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CHRONOMAT STORY JAPANESE

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TUBB

CHRONOMAT STORY

CHRONOMAT STORY

DIE BISHER UNBEKANNTE GESCHICHTE

VON BREITLINGS ULTIMATIVER ALLROUND-SPORTUHR

© 2026 Watchprint.com Sàrl, Martigny, Switzerland

無断複写・転載を禁じます。この出版物のいかなる部分も、いかな る形式においても複製することはできません。本書に掲載されてい る文章および図版は、Watchprint.com Sàrlが編集目的のみで独自に 選択したものです。Breitling SAはこれらの選定に関与しておらず、 一切の責任を負いません。

ISBN 978-2-940506-71-2

著者:ジェラード・タブ

歴史アドバイザー:フレッド・マンデルバウム

編集:ナターシャ・メカイル

出版マネージャー:アンヌ=リーゼ・エンスミンガー

寄稿編集者:フィリップ・ブルマー コレクションアドバイザー:ラルフ・メスマー

時計撮影:エリアス・ハートマン フォトエディター:シモーナ・ジレラ

リサーチカタログ編集:タニャ・イェドリチュカ、クリストフ・ カインツナー

デザイン:Images3

印刷:Graphius(ベルギー)

時計と宝飾品をテーマにした弊社の出版物については、ウェブサ イト(www.watchprint.com)をご覧ください。

目次 序文:ニコラス・フォークス

第1章:時計誕生の序曲

第2章:誕生の物語

第3章:熱狂の始まり

第4章:継承から自立へ

第5章:再始動

第6章:スクアドロン エディション

第7章:スペシャルモデルとリミテッドエディション

第8章:プライベートコミッションとコラボレーション

第9章:コレクターのツールボックス

謝辞

CHRONOMAT タイムライン

1983年以来、クロノマットはあらゆる角度から改良を重ね られてきました。この年表では、その進化の軌跡を外装・ 内装の両面から辿りますが、一貫性を持たせるため、ステ ンレススチールモデルに焦点を当てています。ストラップ やブレスレットには多様な選択肢が存在しますが、主眼は あくまで文字盤、ケー ス、そしてムーブメントに置いて います。また、掲載モデルはコアモデルのみに厳選してお り、これらは時刻表示、クロノグラフ、日付表示という、 このモデルの機能性を定義づける機能を備えています。

クロノマットの歩みは、初期における一貫性が、やがて新 たな需要や変化するトレンドによって変容し、その後ふた たび原点へと回帰していった過程を示しています。現代の モデルは、クロノマ ットを傑出した存在たらしめてきた すべての要素—卓越性、堅牢性、汎用性—を統合しつつ、 創造性やコラボレーションを体現するキャンバスとしての 役割も果たしています。

フレッチェ・トリコローリ クロノグラフ

イタリアのアクロバット飛行 チーム「フレッチェ・トリコ ローリ」のために開発され、 アーネスト・シュナイダー体制 下のブライトリング復活を牽引 した自動巻きクロノグラフ。

1983 年に軍用規格に準拠して製 造され、1984年に同飛行隊に寄 贈されました。当初は、このデ ザインを委託したプライベート レーベル「DPW」専用モデルで した。

REF. 80950

1987 1985 1984

クロノマット

文字盤の色、ロゴ、ケースバッ クを除き、フレッチェ・モデル と同一の仕様です。 AOPA スタ イルのロゴと、 12 時位置のイン デックスの両側に配された蓄光 のドットを備えたこの仕様は、 1 年未満という短期間のみ製造 されました。ステンレススチー ル製とツートーンモデルで、 計 6 種類の文字盤のバリエー ションが展開されました。

クロノマット

1985 年のカタログより、ブライ トリングの翼とアンカーのロゴ が導入されました。文字盤もこ れに合わせて進化を遂げ、サブ ダイヤルが大型化されるとと もに、 12 時位置の蓄光のドット は廃止されました。その後、 ブルーの文字盤にフレッチェ・ トリコローリのロゴを配した、 DPW社による少数のシリーズが 生産されました。

クロノマット

サブダイヤルにはコントラスト を効かせたリングが配されまし た。このモデルは同年より導入 されたUTCモジュールが搭載さ れています。リファレンス番号 は 1988 年に81.950 、 1989 年には 13047へと変更され、同時にケー ス素材を示すアルファベットの 接頭辞が追加されるようになり ました。

REF. 81950

REF. 81950

REF. 81950 A

成功への執念、一族のヘリ テージを守りたいという願 い、そして正しいことをした いというウィリーの情熱は、 彼にかかる重圧をさらに強め るものでした。

1. 1884年に会社を設立したレオン・ブライトリング。

2. レオンは、モンブリラン通りの工場を他の製造業者や商人たちと共有 していました。当時の慣習に従い、ブライトリングの看板と煙突は彫刻 師によって描き加えられています。

3. レオンの息子ガストン・ブライトリング。1915年、2時位置に独立し たプッシャーを備える最初の腕時計型クロノグラフを考案した人物とし て知られています。

3.
2. 1.

