ワーカーさんは今も「魔法」に取り付かれている韓国 を前向きに見ているようだ。
心から離れたい時はいつも済州道を訪れていたという。美し
韓国は現在も近代化の道を進んでいて、様々な開発プ
い自然に恵まれた済州道はパラダイスのようで、彼はそこか
ロジェクトが進められている。開発は環境に肯定的あるいは
らエネルギーを得ると同時に癒された。ところが、時間が経
否定的結果をもたらしかねない。ワーカーさんは韓国人の環
つにつれて、ソウルの真ん中にも自然が息づいていること
境意識が最近になって向上したと考えている。「皆が環境の
に気づくようになった。ソウルの南側に位置した牛眠山トン
重要性に気づき始めています。例えば、ソウルの環境もます
ネル工事に、マッコーリー社は合弁会社として加わること
ます改善していますね。公園、散策路、そして歩道の連携を
になったが、彼は工事現場から自然が楽しめるハイキング・
通じて、ソウルは大都市でありながらも、人々が土を踏みな
コースを見つけたのである。現在ワーカーさんは江北の城北
がら暮らせる場所になりつつあります。非常に好ましいこ
洞に住んでいて、彼は北岳山の麓に佇む家から10分以内に
とですよね。環境改善を通してソウルはまた跳躍するでしょ
山に着ける。さらに、彼のオフィスからも15分で自然に接
う。緑豊かな都市になればなるほど、より多くの観光客が訪
することができる。彼は自然に囲まれているソウルまた自然
れるようになります。観光客が増えれば今度はさらに多くの
を取り巻く都心の街並みが非常にユニークであると考えてい
ビジネスマンが訪れることになります」
る。外国の大都市、例えば北京やシドニー、ロスなどでは経 験しがたい環境条件であろう。 ワーカーさんは時間の経過とともに、韓国人の暮らし において山の持つ意味合いが非常に大きいということも分か 64 Koreana | 秋号 2009
社会的要素とビジネスは密接な関わりを持っていると いう彼は、従って環境改善は我々の生活の質を向上させる だけではなく、経済的側面からも重要であるとみている。 ワーカーさんは自分が訪問した都市のなかで、特に江陵に
家の門を出て、10分で山に到着する く北岳山に住まいのあるジョン・ワー カーさんは「環境の改善でソウルはま た跳躍するだろう」と考える。
強い印象を受けたという。海
する童話を書きたいという思
と川、そしてすべての山々を
いはあったが、昨今の世界的
取り囲む自然の恵みのあるこ
経済危機を目の当たりにして
の美しい都市は、韓国の未来
決心がついた。生活が厳しく
における都市のモデルだと語
なれば、かえって生き方を顧
る。観光産業が唯一経済的基
みる時間が出来るという彼は、
盤であるはずの江陵は、サー
バンダル熊が置かれた状況と
ビス産業と観光産業が韓国に
人々の自然に対する認識に関
おける主な競争産業になる未
して妻と話し合う過程で、本
来を代表する都市になれるた
に対するインスピレーション
めであるというのだ。
を得たという。但し、彼は真
ワーカーさんは韓国発展の方向性、中でもグリーン 都市、グリーン・エネルギーと関連のある諸政策がスピー ディーに進められていることを高く評価する。その一方で、
面目で直接的なメッセージを発信するよりは、楽しく読みな がら、自らが感じ取れる本が書きたかったという。 『小熊ウラの冒険』は、天から降りてきた天人と熊から
個々人の自然観や深い理解もそれに劣らず重要であると述べ
人間になった女が結婚して生んだという韓国の檀君神話から
る。「自然は我々の一部でなければなりません。我々の暮ら
もヒントを得た。檀君神話を知る以前のワーカーさんは、虎
しというシステムの中に入っていて、常に考慮の対象にする
が韓国を代表する動物だと思っていたという。しかし今や、
べきです」。我々が自然の存在意義についてより理解を深め、
怖くて活気に満ちた虎より、力強くて忍耐強い熊こそ韓国人
自然といかに共存すべきかについても真剣に考えるべきだと
をもっともよく表象する動物だと思うようになった。彼の本
彼は強調する。
の中で、小熊は人間によって救助されるが、実はその人間も 幼いころ、大きな熊に救助されたことがあった。このような
『小熊ウラの冒険』 香港に本部を構えている動物保護機関、アニマル・アジ
ストーリ構成は人間と動物との友情、そして人間と動物が助 け合いながら共存していく姿を物語ってくれる。
ア(Animal Asia)によると、1992年に韓国政府が生きた熊から
ワーカーさんは韓国の四季を背景に、4冊で企画された
の胆汁の抽出を法律によって禁止したのにも関わらず、韓国
『小熊ウラの冒険』シリーズの第二作目をクリスマス前に出版
の農場には現在も1300頭以上のバンダル熊 (ツキノワグマ) が
する予定である。ワーカーさんは子供時代の一時期、獣医に
監禁されていると主張した。昔 韓国ではバンダル熊は普通
憧れていたが、今では自分の想像の世界を通して動物と話を
に見ることができたが、胆嚢の「医学的」効果へのニーズが高
交わすようになった。忙しいビジネスマンとして、余暇を惜
まったため、絶滅の危機に瀕している。ワーカーさんによる
しんで童話を書いたジョン・ワーカーさんは実に特別な人で
と、現在野生に生息しているバンダル熊は16頭しかいないと
あり、彼の暮らしぶりは注目に値する。さらに教育に言及し
いう。
て彼は、学校の教科目だけに集中した学習よりは、主体的に
ワーカーさんの韓国人の奥さんは動物救助団体でボラ
創造的な活動経験を通して、自分の人生を豊かに彩ることが
ンティアとして働いていて、バンダル熊に対する関心と愛
肝心だという。真剣に受け止めて実践に移すだけの価値のあ
情には格別なものがある。普段からバンダル熊を主人公と
るアドバイスである。 秋号 2009 | Koreana 65
世界の中の韓国人
1 ドイツブレーメン国立芸術大学校作曲家主任教授として在任してい る作曲家パク・ヨンヒ。©カン・テウク 2 国立国楽管弦楽団がパク・ヨンヒに委嘱した作品。〈世の中を満たし て空になるのに(2007)〉を演奏している。(写真 国立管弦楽団)
1
パ
ク・ヨンヒ(1945~)は西洋の現代音楽界に韓国を知らしめるメッセンジャーである。彼女は目 に見えないロザリオを胸の内にしまっているようだ。そのロザリオを数える心境で五線の音譜 を追う姿はさながら求道者のようである。
論理的な求道者 彼女の心の奥底には、限りなく自分を顧みる心と隣人、つまり「分かち合い」の対象となる第三者に 対する深い愛情がある。今存在する自分への感謝の気持ちを人々と分かち合うことのできる立場に感謝 し、熱心に教授し、演奏者とコミュニケーションする傍ら、聴衆と出会うために東に西へと、汽車や飛 行機、電車で動き回っている。地球上を回り続けているのだ。 彼女は言う。「私の音楽は直観に依存するよりは、よく練られた合理的な構造、つまり 論理に基づいた音楽である。自然法則の中には有機体の原理が存在する。自然は既に我々 に論理的な構造を提供しているのだ。それは私の作品が目指すところ、生きている生命体 に対する尊重とも関係があり、そうした精神は広義の意味からして「政治」とも相通じるも のである」と。 パク・ヨンヒの音楽は既に30年前からヨーロッパで広く演奏されてきた。1994年に彼
作曲家ヨンヒ、パク・パアン 音楽で到達した「大きな笑い」の境地 パク・ヨンヒ(朴泳姫)は東洋と西洋の文化・伝統を融合させたユニークな音楽世界を構築してきた現代作曲家であ る。欧州でヨンヒ、パク・パアン(朴琶案)という名前で30年間活動している彼女には「第二のユン・イサン(尹伊 桑)」という別名が付きまとう。彼女の創作世界は、最近さらに大きくステップ・アップしようとしている。 カン・ウンス(姜恩秀、作曲家、音楽学博士)
2 67 Koreana | 秋号 2009