「ウィリーは熟練した時計職人であり、 革新的な創造者でもありました」と、カ スパリは語っています。彼は、戦後の ラ・ショー・ド・フォンで、そして1950 年代初頭のジュネーブで近隣の住人とし て過ごした経験から、おそらく家族以外 で誰よりもブライトリングのオーナーを よく知る人物でした。「彼は、私が知る 限り最も情熱的な人物でした。」

成功への執念、一族のヘリテージを守り たいという願い、そして正しいことをし たいというウィリーの情熱は、彼にかか る重圧をさらに強めるものでした。彼の 脳裏に常に大きくのしかかっていたの は、ラ・ショー・ド・フォンにあるブラ イトリングのモンブリラン工場の存在で した。そこは彼にとって幼少期の家であ ると同時に、プロフェッショナルとして の活動の中心地でもあったのです。

その工場は、 創業から 8年後の 1892年に そこへ移った祖父レオン・ブライトリン グにとって、誇りと喜びの象徴でした。

プティ・シャトー大通りの高台に建つそ の建物からは、田畑と森の広がる景色を 見下ろすことができました。他の時計職 人たちと共有されていたその敷地には、 二棟の堂々たるヴィラが建ち、そのうち 一棟はその後 4代にわたりブライトリン グ家の住まいとなります。

レオンにとって、この場所は自身の地位 と野心の高まりを象徴するものでした。

5 年後に市内に電力網が整備されると商 売は拡大し彼は商業家主としても活動す るようになります。市内でも「最も美し い場所」と称されたその敷地内の倉庫や ワークショップのスペースを、他の業者 に貸し出すまでになったのです。

工場の裏手に新しい道路「モンブリラン 通り」が敷設されると、レオンは社名を 「L. ブライトリング・モンブリラン時計 製造所」へと改称しました。自らの成し 遂げた業績に誇りを感じていた彼は、建 物の版画を制作させました。そこには、 実際には存在しない「レオン・ブライト リング」という看板や、より威厳を持た せるための架空の工場の煙突が描き加え られていました。

レオンは 54 歳で急逝しますが、産業時 代における計時技術革新という大きな 遺産を残しました。 その後を継いだ息 子のガストン は、 2 時位置にスタート・ ストップ・リセット用のプッシャーを備 えた、世界初の腕時計型クロノグラフを 開発しました。しかし、悲劇は繰り返さ れます。ガストンもわずか43歳でこの世 を去ったのです。息子のウィリーは当時 まだ14歳であり、彼が経営を引き継げる ようになるまでには、さらに 5 年の歳月 を要しました。そしてウィリーもまた、 やがて歴史に名を刻みます。独立した第 二のプッシャーを備える構造の特許を取 得し、現代クロノグラフの原型を築いた のです。

思いがけない電話 スイス、グレンヘン、1978年

アーネスト・シュナイダーのように飛行 機を愛する人物にとって、グレンヘンの オフィスほど魅力的な場所はありません でした。壮大な景色と清涼な山の空気に 包まれたスイス・ジュラ山脈の麓に位置 するその街には、彼が所有するビーチク ラフト・ボナンザを駐機できる重要な空 港がありました。飛行士であり実業家で もあった彼にとって、そこは急成長中の 自社シクラにとって理想的な拠点だった のです。

「アーネスト・シュナイダーは、グレン ヘン、ボンフォル、サルヴァン、そして

メラノにある(シクラの)4つの組立工 場を、自家用機で飛び回っています」 と、当時のカタログには誇らしげに記 されていました。「このダイナミック なコレクションのデザインはシュナイ ダー自身の着想によるものであり、主に 16歳から35歳の層から高く支持されてい ます。」

この高価な飛行機は、当時 57 歳だった シュナイダーが、1968年のラ・ショー・ ド・フォンでの会議において、外国勢に よる競争の脅威を説いて以来、自らの手 で築き上げてきた成功のシンボルでし

1. アーネスト・シュナイダーのオ フィスの前には、ジュラ山脈の壮大 な景色が広がっていました。それ は、彼がこよなく愛した自家用機で の飛行にとって理想的な舞台でし た。

2. アーネスト・シュナイダーは飛行 に強い情熱を抱き、アクロバット飛 行のパイロットたちに深い敬意を寄 せていました。 2.

フェデリコ・パロディの登場 イタリア、ジェノヴァ、1979

年

ジュネーブでブライトリング家の時代が 幕を閉じようとしていたその頃、そこ から300キロメートル離れたジェノバで は、ブランド復活の舞台が整えられつつ ありました。

1982年にフレッチェ・トリコローリの門 を叩くことになるイタリア人時計商、 フェデリコ・パロディは海事法の分野で のキャリアを捨て、故郷の街で時計ビジ ネスを立ち上げようとしていたのです。

パロディは、1975年にウィリー・ブライ トリングがref. 817の軍用時計を寄贈した のと同じ部隊、フォルゴーレ空挺旅団の 少佐を務めていました。

29歳になった彼は、ジェノヴァの名門一 家の御曹司にふさわしい自信と人脈、そ して財力を備えていました。叔父のジョ ルジオ・パロディは、ジェノヴァの歴史 あるヴィットーリア広場を見下ろす銅像 にもなっている、数々の勲章を授与され た高名な軍人パイロットでした。この

ジョルジオこそが、 1921年に戦友のカル ロ・グッツィ、そしてフェデリコの祖父 であり出資者のエマヌエーレ・ヴィット リオ・パロディと共に、オートバイメー カー「モト・グッツィ」を共同設立した 人物だったのです。後にフェデリコの父 エンリコ・パロディも経営に加わり、モ ト・グッツィをイタリア最大のオートバ イメーカー、そして軍への主要サプライ ヤーへと成長させました。

1. 1958 年、誕生日に発売されたモデルであるモト・ グッツィ・ガレットに乗っている、生後8歳のフェデリ コ・パロディ。時計業界での彼の初期の成功には、一族 の名声と影響力が決定的な役割を果たしました。

2. 1975 年、エアイタリアの G.222 輸送機に乗ったパロ ディ。彼は精鋭部隊であるフォルゴーレ空挺旅団の将校 でした。 2.

2

1982 –1984

約束を果たす

フレッチェ・トリコローリからの依頼 は、アーネスト・シュナイダーに自身の キャリア最高の時計を生み出させる大き な原動力となりました。タイミングもこ れ以上ないほど完璧でした。クォーツ時 計が長年市場を支配してきましたが、 1982年当時、シュナイダーは変化の兆し が訪れていることを察知していました。 「機械式クロノグラフの伝統を守るとい うウィリー・ブライトリングとの約束を 果たさなければなりませんでした」と、 彼は 2005 年のブライトリング ジャパン のインタビューで語っています。息子の セオドアは後年、父が常に「機械式ムー ブメントには『プラスアルファの何か、 個性、そしてほんの少しの魂』が宿って いる」と信じていたことを回想してい ます。

経済の上向きによって消費者の手元には 可処分所得が増え、廉価な電子時計はそ の言葉通り「安っぽい」ものとして受け 取られ始めていました。それに対して機 械式時計は、再びステータスシンボルと して浮上しつつあり、ブライトリングの 競合各社もすでに新モデルの開発に取り 掛かっていました。見栄えを気にする消 費が流行し、価値ある機械式腕時計は他 者との差別化を図る手段と見なされたの です。スイス製クォーツ時計の平均価格 が下落に向かう一方で、機械式時計の価 格は上昇に転じようとしていました。 グラフ上では、この交差点がまさにブラ イトリングがフェデリコ・パロディの注 文を受諾した決断と一致したのです。

シュナイダーは後に、フレッチェ・トリ コローリからの依頼が舞い込んだ時点

で、すでに新型機械式クロノグラフのデ ザインをスケッチしていたと述べ、イタ リアに飛びパイロット達と協議したと 語りました。「ウィリー・ブライトリン グが築いたブライトリングの伝統を守る ためには、パイロットたちと直接会い、