秋号 2009 | Koreana 67
自ら「パアン」という名前をつけることによって、彼女は「最後に私は大きく笑うことになる」と強い自己催眠を 試みたのではないか。過去30年間彼女は、平素から尊敬してやまなかった故国の小説家、パク・キョンリの作品 『土地』のように、広大な土地を思い描いてきた。
女はドイツのブレーメン国立芸術大学校の作曲科主任教授と
ヒは「ヨンヒ、パク・パアン」という名前で西洋の作曲世界で
して任命を受けた。ドイツ語圏において最初の女性作曲家で
堂々とその名を知らしめるるようになる。やがては、多くの
ある。「世界の綺羅星のような作曲家らが志願したが、我々
作曲家らの憧れである世界の主な音楽祭での受賞と委嘱の回
の中にパク・ヨンヒの選択に異見がなかった。自己の音楽世
数が度重なり、現在に至る。
界に対する彼女の確固たる論理は審査委員全員を感心させ
〈 ヌ ン( 1 9 7 9 )〉、〈 マ デ ィ( 1 9 8 1 )〉、〈 ピ ョ ン ギ ョ ン
た」と、音楽学者兼ブレーメン国立芸術大学の名誉教授であ
(1982)〉、〈ノウル(夕日、1984/85)〉、〈二ム(1986/87)〉、〈黄
る音楽学者、ニコラス・シャールツの言葉だ。
土(1988/89)〉、〈心(1990/91)〉、〈私の心(1996)〉、〈願い 事(1995/96)〉、〈コウン二ム(1997/98)〉、〈願い事…見る
心の音
(1998)〉などの代表作からも分かるように、彼女は韓国語の
1945年生まれのパク・ヨンヒはソウル大と同大学院を卒
タイトルを通じて自分の心の音を五線の上に綴っている。度
業し、1974年にドイツ政府のDAAD奨学生として選ばれて遅
重なる委嘱曲を仕上げなければならないプレッシャから一時
いドイツ留学の途に付いた。フライブルク大学でクラウス・
も自由になれない心と体、遠くに故郷を眺めながら行けない
フーバー教授に師事し、韓国人として初めて作曲と音楽理論
切なさ、一人で9人兄弟を育て上げた母の面倒を見たくても
分野で同時に学位を取得した。
叶わなぬ事、その思いのすべてを彼女はもっぱら五線上に表
彼女は1978年に、弦楽3重奏とクラリネットのための
現するしかなかった。
〈出会い〉で、ボースヴィル作曲コンクールで優勝し、現代音 楽界に早くもデビューした。翌年の1980年には、世界で現代 音楽における最高の舞台といえるドナウエッシンゲン現代音
「大きな笑い」の境地 彼女は芸名であ
楽祭から委嘱された管弦楽曲の〈音〉 (1979/80)が大成功を収
る「パアン」と本名
め、現在まで彼女の作品を出版しているリコルディ出版社と
を自分だけのやり
正式に契約した。
方で結合させたヨン
管弦楽曲の〈音〉はパク・ヨンヒが学位を取得するため に、学校に提出した卒業作品である。当時韓国は、光州民主 化運動で混乱していて、ドイツでもその惨状を収録したフィ ルムを毎日のように報道していた。その大きな叫びを 韓国人の感性で表現したこの作品は、世界の 舞台で熱い反応を受けた。学校を 卒業したその時からパク・ヨン
作曲、演奏者とのコミュニケーション、演奏 指導などで忙しい彼女の日常生活をサポートし てくれるもっとも重要な人物は師であり夫である ドイツ作曲界の巨木、クラウス・フーバーさんであ る(3番目の写真)である。
68 Koreana | 秋号 2009
ヒ、パク・パアンと いう名前
を使ってきた。「パアン」は大きく笑うという「破顔」の意味だ
〈月の陰影〉の後
が、哲学者キム・ヨンオク氏から「机の傍の琵琶(琶案)」とい
2006年7月21日、オペラ作品〈月の陰影が、シュトゥッ
う、同じ発音で意味の違う漢字を組み合わせた名前をもらっ
トガルト歌劇場で初演された。「2006 ISCM世界現代音楽
てからは、その漢字を使っている。ところが、芸名が示すよ
祭」の一環で初演されたこのオペラで、彼女の作品世界は大
うにパク・ヨンヒの顔から満面な笑顔を望むことは難しい。
きなターニングポイントを迎えた。ソフォクレスの〈オイ
彼女の音楽からは尚更である。彼女の音楽はハン(恨)の音
ディプス王〉を素材にしたこの作品は、パク・ヨンヒの音楽の
楽、苦痛の音楽と評価されるように、彼女の音楽に盛り込ま
テーマとなる「異邦人、疎外感」を理解する鍵となる。音楽評
れている生の深さは計り知れない。
論家のマックス・ニフェラーは 「2006年の 〈月の陰影〉 以来、急
彼女をよく知っていると自負するヨーロッパ人らは彼
激に展開されたパク・ヨンヒの音楽世界の変化に我々は驚か
女について「生き残るために、生存するためにドイツにやっ
された。(中略)彼女の音楽はdas EigeneとFremde、つまり、
てきたでしょう」という。彼女が作曲家として活動し始めた
自分自身固有のものと、異質的なものをテーマにしている。
1970年代末、80年代初めの韓国の状況は民主化の過程で厳し
彼女が作品を通じて見せている韓国音楽の世界は素材や技法
い闘争を繰り返していた。彼女は幼い時に戦争を経験し、大
の域を乗り越える深い精神的なものである」と評価した。
学生になっては現代史における様々な政治的状況を実経験し た。貧しさからの脱却、芸術表現の追及、女性解放を強く望 む内面のもがきが西欧への脱出に繋いだと理解されて当然で あろう。
彼女にとって初めての舞台音楽でもある〈月の陰影〉か ら現れた精神世界とは何であろう。 彼女は特別に哲学者のハン・ビョンチョル(韓炳哲)氏に 台本を部分的に依頼して、作品の中に道教哲学を盛り込むこ
自ら名づけた「パアン」は、数十年後を見越して付けた
とを試みた。第6章に出てくる「生まれざる存在」という台詞
名前だったかもしれない。「最後は私は大きく笑うことにな
から読み取れる、人間の生と死、罪と追放という重いテーマ
る」と、自分の未来に対して自ら強く催眠をかけたのである。
を彼女独特のやり方で昇華させている。「人生とは葉の先に
彼女が到達した笑いの境地は一体何であろう。彼女は平素か
ついている露のようなもの。鳥が突くと弾けてしまう露のよ
ら深く尊敬していた韓国の小説家、故パク・キョンリみたい
うなもの」という台詞で終わる90分もののこの音楽劇に盛り
に、広大な土地を思い描いてきた。自分だけの土を耕してき
込んだ彼女のメッセージは東洋の考え方をもって観照する人
た彼女の深いスケールは、今や東と西を一つ
2
生であるのだ。
に結び付けて自分だけの
〈月の陰影〉以来、彼女は韓国カトリック史上二番目の
芸術世界を創り上げた
司祭であるチェ・ヤンオプ(崔良業)神父の書簡集に大きな感
のだ。
銘を受けて、宗教曲の作曲に取り組むようになる。2007年作 の〈私が皆に居る〉、同年の〈神様、見てください、我々の悲 嘆を見てください〉、〈光の下に居よう〉などが最近の作品の 一連である。 退任が近づいた彼女の作曲の歩みがこれまで取り組んで きたこととは全く異なる光の世界に向かったのは実に嬉しい ニュースである。さらに、彼女がこれから故国に 貢献したという夢、さらに、願い事を 聞いて、やっと自らつけた名前が ぴったりと思って納得する。彼女は 「田舎のどこへでも子供達の歌声が響き
© Nikolai
Wolff
渡るように、全国の子供合唱団を後援し たい」という望みを語ってくれた。彼女の 素朴な外見と微笑み。それが子供達と一緒 になって韓国の地で満開する日を期待する。 秋号 2009 | Koreana 69
オン・ザ・ロード
長興 文学を愛する人々の都市 長興は今も昔も変わらぬ、すべてがのんびりとした街で、時がゆっくりと流れてゆく「スロー シティ」だ。韓国で唯一、文学観光紀行特区という肩書きを持つ、いわば「文学」が地域の産物 になっている都市でもある。 キム・ヒョンユン(金熒允、エッセイスト)| 写真 : アン・ホンボム (安洪範)