彼らの具体的な要望を聞くことが絶対条 件でした。」

これは、ブランドの広告戦略家ジョル ジュ・カスパリがウィリー・ブライトリ ングについて語った内容とも響き合って

います。「ウィリーは、パイロットのた めの理想のクロノグラフを追い求めてい ました」と、 2002 年にカスパリは語っ たとされています。「彼は自らイギリス やアメリカへ赴き、多くのパイロットの 意見に耳を傾けました。ナビタイマー は、その意見を集めることで生まれたの です。」この話は、 2000 年代半ばにブ ライトリングによって紹介されました が、ウィリー・ブライトリングの伝記研 究者にとっては新しいものでした。シュ ナイダーは、ブライトリングの継承交渉

1984年11月。フレッチェ・トリコローリのパイロットが、専用モデルであるクロノグラフ「ref. 80950」を着用している最 古の写真。

15分および45分位置のライダー タブが交換可能として設計され ていたことが示されています。

また、1982年11月の完成に至るまで、 デザインのみならず名称も含めて試行 錯誤が続いていたことが、設計図から 読み取れます。

「そしてこう言いました。『パイロット 一人ひとりに 1つずつ提供できる準備が 整いました』と。」 チ ームリーダーの

ヴィート・ポスカにとって、この瞬間は 特別な重みを持っていました。「非常に 素晴らしい時計でした。民間企業がフ レッチェのロゴを使用することを初めて 許可されたのです。これは本当に大きな 出来事でした。」

パロディがもっとも強い印象を残したの は、飛行隊のリエゾン・オフィサーであ

り、後に准将となるジャンフランコ・ ダ・フォルノに対してでした。「彼は時 計の特徴、特にブレスレットを強くア ピールしたがっていた」とダ・フォルノ は回想し、ブレスレットが冬の滑りを防 げると主張したパロディの姿を今も笑い ながら思い出します。「雪の上を歩くた めに足の裏に敷けるって見せていたん だ!」。 40年経った今も、自慢のクロ ノマットが滑り止めとして使われる光景 は、愛おしいほど鮮明に思い出されるの です。

1. フェデリコ・パロディのフレッチェ・トリコローリモデル。ブライトリングによってシリアル番号なしで組み立てられま した。パロディは最初の22個に連番を付け、そのうち2個に番号0を割り当てたと述べています。

2. ヴィート・ポスカ少佐。同部隊が専用クロノマットを授与された際のフェリッチェ・トリコローリのチームリーダーで す。彼の時計は左端に写っています。

2.

3

販売網の拡充と並行して、ブライトリン グはクロノマットを中心とした大胆な提 携を相次いで打ち出しました。これに より小売店には語るべきストーリーが生 まれ、ブライトリングが再び野心的なブ ランドであることを示すこととなったの です。

1986年のバーゼル見本市で、極高度飛行 パイロットの ブルース・ブロージとエ ド・ピーレンスが、記録挑戦中のFL500 グライダー計画で使用された25万ドル相 当の宇宙服とともにブライトリングの ブースに立ちました。その無与圧グラ イダーは14,000メートル(46,000フィー ト)を超える高度まで上昇する予定で、 -55 ℃に耐えられるよう特別に潤滑処理 されたブライトリング・クロノマット が、重要な計時を担うことになったの です。

「液体酸素を使っていましたし、飛行中 に管理しなければならないバッテリー 関連の条件もいろいろありました。 ですから、あのクロノマットはミッショ ンの多くを支えていたのです」とブロー ジは語っています。最終的に二人は単独 冒険家ボブ・ハリスに高度記録を譲るこ とになりましたが、クロノマットは極限 まで追い込める時計であることを証明し ました。

FL500 によ るクロノマットの高度記録 は、 1992 年にフランス人宇宙飛行士ミ

シェル・トニーニがフランス=ソ連共同 のアンタレス計画の乗組員として宇宙ス テーション「ミール」に搭乗し、その腕 にクロノマットを着けるまで破られませ んでした。これによりクロノマットは、 1962年にスコット・カーペンターが着用 したコスモノートに続き、宇宙に到達 した 2 本目のブライトリングとなったの です。

露出が増えたことで、クロノマットはよ り多くの店舗に導入されるようになりま した。オランダではハンス・ファン・ラ ンゲラックが、1986年に手にしたカタロ グを今も保管しています。彼が購入し現 在も着用している時計の写真の横には、 クロノマットの価格として、ルーロー ブレスレット仕様が 3,695 オランダギル ダー(当時$1,900)、レザーストラップ 仕様が3,195ギルダー(当時$1,650)と書 き込まれています。

当時 34 歳だったファン・ランゲラッ クは広告代理店の経営者であり、ク ロノマットが想定するターゲットの 見本のような存在でもありました。

「デザインが本当に素晴らしかった」と 彼は語り、「まさに技術的な傑作でし た」と付け加えました。

NASA の支援を受けて高高度グライダー飛 行の世界新記録樹立を目指した「FL500」 プロジェクトのプロモーション用スライ ド。これはクロノマットにとって初のスポ ンサー契約でした。左上の写真はパイロッ トのブルース・ブロージです。

1988 年、イングランドのバークシャーで開催さ れた「オールスターズ・ロックンロール・ポロ・ デイ」にて、ザ・ポリスのスチュワート・コープ ランド(左)とザ・フーのドラマー、ケニー・ ジョーンズが、受賞したクロノマットを手にして います。

取扱ブランドに加わります。イタリアの マカルーゾやパロディといった貴族と のつながりを強化するためでもあり、 むしろそれゆえのことだったかもしれま せん。

「地下のバーでシャンパンを片手に談笑 するミハエル・シューマッハの姿や、 ガイ・リッチーの手を握りに行くために ふらりと立ち寄るマドンナを見かけるこ ともありました」と、『タトラー』誌は 伝えています。エルンスト王子が主催 した最初のブライトリングのイベント の一つは、1988年に音楽界の大物ブライ アン・モリソンが設立した「ロイヤル・ カウンティ・オブ・バークシャー・ ポロ・クラブ」で開催された「オールス ターズ・ロックンロール・ポロ・デイ」 でした。

ブライトリングのポロシャツに身を包ん だ 優勝チームには、モリソン、ジェネ シスのギタリストであるマイク・ラザ フォード、そしてザ・フーのドラマーで ある、ケニー・ジョーンズとポリスのス チュワート・コープランドが名を連ね、 クロノマットを勝ち取りました。一方、 招待客たちは、ハノーバー公爵夫妻から 贈られたイニシャル入りの招待状を持ち 帰ったのです。

地中海沿岸では、需要は流行に敏感な富 裕層の行動に連動して変化していきまし た。1989年、ある英国の大手ジュエリー

帰国後、スカッチャードと彼の同僚たち は、英国各地の商店街でその商品を販売 上流社会とのつながりが、クロノマットのイメージをヨー ロッパ全土で高めました。イギリスでは、ハノーファーの エルンスト王子とその妻であるモナコのキャロライン王妃 が、ブライトリングを推奨していました。

チェーンの経営陣がマヨルカ島で開催さ れた販売会議に出席した際、彼らは高級 ジュエリー店のショーウィンドウに並ん だクロノマットを見て驚嘆の眼差しを向 けました。その一人だった時計専門家の ジョナサン・スカッチャードは、「文字 盤は黒で、ストラップは茶色だった」と 回想します。「そして私たちは『こんな 組み合わせ、今まで誰もやったことがな い!』と言ったのです」

世界的な ムーブメント

アナ・ウィンター率いるアメリカ版 『Vogue』誌が予測した通り、クロノ マットは1990年代を代表する時計となり ました。クロノマットを身に着けること は、自らのステータスを示す最も手っ 取り早い方法だったのです。ケニーとス ティーヴのグラジ兄弟は、ニューヨー クのマディソン・アベニューに、世界初 となるブライトリング専用ブティック を開きました。間口11フィート、奥行き 18フィートという小さな空間でしたが、 そこではクロノマットがブライトリング のベストセラーモデルとして、ひときわ 誇らしく中心に据えられていました。

大きく重厚なクロノグラフは、ファッ ション界のエディトリアルに大きく取り 上げられ、あらゆる場所で紹介されまし た。1990年代初頭、『ヴァニティ・フェ ア』誌に掲載されたブライトリングの広 告の10件中9件にはクロノマットが掲載 され、ロンドンの『インターナショナ ル・リストウォッチ』誌の裏表紙を毎月 飾ることとなりました。

その10年前にスイス時計産業を沈没させ かねなかったクオーツ革命の 発祥地で ある日本では、ブライトリングのマーケ ティング キャンペーンを通じて機械式 時計の精密さを消費者に紹介(「日本で の成功」、 134 ページを参照)したこと により、クロノマットは着実に理想的な アイテムの1つとなりました。