長興邑平化マウル(村)のメタセコイアの道。遠くに見えるのが長興の代表的な文人である、 小説家ハン・スンウォン(韓勝源)さんだ。 70 Koreana | 秋号 2009
秋号 2009 | Koreana 71
興宝林寺の庭は整然として静
一柱門を過ぎ、四天王門を通り抜
外国人女性が少なくない。私は外国人
かだった。初夏の早い朝、さ
けると庭にでる。左に大寂光殿、右に
の目に映った長興がどんなところか知
わやかな陽光の下で鬱蒼とし
大雄宝殿が位置する広々とした庭の真
りたくなり、その中の一人、日本人女
た樹木のむせるような青臭さと庭の白
ん中には冷たく澄んだ水の湧き出る泉
性の山崎奈緒子さんを訪ねた。彼女は
土の白さが美しい調和を成していた。
がある。大寂光殿と大雄宝殿の堂々と
自分の第2の故郷となった長興で一番
そんな光景の中を、静かに奏でる風鈴
した屋根の稜線は、庭の中央の泉を覆
好きなところとして宝林寺をあげた。
のな音色と風がかすかに舞っていた。
う小さな水閣の瓦屋根にも生かされて
13年前に嫁いで来た彼女は仏教徒では
いる。そして庭は凛とした静寂さに包
ないが、この古い歴史を持つ寺に来る
まれている。バラ、イバラ、つつじ、
と、心を落ち着かせる強い力を感じる
私は四方を山で囲まれた小さな盆
牡丹、芭蕉、サルスベリなどの背丈の
という。
地に位置するこの小さな寺が一目で気
低い木々は泉の近くに、ほおの木、か
に入ってしまった。古刹らしい森閑さ
やの木、紅葉、イチョウ、松、朝鮮も
が俗世を抜け出してきたばかりの私を
みの木など高木は庭の周辺に茂ってい
長興は山が多い。全面積618㎞2の
一瞬にして包み込んだ。統一新羅時代
る。大雄宝殿とその後ろにある禅房と
66%以上が山地だ。宝林寺のある有治
860年に創建されたというこの寺は、千
小さな礼拝室の間にある細長い庭は、
面から始まり南に長く伸び海に至る長
年を越す歴史を誇っている。庭の南西
韓国の伝統家屋の典型的な庭園様式を
興郡は、山が何層にも重なっている。
にある大寂光殿の中に坐像する鉄仏と、
呈している。花木が本来の姿のままに
険しく、鬱蒼とした森の山裾には小さ
前庭の二つの三層石塔と石灯だけが、
育つように、人工的なものを最大限制
な村が点々と続いている。村の前後
戦争中に焼失し新たに建てられたとい
限した空間だ。こけの生えた石の階段
の山の絶壁にはフクロウ、ワシミミズ
うこの寺の遠い昔の面影を物語ってい
に座っていると、ブンブンと飛び回っ
ク、鷹が棲み、谷間にはノロジカとキ
る。特に二つの石塔と石灯は野外で長
ている蜂たちの合唱が、ゆっくり回る
バノロ、イノシシが遊ぶ。
い間、雨風に耐えてきた石だけが持つ
地球の音のように聞こえてくる。
長
千年古刹宝林寺
ずっしりとした美しさを秘めている。
72 Koreana | 秋号 2009
1
長興にもアジア各国から嫁に来た
スローシティ運動
世界スローシティ連盟が最近、有 治面を「スローシティ」に指定した。イ
タリアのオルヴィエートで1999年に
もともと山深い田舎なので産業化の
始まったスローシティ運動は、自然と
滔々とした波もこの地を避けて通って
宝林寺を有する有治面は、長興
伝統を保存しようという生活実践運動
いったようだ。おかげで都会の騒音や
郡の10の市町村の中でも最も北に位置
だ。有治面だけでなく長興全体が時が
煤煙などの文明に汚染されていない自
し、もう一つ有名なのが長興ダムだ。
ゆっくりと流れるのんびりとした都
然の暮らしを享受できる都市となって
10年の歳月をかけて2006年6月に完成
市、スローシティだ。野良仕事は昔か
残った。
した耽津江上流のこの巨大な水がめの
い。
ら村人の生業で、農業をするかたわら
しかし、この山奥の自然は傍目に
おかげで、長興郡に属する全羅南道西
森でキノコをとり、養蚕をし、牛や豚
は安全に見えるようだが、化学肥料と
南部一体の住民が食水と農業用水を安
を飼って暮らしてきた。そのような暮
農薬が土地の健康を害し、生態系にも
心して使えるようになった。
らしは今も変わりは無い。彼らの家は
損傷を与えた。今、そのことに対する
流域面積193㎞2に貯水池面積10.3
相変わらず軒の低いこじんまりした韓
反省が起き、スローシティという名に
㎞2のこの人工湖の湖水面に峰がいくつ
屋で情緒に満ちている。村の中を走る
ふさわしい各種有機農法と循環農法の
も浮いており、趣のある風景を演出し
曲がりくねった道沿いの低い石垣もま
普及が活発に行われている。森から消
ている。しかしその深い水底には悲し
た慎ましく美しい。
え去ろうとしている昆虫、例えばコガ
い物語が沈んでいる。先史時代以来、
韓国は1970年代以後、産業化が進
ネムシやクワガタ、フンコロガシを復
長い間、人間の定住地だったこの一帯
行してきた。穀物を生産していた土地
活させようという取り組みも進んでい
の20の村がこの数年の間に湖底に沈
が工場地に変わり、農作業をしていた
る。土地の力を高めるミミズを育て普
み、2200人が家を捨てて故郷を後にし
人々が都市に出て行った。長興でも多
及することに力を入れている住民も多
たという。
くの若者たちが故郷を離れて都会で新 しい職業についた。一時は14万人もい た人口が今では4万3千人に減ってしま い、長興で育てている牛の数と住民の 数が同じになってしまった。しかし、
1 鉄仏坐像(国宝117号)のある宝林寺大寂光殿 2 奇岩怪石が独特な壮観を成している天冠山の頂上
秋号 2009 | Koreana 73
2
ことができず日本軍の力を借りた。官
る。官軍と日本軍は農民軍に壮烈な最
ここは韓国戦争においてパルチ
軍と押しつ押されつの接戦を繰り広げ
期を与えた。その日の夕方、耽津江は
ザンの悲劇で有名なところだが、その
ていた農民軍は鳥銃と大砲を持った日
無数の屍で覆われ血が川を成して、永
半世紀も前にも東学農民革命という大
本軍が加勢すると急速度で崩壊して
遠に蒼い川と思われていた川面を真っ
きな嵐が吹き荒れた所だ。1894年2月、
いった。一年近く続いた戦闘で農民軍
赤に染めていた。
ここから北にだいぶ離れたコブ(古阜)
はついに指導者をすべて失い敗戦の危
しかし、それで終わりではなかっ
というところで農民が鉄製の熊手とこ
機に陥った。長興はその戦闘の最後の
た。戦闘が終わった後にも連合軍は農
ん棒を手に官舎を襲撃した。その地方
砦となり、南の耽津江沿いの平野がそ
民軍の残党とその家族を最後まで追跡
の腐敗した官吏を懲らしめるのが目的
の舞台となった。
して無残に殺戮した。
パルチザンの悲劇と農民革命
だった。この蜂起が東学農民革命の始
記録によると、平野に集まった農
戦争が無残で残酷であった分、そ
まりだった。その中心には近代韓国の
民軍は3万人だったという。後にも先
の後、官軍の側についた官吏や両班の
民俗宗教で農民主体の人間平等思想に
にも、そんなに多くの群集がこの土地
子孫と、農民の子孫との間には深い溝
基づいた「東学教」の信徒たちがいた。
に集まったことはない。長興は当時、
ができてしまった。耽津江は再び昔の
小さな村から始まった革命は政府軍の
近隣地域に比べて東学教徒が多く、ま
蒼い川を取り戻したものの、そのとき
弾圧にぶつかることで、瞬く間に巨大
た欲深い官吏の横暴も激しかった。そ
流した恨みの血は人間の血管の中をこ
な渦へと発展し、国全体が混乱に陥っ
れがこの山奥の地域が失敗に終わった
んこんと流れ続けた。振り返ってみる
た。政府は自力で暴徒たちを討伐する
革命の最後の舞台となった理由といえ
と、半世紀後パルチザンの悲劇が起き たときにも、その血の記憶が新たな血 を呼んだのかもしれない。そのような 感覚は、この狭い社会で大きな事件が 起きるたびに人々の心を揺れ動かす起
1 安良面岐山マウル(村)の石垣の道