有名シェフのゴードン・ラムゼイ が着用したことにより、 37mm クロ ノ コックピットの黄色の文字盤バー ジョンはコレクターに人気の商品と なりました。

クロノマットにインスパイ アされたモデルのライン ナップはカタログが発行さ れるたびに拡大し、それぞ れに熱心なファンを獲得し ました。

イタリアのブティックやフランスのセレ ブリティによってクロノマットが初めて 注目を集めたヨーロッパでは、売上が急 激に伸びました。スイスの『Bilanz』誌 がまとめた長者番付には、シュナイダー 家だけでなく、レザーストラップの開発 とイタリアにおける流通でクロノマット の隆盛を支えたジーノ・マカルーゾも名 を連ねていました。

さらにプロスポーツも、このムーブメン トに加わりました。1992年に「リーズ・ ユナイテッド」がイングランド フット

ボールリーグのチャンピオンシップで優 勝し、ヨーロッパカップへの出場権を獲 得した当時、チームが選んだ時計はク ロノマットでした。「 1 本はハワード・ ウィルキンソン監督に、もう 1 本はゴー ドン・ストラカン主将に贈呈しました」 と、ブライトリングのセールスマンであ るジョナサン・スキャッチャードは振り 返ります。「すると、誰もが欲しがるよ うになったのです。とてつもない反応で した。」

クロノマットにインスパイアされたモ デルのラインナップはカタログが発行 されるたびに拡大し、それぞれに熱心 なファンを獲得しました。 有名シェフ のゴードン・ラムゼイ は、 黄色の文字

盤を備えたスチール製のクロノ コック ピットを『ヘルズ・キッチン』などの番 組で着用し、一躍有名になりました。

1994年の『フレンズ』 初回 放送では、 コートニー・コックス演じる モニカ・ ゲラーが、クロノマットのスピンオフ製 品である「セクスタント」を着用しまし た。 1998 年、 7800 万人のアメリカ人が 『となりのサインフェルド』の最終回を 視聴した時にも、ジェリー・サインフェ ルドの手首にはクロノマットが巻かれて いました。

1. コートニー・コックスは、クロ ノマットから派生したモデルである 「セクスタント」を『フレンズ』出 演時に着用しました。

2. ジェリー・サインフェルドは、人 気テレビ番組『となりのサインフェ ルド』の9年間にわたる放送期間中、 クロノマットを着用し続けました。

日本での成功 クロノマットが 東京に上陸

クロノマット旋風に加わるのが一歩遅れ た市場の一つが日本でした。

1969年にセ イコーが世界初のクォーツウォッチを発 表して以降、日本では機械式クロノグラ フは支持を失っていたのです。そこで、

と歯車のかみ合いによって時を刻む」 と記されていました。

その後、凝った作りの印刷物や解説書が 出版され、それらにはクロノグラフがど のように作られ、その高い値段に見合う 価値があるのかが説明されていました。

1991

アーネスト・シュナイダーと息子のセオ ドア・シュナイダーは、世間の見方を変 えるために事業に取り組みました。

年、彼らは金原 厚を起用し、伝統的な機 械式時計への憧れを育てることを使命と する新しいブライトリング・ジャパンの チームを発足させます。

金原は、日本の文化が技術の精密さを重 んじ、伝統を大切にしていることを理解 していました。彼は「私たちは何もない ところから始めた」と述懐しました。

その言葉どおり、金原はブライトリング のハンドブックの出版から始めました。

その冒頭には、「機械式の時計は、バネ

「機械式時計の魅力と高揚感を伝え、人

間の知恵と技術の感覚を明らかにしてく れる」ものとされたのです。

アーネスト・シュナイダーは、生涯を通 してほとんど応えることのなかったイ ンタビューのリクエストに 2002 年と 05 年に応じ、重要な裏話を共有しました。

セオドア・シュナイダー、デザイナーの エディ・ショッフェル、往年の広告担当 責任者のジョルジュ・カスパリらもイン タビューに応えました。取材はスイスで 実施され、日本でのみ出版されたこのイ

ンタビューは、アーネスト・シュナイ ダーがクロノマットの開発について語っ た唯一の記録です。

記事は「クラブ・ブライトリング」と名 づけられた日本独自のカスタマーサービ スに登録した顧客に披露され、成功を収 めました。日本では 2010年までにブライ トリング関連は 5 冊以上発行され、クロ ノマットは 10 年以上前にトリノで流行し た時と同様に、東京でも人気を博しまし た。金原は、クロノマットとそのファミ リーが年間販売の約半数を常に占める人 気コレクションに成長していったと回想 しています。