爆剤として作用することが多い。悲惨
2 宝林寺普照禅師彰聖塔(宝物157号)、塔芯には四天王像の浮彫がある。
な出来事から百年の歳月の流れととも
74 Koreana | 秋号 2009
1
海の近くに位置する小説家ハン・スンウォンさんの執筆室の前には、小さな建物が一つ建っている。長興郡庁が彼に贈った家だ。 文学を愛する人々と話をかわしたり、講義をするようにと、贈られたものだ。
に世代が代わり、人々の記憶から薄れ
川が静かな川だとは思っていない。
ても“未だ終わらす”と信じている長興
東学農民革命と韓国戦争の記憶が
の人々が少なくない。しかし、昔のこ
物語るように、この川は悲しい歴
とは忘れようという雰囲気が熟してき
史を抱いて涙のように流れている
たのか、最近では 「和解」 や 「容赦」 などと
川だ。農業に頼るしかないものの、
いう言葉をよく耳にするようになった。
肥沃な土地でもない処で代々暮ら してきた貧しく純朴な農夫たちが、
文学公園と文学博物館
長い旱魃と飢饉に流した涙、地主
耽津江は長興の北部から流れて出
の迫害と官吏の搾取に身を震わせ
て長興ダムに合流した後、南下してこ
て流した涙、そして歴史の桎梏に
の郡内で最もにぎやかな長興邑の真ん
縛られ無数に流した無念の血。こ
中を悠々と流れていく。ここから川幅
の地域で東学教徒の息子として生
は100メートル前後になり、深さは大
まれ70年を生きてきた小説家ハ
人が飛び込んでも首までつからない程
ン・スンウォン(韓勝源)さんは、自
度だという。日本から嫁いだ奈緒子さ
分の文学はこの故郷の苦難と険峻
んは宝林寺の次にここの川辺が好きだ
な歴史にルーツをおいているとい
と言う。
う。彼は海の近くの安良面の栗山
私は長興で二晩泊まり、その間毎
村で暮らしている。裏山から採っ
朝この静かな川に出かけてみた。大人
て来た茶の葉を手ずから煎るとい
の太ももほどもある大きな鯉が黄金色
う賢い細君の見守る家から少し離れた
16世紀の詩人ペク・グァンホン(白光
の魚体をひるがえして水面に跳ねた。
ところに、彼の執筆室がある。そして
弘)と18世紀の実学者で何篇もの農民
早くから目を覚ました住民たちは水霧
その執筆室の前にはこじんまりとした
詩を書き残したウイ・ペクギュ(魏伯
の立ち込める川辺を散歩したり、ジョ
建物がもう一軒ある。長興郡庁から彼
珪)の系譜を受け継いでいると考えて
ギングしたりしていた。白鷺が多かっ
に贈られた家だ。文学を愛する人々と
いる。住民の数に対して文人が多く、
た。川の中ほどにある堰(せき)やスス
話をかわしたり、講義をするように
現在80人の詩人と小説家が活動してい
キ林の近くの水中に足をつけたまま羽
と、贈られたものだ。
る。現存する中堅作家としてはソン・
2
ギスク、イ・スンゥ、ハン・スンウォン
を休めて思索に陥っているかと思え
長興郡は韓国で唯一、文学観光
ば、次の瞬間にはサッと軽やかに飛び
紀行特区という肩書きを持つ。いわば
があげられる。長興郡はこの三人に、
あがり空を舞っていた。私はその平和
「文学」を地域の産物にしたというわけ
昨年亡くなったイ・チョンジュンを加
だ。そのためあちこちで作家の生家が
えた四人を代表的な文人としており、
耽津江は長興邑内を通り過ぎて
保存されており、復旧事業も行われて
ここが文学の故郷であることを広く知
億仏山の麓に至ると西南に方向を変
いる。また文学の道を作り、この一帯
らせている。
え、隣の唐津郡に向かう。こうして南
で最も美しい山といわれる天冠山の麓
ソン・ギスク(宋基淑)とハン・スン
海の海に抜けるまでの51.5キロの道程
には文学公園を造成し、文学博物館を
ウォンは東学農民革命を小説の素材と
を、耽津江はひたすら静かに流れてい
建てた。
して扱った。二人の文学世界は、韓国
な風景に酔いしれた。
く。しかし、多くの長興の人々はこの
長興の人々はこの地域の文学が、
農民の生に投影された社会的な矛盾を 秋号 2009 | Koreana 75
76 Koreana | 秋号 2009
1
鋭利な問題意識をもって眺めていると
の海を抱いてはいるものの、近くの島
いう点で似ている。イ・チョンジュン
に渡る以外は遠くに行く船もない。こ
(李清俊)は都市の暮らしにより関心を
の土地の海は耽津江がそうであったよ
示して、人間に対する抑圧とそれに対
うに、非常に静かだ。高興半島という
する個人の反応を繊細に描きだした。
長く大きな土地が天恵の防波堤の役割
3人よりも20年ほど若いイ・スンゥ(李
をしているからだ。この海は静かなだ
承雨)は人間の存在論的な問題を提起す
けに海産物を生産するのにも怠け者だ。
る作家だといえる。ノーベル文学賞を
ハモとマダコが比較的多く捕れ、干潮
受けたフランスの小説家ル・クレジオは
の時に現われる広々とした干潟が貝を
ノーベル賞を受ける可能性のある韓国
たくさん育んでいる。
の作家の一人だと彼の名前を上げた。
ソウルの中心地から真南に一直線
天冠山文学公園には韓国の代表的な文
に線を引くと長興に達する。それで長
学作品の精髄となる一文が作家紹介と
興郡庁は自分たちの海辺を「正南津」と
ともに彫られた大きな岩の文学碑が長
いう新しい名前で呼んでいる。観光客
い散歩道にそって建てられている。山
がたくさん訪れる江原道の海岸、正東
裾を一回り歩く間に韓国文学が自然と
津のように外地の人々がここの海を見
頭の中に入ってくるような仕組みだ。
にたくさん来てくれるようにという願
文学博物館には長興出身の文人の作品
いが込められている。彼らの希望のよ
世界が詳しく紹介されている。作品を
うに今後、長興を訪れる人々が増える
直接探して読んでみることのできる図
ことは間違いない。
2
書館とセミナー室もある。
海を求めてやって来る人々は、私
1 冠山邑傍村里の存斎古宅(重要民俗資料第 161号)、実学の先駆者である存斎ウイ・ペ クギュ(魏伯珪:1727~1798)の生家だ。外 の庭には蓮池がある。 2 冠山邑傍村里の伝統文化マウル(村)に立つ 石のチャンスン(村の守護神) 3 長興出身の小説家イ・チョンジュン(李清 俊)の小説を映画化した「祝祭(1996年)」の ロケ地として有名になった長興郡蓉山面南 浦
がそうだったようにこの町ののどかな
チョンナムジン(正南津)という
風景に魅了されるだろう。ここは過ぎ
新しい名前
去った時を偲び、静かに自分自身を振
長興は汽車が通わず、バスが外部 に通じる唯一の公共交通手段だ。南海
り返るのにうってつけの場所であり、 なかなか得がたい空間だ。
秋号 2009 | Koreana 77
3
料理
78 Koreana | Summer 2009
ト
ランクック(サトイモ汁)は、
材料の特色と歴史
東南アジアの熱帯地域だと推察される。
主にソウルと京畿地方で食べ
サトイモは熱帯温帯地方でよく栽
韓国では鎮州を中心に南部地方で多く
られている秋夕の代表的郷土
培されており、低層の湿気の多いところ
栽培されてきたが、最近になり京畿道
料理だ。トラン(サトイモ)は胃腸の活
でよく育つ。もともとは高さ80cmから
光州、利川、金浦、全南光州などでも
動を活発にして消化を助ける食品だと
120cmくらいの植物の大きな球根を収穫
栽培されている。
いう点でも、またいつもより、脂っこ
して食用にしたのがサトイモの始まりだ
韓国にいつサトイモが伝来したの
い食事の多い秋夕の食膳にサトイモ料
という。肉厚で楕円形の葉は長さがおよ
か、韓国人がいつ頃からサトイモを食
理が上ることはとてもバランスが良い
そ30cm~50cm、幅が25cm~30cmほど
べ始めたのか、確かなことは分からな
といえる。全羅道地域ではトランタン
にもなり、田舎では子供たちが雨が降る
い。ただ、『郷薬救急方』 (1236)をはじ
と、傘代わりに利用したものだ。
めとする高麗時代の書籍にサトイモが
(土卵湯:サトイモ汁)と呼ばれ、慶尚 道地域ではトランタンを祭祀のお供え
サトイモはTaroまたはCoCoyam
登場することからみて、少なくとも高
と呼ばれ、学名はCaocasiaだ。この学
麗時代(918~1392)にはサトイモが広
韓国料理で「タン(湯)」は 「クック
名はアラビアに由来したもので、食物
く食材として使用されていたことが分
」の丁寧語としても使われるが、言わ
(colon)と装飾(casein)の合成語だとい
ばクックはいろいろなおかずを取り
う。根は食用とし、花は装飾用に使わ
揃えた食事と共に出される汁料理で
れることから由来した名前だ。
ものとして使うところも多い。
あるのに対して、タン(湯)は一品料 理の概念だ。
サトイモの原産地はインド東部か らミャンマー、マレー半島、中国南部、
かる。
成分と効能 サトイモは昔 から体の熱を下
秋夕に楽しむ健康食
トランタン
初物のトラン(サトイモ)で作るトランタン(土卵湯:サトイモ汁)は、新米で作ったソンピョン(松餅)と並 び秋夕(旧暦の8月15日)の代表的な料理だ。エゴマを入れたスープでどろっと仕上げる方法と、澄んだ スープの二つの作り方があるが、今回はいろいろな海産物を使った澄んだスープのトランタンをご紹介 しよう。 シム・ヨンスン (沈暎順、沈暎順料理研究院長、『最高の韓国の味』の著者) 写真 : アン・ホンボム(安洪範)
海産物から取った出汁にいろいろな海産物 を入れ、澄んだ汁に仕上げたトランタン (サトイモ汁)とその材料 秋号 2009 | Koreana 79
トラン(サトイモ)はアルカリ性食品なので肉食中心の食卓のバランスをとるのに最適だ。また消化もよく、いつもより脂っこい 料理に偏りがちな秋夕の食卓にはピッタリだといえる。
げ、胃腸の運動を活発にし、炎症を抑
ぷんが大部分で、デキストリンと砂糖
え痛みを沈静させる薬用食品として利
も入っており、これがサトイモ特有の
用されてきた。またサトイモはアルカ
甘味を出している。その他、たんぱく
リ性食品なので肉食中心の食卓をバラ
質、脂肪、繊維質、糖質と燐、塩分、
ンスのとれたものにし、利尿効果にも
カルシウム、カリウムなどの無機質や
優れている。さらに天然の睡眠剤成分
ビタミンC、ビタミンB1、B2なども含
のメラトニンが多く含まれており不眠
まれている。サトイモの薬用効果をよ
症にも良いという。
り高めてくれる食品が昆布だ。昆布は
サトイモのヌルヌルとした粘液で
その中に含まれているアルキンとヨー
あるムチンは糖とたんぱく質の複合体
ド成分がサトイモに入っている水酸石
で、肝臓と腎臓を丈夫にし、老化防止に
灰(水酸化カルシウム)と有害成分の体
も役立つ成分で、たんぱく質の消化を促
内への吸収を抑制し臭いをなくしてく
進し細胞の活性化を助ける。ムチン成分
れる。昆布のこくのある味がサトイモ
は炭水化物の体内への吸収を遅延させる
の味をソフトにしてくれる。
ので熱量の過剰蓄積を抑制する効果もあ る。また、飲みすぎや食べすぎによる下 痢や腹痛の予防・治療にもよい。 サトイモの主要成分は糖質とでん 80 Koreana | 秋号 2009
大きくて肉厚なサトイモの葉。油でさっと炒め てご飯を包んだ食べたり、切って炒めて食べ る。
茎と葉 サトイモは栽培にあまり手がかか らない作物だ。春に植えれば涼しい秋
サトイモには前に述
風の吹く頃には収穫できる。皮を剥か ずにそのままにしておけば長く貯蔵で
べたように水酸石灰成分
きる。サトイモの茎と葉は昔から、皮
(シュウ酸カルシウム結
を剥ぎ乾燥させたあと貯蔵し、生野菜
晶)が含まれている。サ
が手に入りにくい冬場の食材料として
トイモ特有の若干のえぐ
使われてきた。乾燥させたサトイモの
味や渋みの原因もこの成
茎は必要な時に水に戻してから茹でて、
分にある。調理の下ごしらえ
さらに調味料とともに炒めたり、ユッ
の際に米のとぎ汁で茹でると、米
ケジャン(牛肉の辛いスープ)やチュオ
のとぎ汁に含まれている燐脂質とたん
タン(どじょう鍋)のようなスープの材
ぱく質が水酸石灰およびその他の有害
料としてよく使われている。乾燥させ
成分を中和する。玉ねぎ、長ネギ、ニ
る前の新鮮なままでのナムルもおいし
ンニクなどの香辛料を入れて茹でると、
い。大きくて厚いサトイモの葉も切っ
野菜の香りがサトイモ特有の臭いを抑
て茎と同じように炒めて食べたり、油
えてくれる。 汁半分、具半分というように具沢
でさっと炒めてご飯を包んで食べたり もする。
海産物と野菜を別々に食用油で炒めていると ころ。野菜には玉ねぎとニンニクの汁を入れ て炒める。
山で煮て、汁のしみ込んだ具の美味し さを味わうのがタン(湯)で、韓国のス
下準備と料理
-プ料理の魅力だ。一般的にトランタ
サトイモの皮を剥く時にはビニー
ンはエゴマを入れたスープでどろっと
ル手袋をするように。素手で触ると皮
するが、これはエゴマの香りがサトイ
膚にアレルギーがおき、痒くなること
モ特有の臭いを消してくれるからだ。
がある。そのような場合には塩水で洗
ここではいろいろな海産物を入れて作
うと簡単におさまる。
る方法を紹介しよう。
トランタンの料理の仕方 材料
2 海老は皮のついたままでさっと茹でて皮を剥き、食べやすい
サトイモ300g、大海老3匹、なまこ1匹、アワビ1個、たけのこ
大きさに切る。水にもどしたナマコも食べやすい大きさに
1/4本、なつめ5個、栗5個、キノコ2個、青唐辛子2個
切り、アワビは厚くおろす。これらの材料をそれぞれ醤油と
玉ねぎ、長ネギ、ニンニク、薄口醤油、濃口醤油、だし汁(昆
塩、玉ねぎの汁、ニンニクの汁を少しずつ入れてサラダ油で
布、乾燥海老、煮干からとったもの)、ごま油、
炒める。 3 たけのこは四方4cmの大きさに薄く切り、椎茸は分厚く切っ
料理方法 1 サトイモを玉ねぎ、長ネギ、ニンニク適量とともに茹でたあ
て青唐辛子は4等分して、玉ねぎとニンニクの汁を入れてサ ラダ油でさっと炒める。
と冷水で洗い、食べやすい大きさに切って薄口醤油(韓国醤
4 栗は茹でて皮を剥き、なつめは種をとって半分に切る。
油)小さじ1、濃口醤油小さじ1、だし汁カップ1/2、ごま油小
5 土鍋にスープを入れて煮立ったら、すべての材料を入れて
さじ1/4を入れて煮る。
さっと煮立てて清酒、塩、醤油で味を整えてだす。
秋号 2009 | Koreana 81
遠くの目
「日韓議員連盟」について 日韓間には、残念ながら過去の歴史認識、竹島(韓国名獨島)及び慰安婦等の問題が あり、誰かが火をつけるとどうしても両国のそれぞれの立場を表明せざるを得ない 状況が、これまで度々起こって来ました。この問題をできるだけ円満にかつ早急に 収拾し、両国関係を正常な関係に戻すことが大切です。そのため、議連も相当の努 力を傾けざるをえないことが度々あり、それなりに貢献を果たしてきたものと思わ れます。 さいとう・あつし(斎藤篤、日韓議員連盟事務総長)
日
韓議員連盟は1972年に「日韓議員懇親会」との名称で発足して以来(3年後の1975年に 名称を現在の「日韓議員連盟」に改称しました)、今年で37年を迎えました。今般、本 誌からスペースをいただいたので、この機会に「日韓議員連盟」 (以下議連)の紹介を