その同じ 1997年、漫画家の福本伸行は、 リスクとサバイバルを冷徹に描くヒット 作『カイジ』シリーズの中でクロノマッ トを登場させました。この作品は後に、

『イカゲーム』の着想源のひとつとして も挙げられています。

シュナイダーが手がけたガジェット ウォッチの歴史を無意識に反響するかの ように、『カイジ』の中のクロノマット は、登場人物カイジのバイタルサインを サブダイヤルで追跡する、一種の未来的 スマートデバイスのように描かれていま した。完璧に演出された敵役、利根川幸 雄の手首に着けられたクロノマットは、 権威、力、そしてスタイルの象徴として の役割を果たしました。

アーティストの福本伸行氏は、その高い評価を理由にクロ ノマットを『カイジ』漫画シリーズに登場させました。

ブライトリングは、日本で機械式クロノグラフを普及させ るために多額の投資を行ったのです。

新しいクロノメトリーは猛スピードで成 長し、2001年末には完全に稼働を開始し ました。スイス人建築家のアラン・ポル タは、伝統的な時計製造工房の特大の窓 からインスピレーションを得て、内部に 光があふれる長いガラス帯を建築に取り 入れました。さらに、シュナイダー時代 のブライトリングの建築の特徴でもあっ た温かみのある金色の石、イタリアのピ エトラ・ドラータで壁を覆いました。

特徴的な外観の内側には、最先端の工場 が隠されていました。医療施設レベルの 換気システムが10分ごとに空気を入れ替 え、もっとも繊細な区域では陽圧環境が 保たれていました。それにより、ムーブ メントにとって2 つの大敵である湿気と 埃が除去される仕組みとなっているの です。

生産が拡大するにつれ、クロノメトリー がブライトリングの成功に不可欠である というセオドアの主張はすぐに正しかっ たことが証明されました。 2002 年、 スウォッチグループは、ETAムーブメン トのサードパーティブランドへの供給を 2006 年までに停止することを発表しま した。これに対しスイスの独占禁止委員 会が介入し、供給停止は 2010 年に延期 されました。しかし、延期されたとはい

え、この発表はセオドアの長期計画に緊 急性を与えました。ジラルダンにとっ て、クロノメトリーはブライトリング のスローガンを体現した場所でした。

「工場そのものがプロフェッショナルの ための計器なのです」と彼は当時の来客 に語っています。

新しい戦略を打ち出してからわずか 5 年 で、ブライトリングは単なる組立ライン 以上のものを築き上げていました。スイ スにおけるクロノメトリーの、未来のた めの拠点を創ったのです。

「工場そのものがプロ

フェッショナルのため の計器なのです。」

クロノマット エボリューションの文 字盤の製作は、真鍮の素材から完成 品になるまでに、最大 80 もの工程を 経ます。

1. クロノマット GT ref. K13050.1、1997年、18Kゴールド。
2. クロノマット リミテッドエディション、ref. A13352、2001年。
2.

クロノマット ラ・ルーナ 1989

1990年代以前のすべてのクロノマットと 同様に、「ラ・ルーナ」は、コアモデル とは見た目も機能も異なっているにもか かわらず、 81950のリファレンスを採用 していました。6時位置のサブダイヤル は、ムーンフェイズ表示窓に置き換えら れました。 80 年代末に発売されたこの

時計は、黒または白の文字盤を備えた ツートンカラーのケースを採用していま した。珍しくてありきたりではないラ・ ルーナは、クロノマットのスポーティな 特徴と、明らかにドレッシーな複雑機 構を組み合わせたことで際立っていま した。

ブライトリングは創立140周年を記念し て、ナビタイマー、プレミエ、そして このスーパー クロノマットという 3 つ の記念モデルを発表しました。このブ ランドを際立たせたのは、 12 時位置に ムーンフェイズを備えたパーペチュア ルカレンダー クロノグラフである B19 キャリバーのデビューでした。このよ うな複雑機構の組み合わせは通常、非 常に高価格帯のモデルに限られ、手巻 きムーブメントが主流です。一方、B19 は自動巻きでありながら約 96 時間の

パワーリザーブを実現しており、調整 に時間を要する永久カレンダーにおい て実用性の高い仕様となっています。 この時計はケースのデザインも際立っ ていました。標準のクロノマットと比 較すると、サイズが42mmから44mmに 拡大されたほか、セラミック製ベゼル インサートとねじ込み式プッシャーが 追加されています。最も印象的なのは スケルトン文字盤を採用したことで、 ブライトリングとしては初の試みで した。