させていただこうと思います。 先ず、会員は現役の衆参国会議員で自由民主党(210人)、(2009.3.31. 現在。以下同 じ)、民主党(55)、公明党(29)、国民新党(3)、改革クラブ(2)、社会民主党及び大地(各1)、 合計306人 (衆院議員233、参院議員73) で構成され、各会員からの会費で運営されております。 1975年議連正式発足当時の初代会長には日本側船田中先生(75/6-)、韓国側金鍾必先生 (76/8-)が就任されました(以下敬称略)。その後の両国の会長人事は以下のとおりです。日 本側は、79/5→春日一幸会長代行、(以下会長)81/6→安井謙、86/8→福田赳夫、90/3→竹 下登、00/9→伊藤宗一郎、01/11→森喜朗(現在に至る)。韓国側会長は、80/2→丁一権、80/ 11→朴泰俊、81/4→李載灐、85/4→権翊鉉、88/9→朴泰俊、93/2→金在淳、93/4→金潤換、 98/2→朴泰俊、00/7→金鍾必、04/7→文喜相、08/11→李相得です。本年3月31日現在の役 員構成は、以下のとおりです(( )は韓国側)。会長森喜朗(李相得)、幹事長額賀福志朗(田麗 玉・李洛淵)、運営委員長河村建夫(金泰換)、安保・外交委員長船田元(鄭柄国)、経済・科学技 術委員長中井洽(鄭斗彦)、社会・文化委員長中曽根弘文(姜昌一)、21世紀委員長谷本龍哉(鄭鎮 碩)、在日韓国人地位向上特別委員長冬芝鐵三(宋永吉)です。 活動内容は、合同総会及びそれに先立って開催される合同幹事会を毎年日韓相互に輪番 で開催し、両国議員間で当面する日韓両国間及び国際的問題等について討議・意見交換等を行 い、総会の内容を総括した共同声明を毎回発表しています。これまで33回開催しました。ま た常任分科委員会として、「運営委員会」を始め「安保・外交、経済・科学技術、社会・文化、21世 紀、在日韓国人地位向上特別委」の6個の委員会があります。当然のことながら上記合同総会、 合同幹事会及び各分科委員会の活動のほか、日常的な交流や特に問題が生じた際には、必要
に応じ随時そのための特別な委員会を構成するなど、積極的に推進しており、日韓の問題に 限らず、国際的問題についても活動を行っております。 日韓間には、残念ながら過去の歴史認識、竹島(韓国名獨島)及び慰安婦等の問題があ り、誰かが火をつけるとどうしても両国のそれぞれの立場を表明せざるを得ない状況が、こ れまで度々起こって来ました。この問題をできるだけ円満にかつ早急に収拾し、両国関係を 正常な関係に戻すことが大切です。そのため、議連も相当の努力を傾けざるをえないことが 度々あり、それなりに貢献を果たしてきたものと思われます。 しかしながら、より前向きな活動も積極的に行ってきております。最近の活動の具体例 では、議連の傘下に「朝鮮通信使交流議員の会」を結成(06/9)、「日中韓子ども童話交流」への 支援(06/8)、「日韓友情年」への協賛(05)、宝塚歌劇団韓国公演への協賛(05/11)、「韓国シ ルム(相撲)日本大会」開催への協賛(05/10)、広島交響楽団韓国平和記念公演への後援(05/ 10)、芸術議員連盟・国際芸術文化振興会主催「政経文化画人展」への協力(05/8)、「日韓国交 正常化40周年国際学術会議」への参加(05/6)、「日韓対抗中高生ゴルフ選手権大会」後援(05 /4-)、日本大相撲韓国公演への協賛(04/2)、21世紀委員会傘下に「韓国を理解するプロジェ クトチーム」を設置(03/7)、ミュージカル「つばめ」 (日韓国民交流年記念作品)公演への協賛 (03/3)、李秀賢さんを追悼する各種行事への協賛(01/1-)、日韓国会議員親善サッカー大会 の開催(98/10-)、議連国会議員夫人の相互交流(84/10‐)、また、在日韓国人団体などの活 動への側面的協力等々、幅広い活動を行ってきました。 最後に事務局から大変僭越ですが、両国の国会議員の先生方は、お気の毒な程極めてご 多忙にされているにもかかわらず、その中で大変ご熱心に日韓間の親善友好信頼関係の増進 に常にご努力をいただいておりますが、最近大いに雰囲気も変わりましたので、今後ともご 健康に十分留意され、できるだけ多くの機会に相互信頼関係の増進のため交流等をより深め ていただければと存じております。有り難うございました。
暮らし
84 Koreana | 秋号 2009
新しい旅への 提案-田舎の古家体験 韓国の伝統家屋である韓屋、中でも宗家の古家で一晩を過ごす「体験プログラ ム」が韓国人の間で人気を得ている。昔ながらの家屋の構造がそのまま保存さ れている家は、ソウルでも目にすることができるが、実際に人々が居住して いるところは多くない。人々の息遣いが感じられる伝統韓屋を体験するため には、ソウルを離れて地方都市または田舎を訪れなければならない。 ナ・スホ (那秀昊、韓国外国語大学校 通訳翻訳大学院教授) 写真 : アン・ホンボム(安洪範)
初
夏、瓦屋根に雨滴が落ちると雨音の演奏が始る。障子戸を開いて、雨滴 が軒先を伝って庭に落ちる清雅な音に耳を傾ける。どこからともなく カッコウの泣き声が聞こえ、雨音は寂しくて優しく聞こえてくる。煙突
からは白い煙が立ち昇り、焚口で焚かれている薪はオンドルを暖めてくれる。今 私は古家のこじんまりとした素朴な部屋の中にいる。たった一日だけであるが、 実際に古家での生活を体験している。
誇らしい伝統が伝わる古家 韓国社会が急速な発展を成し遂げ、近代化の一途を辿ってきた中でもこのよ うな古家を温存させた力は韓国の儒教文化である。儒教の徳目の柱といえば親孝 行の思想である。親を敬うという精神は世界どこでも同じであろうが、韓国のそ れは親が亡くなった後も続く。祖先に対する祭祀の義務は長子から長子へと受け 継がれるが、この伝統を守っている家元を「宗家」といい、韓国で原型が残ってい る古家の多くは宗家であるケースが多い。 朝鮮時代(1392~1910)の宗家の場合、広い土地を所有していて、その土地を 貸して大きい家を維持しながら、祭祀の義務を果たすことができた。しかし、20 世紀半ばに行われた土地改革によって、宗家の多くは主な収入源を失って衰えて いった。新しい生活を求めてソウルなどの大都市に出て行った家もあり、故郷に 住み続くものの、家や家族にとって過去の栄華は色あせたものとなってしまった。 最近になって韓国政府は、この貴重な遺産の復旧に取り組む一方、離れ離れ 忠清南道論山の尹拯古家の舎廊 の居間に出てきて周辺の風景を 鑑賞している宿泊者。
になった子孫たちが故郷に帰ることをサポートしている。現在彼らは訪問客を受け 入れて、古家に滞在できる機会を提供する一方、伝統的な遊びや食べ物、昔ながら 秋号 2009 | Koreana 85
都市建築空間研究所が去年5月、韓国の成人男女1007名を対象にアンケート調査を実施した結果、韓屋での生活を希望する理由と して大多数の人が「自然へのアクセスの良さ」、「健康にいいから」、「安定感」などを上げた。なぜ人々は、韓屋の魅力に惹かれて いるのだろうか。
の生活ぶりが体験できる文化プログラムも提供している。
け継がれてきた食べ物や服飾、建築様式などの文化の有りよ うを観察できる機会を与えている。ある古家の場合は、損な
古家の趣 韓国観光公社は古家に関する情報を提供する韓国語 ウェブサイトを運営しているが、全国にある68か所の古家の 中で39か所が慶尚北道に位置している。これは慶尚北道が特
じて、大都市の子供たちにとってはめったに接することのな い植物・動物や昆虫が観察できる機会も提供している。 古家ならではの魅力を求める韓国人が年を追うことに
に儒教文化を重んじている所以である。古家の多くは伝統的
増えている。現代の都会人にとって韓屋滞在のメリットは、
な朝食を提供する他、茶道体験、陶磁器制作、様々な伝統遊
複雑で息苦しい都市環境から離れて自然と共にあった古き
びなどの文化体験プログラムを運営している。さらに、中に
良き時代にタイムスリップできる点である。都市建築空間
は祖先への祭祀を直接参観する機会を提供し、その宗家に受
研究所が去年5月、韓国の成人男女1007名を対象にアンケー
86 Koreana | 秋号 2009
1
われていない自然環境を生かして、自然観察プログラムを通
1 尹拯古家の母屋の裏山の日当たりの良い場所に あるチャンドク台(醤油甕や味噌甕などの置き 場)。代々受け継がれてきた宗家ならではの醤油 の味の秘密が潜められている場所である。 2 慶尚北道榮州のソンビ村で伝統染色体験プログ ラムに参加した宿泊客。ソンビ村は榮州にある 12棟の古家を原型通りに再現した文化・歴史テー マパークである。
ト調査を実施した結果、韓屋での生活を希望 する理由として「自然へのアクセス性の良さ」 (35.5%)、「健康にいいから」 (27.0%)、「安定 感」 (23.5%)などを取り上げた。慶尚北道安東 のイ・マンヒョン(李晩鉉)古家に滞在したある 人からは「静かな古家で一晩を過ごしたら、複 雑だった頭の中が静かになり、心配事を忘れ て心が軽くなりました」という感想がかえって きた。 また違う目的で古家を訪れる人々もいる。 慶尚北道春陽のクォン・チョルヨン(権喆淵)家 に滞在した30代の二人の女性は、会社を辞め た後、日常生活の中で失いかけていた何かを発 見するために、十日間の日程で何か所の古家に 滞在しながら文化経験を楽しんでいた。また、 韓国の伝統文化を学んで経験するための同好会 を組織して、余暇を利用して、文化・歴史的に 重要な地域を訪問する人々もいる。さらに、あ
2
る同好会のメンバーは安東の君子村にある古家 に滞在する間、韓国伝統の音楽や舞踊公演を予 約して観覧した。 ところが、訪問客のほとんどは子供連れの家族単位で
に向けて第一歩を踏み出すことができた貴重な時間でした」 と体験プログラムに感謝していた。
ある。全羅北道全州市の韓屋村を子供連れで訪問していた夫
これら古家が特別な理由は、ただ見せることだけに集
婦は「ここにはやる事が多いですよ。少しの費用で家族がビ
中していない点である。古家は生きている博物館であり、そ
ビンパやモギ餅作りなどを体験できたり、事前に申し込め
の家を建てた人の子孫が今も住んでいる家である。子孫は他
ば、伝統礼節や工芸なども体験できます。教科書の絵でしか
の訪問客と一緒にお茶を啜りながら、家の伝統と自分らの経
見られなかった昔の物、伝統の美しさや大事さを子供たちが
験を分かち合うことにも積極的である。ある初夏の夕、軒
直接体験できた貴重な時間でした」と、教育体験プログアム
先を伝って落ちる雨音を聞きながらクォンさんは語り始め
を高く評価していた。忠清南道論山のユン・ズン(尹拯)家で、
た。彼は、この家を建てたクォン・チョルヨンの曾孫であり、
息子と一緒に一日を過ごした夫婦も「タンポポや名も知らな
人々はこの家をクォン・チョルヨン古家、またはクォン進士
い花々、部屋から眺める美しく小さな庭園、幾何学的な構造
宅と呼ぶ。土地改革以降、家が傾き始め、クォンさんは勉強
の窓格子。すべての物に目を輝かしていたわが息子。世の中
するためにソウルに上京した。祭祀だけは行われていたが、 秋号 2009 | Koreana 87
古家には誰も住まず、16年間も見過ごされていた。 そんなある日、韓国政府は彼に特別な提案を持ちかけ
過去を通して未来に向かっていく イさんは現代社会における儒教価値の重要性を強調し、
た。もし故郷に帰って古家に居住しながら伝統韓屋体験を希
特に皆が幸せになり、個人の利益を考える前に、共同体の利
望する人々に対して家を開放してくれれば、家の修理を支援
益を考えるという大同と仁の基本理念について説明してくれ
するという内容だった。彼はその提案を受け入れ、訪問客を
た。また「我々が21世紀、22世紀に向かって行く中で、世の
受け入れてから今年で3年目を迎えた。初年度の訪問客は50
中を幸せにしていくためにその理念が欠かせないと未来学者
人に止まったが、その翌年には200人に急増した。3年目を迎
らは口を揃えている」と述べた。クォンさんは居間の壁に掛
えた今年はさらに多い訪問客を期待している。
かっている「敦厚家風」と書かれた木の縁を指差しながら「「敦
クォンさは韓国人が古家に惹かれる理由について考え
厚」は我が家に代々伝えられている家訓である」と話した。彼
ることが多い。彼は、何よりも韓国社会の伝統的価値、特に
は貧しい小作農たちが食べ物がなくて苦労していた時に、彼
孝思想のような儒教思想が、今日急速に進んでいる産業化の
の曽祖父が家族に対して食事は一日二回にしろと命じ、倉庫
影響で面影が薄くなっていることに人々が気づくようになっ
の穀物を飢えている農民に振舞ったことをプライド誇りにし
たためだと考える。彼は「ふと子供のしつけにおいて孝の文
ている。
化を強調しなければと思うようになりましたが、これも儒教
他の文化圏でも同じであろうが、韓国は現在、未来を
精神に基づいた考え方ですね。また、政府やマスコミでも古
目指しながらも昔ながらの伝統を守るべきだというジレンマ
家文化について頻繁に取り上げられるようになったことも、
を抱えている。韓国のアイデンティティを抹殺し、日本帝国
古家ブームを後押ししたでしょう」と言い、最近高まってい
に同化させようとした35年間にも及ぶ殖民地時代と朝鮮半島
る古家・宗家体験に対する関心について説明した。
を破壊して50年以上もイデオロギーによって民族を南北に分
李晩鉉古家、または恥厳古宅と呼ばれる古家の主人で
断させた韓国戦争など、韓国の現代歴史は苦痛の歴史であっ
ある李さんも伝統的な儒教の価値に関する考えはクォンさん
た。しかし、韓国戦争後の惨めな貧しさから立ち上がった韓
とあまり変らない。李晩鉉古家は安東市内に位置している。
国は、今や世界で13番目の経済大国となった。この経済的急
安東はかなり前から伝統文化に触れたい人々に人気のある地
成長は「ハンガンの奇跡」と呼ばれる。
域であったため、毎年多くの訪問客が彼の家を訪れている。
ところが、急速な進展にはリスクも背中合わせである。
政府の支援を受けて修理して3年しか経っていないが、毎年
つまり、過去との関係が打ち切られてしまうのである。特に
5000人が訪れる繁盛ぶりである。彼は自分の家を含めた古家
過去の記憶が苦しかっただけに、失われてかまわないと考え
の人気の理由として5つの点を上げた。単なる観光に止まら
られてしまう。しかし、韓国人にとって過ぎ去った日々も保
ず、文化に対する関心の高まり、都会人は接しがたい物事を
存されるべきであり、未来に続く新しい道を開拓することに
子供たちに経験させたい親たちの希望、土日が休日になって
も役立つに違いない。韓国の各自治体はこのことに気づき、
からできた時間的余裕、伝統韓屋の持つ多様性(彼は「古家は
古家と宗家を通じて受け継がれてきた文化に投資し始めたの
それぞれ違う」という)、古家が世代を超えて生き残った背景
である。
に、儒教文化を哉とする伝統文化に対する一般人の関心など である。
もちろん、訪問客が皆古家を訪れた動機を哲学的に説 明できるわけではない。ただ、子供連れの家族単位の訪問客
しかし一方で彼は、今の古家の人気ぶりは氷山の一角
が特に多いことには理由があるだろう。そこに次世代に伝え
に過ぎないと言った。「これまで人々が見てきたのは表面の
るべき価値が存在しているという事実を認識しているのであ
ことであり、より深入りすればその家にはどんな生き方が受
る。人々は近代化への追及も、伝統に対する理解や尊重と調
け継がれているのか、その文化を理解しようとするでしょ
和しなければならないと暗に理解しているのだ。克服すべき
う」という。さらにそうなれば、韓国の古家は過ぎ去った時
過去もあるが、イさんとクォンさんが本当に大事にしている
代の遺物としてだけではなく、生きた伝統文化の様相として
人間的価値のように、大切に保存しなければならないことも
現代を生きる人々から熱い支持を得られることになると予想
多いわけである。宗家こそが、その貴重な伝統の一面をはっ
していた。
きりと物語っている。
88 Koreana | 秋号 2009
キム
ジュン
ヒョク
金重赫 韓国 文学の 旅 © LIM Jong-jin
キム・ジュンヒョク(金重赫、1971~)はキャラクター中心 の韓国小説界においては、あまりお目にかからない新し い領域を探求している作家だ。最初の短編集『ペンギン ニュース』で事物に対するマニア的な情熱を示したかと 思えば、二冊目の短編集『楽器の図書館』では、私たちに とって身近な <人生の意味の追求>という題材を新たな 方法で再構成している。
作家評
新しい倫理を夢見る小説 『楽器の図書館』 シン・スジョン (申水晶、明知大学校 文芸創作学科教授)
1971年生まれの金重赫が処女作『ペンギンニュー
説「無方向バスーリミックス『美しかったポンドク母さ
ス』を発表したのは2000年になってからだ。同年代の
ん』」は副題からも分かるように音楽の「リミックス(既
小説家であるキム・ヨンハ(金英夏)、キム・ヨンス(金
存の曲を別バージョンにすること)」技法を小説の創作
衍洙)、キム・ギョンウク(金勁旭)、イ・ウンジュン、
に適用したものだ。地図、タイプライター、自転車、
キム・ジョングァン(金鍾光)らに比べて決して早いと
オーディオなど、新しい機械文明の登場とともにやが
はいえないスタートだった。しかし2006年に最初の短
て歴史の表舞台から消え去る「事物」に対する彼の愛情
編集『ペンギンニュース』を出版し、2008年に二作目の
もそうだ。
小説集『楽器の図書館』を世に出し、まさに2000年代を
金重赫の短編、例えば『無用の物博物館』や、『エ
代表する作家となった。2008年に「キム・ユジョン文学
スキモー、ここが終わりだ』、『灰色の怪物』、『バナナ
賞」の受賞はその信号弾だった。
株式会社』、『400メートルマラソン』など、ほとんどの
金重赫の小説が韓国小説の典型に近いというわ
作品に事物に対するマニア的な趣向が見られ、キャラ
けではない。むしろ彼の小説の内容と形式は、これま
クター中心の韓国小説界では滅多にお目にかかれない
で私たちが接したことのない新しい類型に属すると見
領域だといえる。韓国の小説は彼の短編でようやく単
るのが正しいだろう。退屈な戦争の続く近未来の日常
純な文明批判の境地を越えて技術複製時代の小説の持
を背景に、その日常の裏で繰り広げられている地下解
つ新しい領域を全身全霊で探査し始めたのだ。
放軍の活躍を描いたデビュー作『ペンギンニュース』
『楽器の図書館』の主人公はある日、自動車事故
は、SF形式の小説の中に真実に対する絶え間ない渇望
にあい体が宙に浮いた瞬間「何でもないままで死ぬの
が溶け込んでおり、先輩小説家の故キム・ソジンの小
は悔しい」という一文が思い浮かぶ。以後、この一文
90 Koreana | 秋号 2009
は主人公の人生を変える決定的な契機として作用して
茶苦茶分類法」が、私たちの人生の「意味」を規定する問
いく。彼は勤めていた会社を辞め、酒を飲み始める。
題においても似たような様相を呈していると述べてい
「何でもないままで死なないためには何かをしなけれ
る。「何でもないままで死なない」ためには私たちは見
ばならなかったが、どこから始めればよいのか分から
慣れた人生の意味を追求する方式を再構成する必要が
なかった」からだ。
ある。主人公が寝食を忘れて楽器の音を録音するのに
ある日、楽器売り場の前を通り過ぎた彼が、バ
熱中するのもそのためだ。楽器とは基本的に音楽を作
イオリン教室を開いている彼女に最高のバイオリンを
るための道具に過ぎない。しかしこの従属変数にそれ
プレゼントすることにしたのは、全くの偶然だ。しか
自体の存在意義を付与するなら、これまで私たちが
し彼がこの偶然の果てに「ムジカ」という楽器店でアル
知っていた音楽は消え去り、見慣れない新しい何かが
バイトとして仕事をすることになるのは、もしかする
登場してくるかもしれない。もちろん、この方式がす
と必然だったのかもしれない。彼はすでに以前の方式
べてに当てはまるわけではない。ある人にとってはこ
どおりに生きて行くことはできない人生のある瞬間を
の方式は「キチガイ沙汰」に見えるかもしれない。主人
過ぎてしまっていた。今や、彼に残された人生の方式
公の彼女の場合がそうだ。彼女は彼が楽器の音を録音
は他人の基準や世の中の常識のようなものに巻き込ま
するのに没頭した瞬間、彼から去っていく。誰も人生
れる性質のものではない。彼は彼自身の力で何でもな
の意味を一つに確定することはできない。しかしこれ
いままで死なないために何かをしなければならないの
だけは確かだ。楽器がそれぞれ独自の音色を持ってい
だ。
るように私たちもまたそれぞれの意味を追求して生き この小説は私たちが当然だと信じていること、
少しの疑いもなく真実として受け止めている観念や道 徳、美的感覚などを一度ひっくり返してみることをそ
ていくだけだということ。この事実を認めない限り 「何でもないままで死なない」などということは最初か ら不可能なのだ。
れとなく勧めている。例えば、弦楽器、打楽器、管楽
金重赫は『楽器の図書館』を通して、さまざまな
器など楽器の分類に関する主人公のウイットに満ちた
楽器にはそれぞれの存在意義が付与されている、そん
指摘が特にそうだ。主人公は楽器の分類に問題がある
な人生の方式を創造している。楽器の音ジュークボッ
というムジカの社長の言葉に同意を表し、管楽器の「
クス機能を通じて『楽器の図書館』という「文法的にお
管」は音を出すための道具を意味し、弦楽器は弦を振
かしな」事業を繰り広げているこの小説の主人公は、
動させて音をだすものなので、分類上は管楽器とは次
作家によれば最高の人生を享有しているということに
元が違う問題であるようだと意見を示す。同じように
なる。金重赫が夢見る人生の方式がそのまま私たちす
打楽器の「打」は叩くという意味だから、これもまた管
べてが同意できる最善のものだとは言えないかもしれ
楽器や弦楽器の区分とは範囲が違うと付け加える。言
ない。また彼もまたそうしなければならないと強要し
わば、主人公は私たちが常識的に一目瞭然で論理的だ
たりはしないだろう。しかし彼が夢見る『楽器の図書
と考えている楽器の分類というものが実は恣意的で任
館』は逆説とウイットを越え、相変わらず日に日に画
意的なものであることを力説しているのだ。
一化している今日の私たちの人生の核心的な倫理とし
興味深いのはこの楽器分類に関する逸話がただ
て機能していることだけは確かだ。金重赫にとって小
単に音楽の領域にだけ限定されているのではないとい
説とは、私たちがほとんど踏み込まない領域を創造す
うことだ。金重赫はこのとるに足らない無意味な「滅
ることに違いない。
秋号 2009 | Koreana 91
韓国国際交流財団発刊 刊行物 購読/購入情報
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Korean Cultural Heritage
「Korean Cultural Heritage」は、これまでに発行された「Koreana」の記事を主題別に再編集して発刊した全4巻の英文
Fragrance of Korea
「Fragrance of Korea: The Ancient Gilt-Bronze Incense Burner of Baekje」は、造形美において東アジアの古代金属工芸
単行本で、各主題別にさらに詳しい記事と多様な写真を掲載しています。(1巻:韓国の伝統美術2巻:韓国の思想と宗 教3巻:韓国の工芸芸術4巻:韓国人の生活文化) 定価: US$40(送料別途)
の最高峰だと評価されている百済金銅大香炉(国宝第287号)の英文版図録で、図版110ページと「 百済金銅大香炉の 工芸史的意義」 「文化の原動力と多様性:博山炉から百済金銅大香炉まで」 「扶餘陵山里寺址」などの小論文30ページで 構成されています。 定価: US$25(送料別途)