コレクターの ツールボックス

次のページでは、 1984年の発売から 2009年までの オートマチック クロノマットを識別するために必 要な情報を提供します。この期間には、ネオ・ヴィ ンテージの ETA 7750 およびブライトリングのキャ リバーである B13 搭載モデルが含まれます。文字

盤、針、ケースバックのバリエーションが特定さ れ、製造日が割り当てられたことは初めてのことで あり、コレクターや愛好家にとって貴重なリソース となります。

MK1文字盤については、274ページ をご覧ください。

マーキング:スクリプトB、

BREITLING、PAN Frecce Tricolori。

MK1文字盤については、274ページ をご覧ください。

マーキング:スクリプトB、 BREITLING GENEVE、AOPAスタイ ルの翼。

MK2文字盤については、275ページ をご覧ください。

マーキング:翼と錨、BREITLING。

MK1の針については、282ページ をご覧ください。

メインの針:丸い先端の蓄光バト ン型。

クロノグラフのスイープ運針: 先細りの細いバトン型で、幅広の カウンターウェイト。

サブダイヤルの針:まっすぐで細 いバトン型。

MK1Aケースバックはファースト エディション限定のフレッチェ・ トリコローリ・クロノグラフ。

283ページをご覧ください。

ケース仕上げ:サンドブラスト 加工。

ケース径:39mm。

ベゼル:サテン仕上げ、直径 37mm(ライダーを除く)。

高さ:14mm、 ラグ間の長さ:44mm、 ラグ幅:20mm。

MK1ケースバックについては、 283ページをご覧ください。

ケース仕上げ:サンドブラスト 加工。

ケース径:39mm。 ベゼル:サテン仕上げ、 37mm(ライダーなし)、 高さ: 14mm、 ラグ間長さ:45mm、 ラグ幅:20mm。

A

MK2、MK2A文字盤については、 275ページをご覧ください。MK3文 字盤については、276ページをご覧 ください。

マーキング:翼と錨、BREITLING。

MK1 ケースバックについては、 283ページをご覧ください。

ケース仕上げ:初期生産品はサ ンドブラスト加工後、サテン仕 上げ。

ケース径:39mm。

ベゼル:サテン仕上げ、 37mm(ライダーなし)、 高さ:14mm、 ラグ間長さ:45mm、 ラグ幅:20mm。

ロゴの詳細、文字盤のデザイン 各種針の仕様 ケースの仕上げとサイズ

MK2、MK2A文字盤については275 ページ、 MK3文字盤については276 ページをご覧ください。

刻印:翼と錨、BREITLING。

MK2、MK2A文字盤については、 275ページをご覧ください。

MK3 文 字盤については、276ページをご覧 ください。

マーキング:翼と錨、BREITLING、 一部後期モデルには「1884」のマ ーク。

MK2、MK2A文字盤については275 ページ、MK3文字盤については276 ページをご覧ください。

マーキング:翼と錨、BREITLING で、ほとんどのモデルに「1884」 のマークがあります。

MK2、2A文字盤については、275 ページをご覧ください。MK3文字盤 については、276ページをご覧くだ さい。

マーキング:翼と錨、BREITLING、 1884。

MK1の針については、282ページ をご覧ください。

メインの針:丸い先端の蓄光バト ン型。

クロノグラフの秒針:先細りの細 いバトン型で、幅広のカウンター ウェイト。

サブダイヤルの針:まっすぐな細 いバトン型。

MK2、2Aのケースバックにつ いては、283ページをご覧くだ さい。

ケース仕上げ:サテン、後にポ リッシュ仕上げに移行。

ケース径:39mm。

ベゼル:サテン、 37mm(ライダーなし)、

高さ: 14.4mm、

ラグ間長さ: 45mm、 ラグ幅: 20mm。

MK1の針については、282ページ をご覧ください。後にMK2へと 移行。

MK2の針については、 282ページ をご覧ください。

メインの針:先細りの蓄光バト ン型。

クロノスイープ:Bアンカーカウ ンターウェイト付きテーパー 形状。

サブダイヤルの針:まっすぐで細 いバトン型。

MK2Aのケースバックについて は、283ページをご覧ください。 ケース仕上げ:サテン&ポリッ シュ仕上げ。

ケース径:39mm。 ベゼル:サテン、 37mm(ライダーなし)、 高さ: 14mm、 ラグ間長さ:45mm。 ラグ幅:20mm。

MK2A、MK3のケースバックにつ いては、283ページをご覧くだ さい。

ケース仕上げ:ポリッシュ仕上げ (初期の一部はサテン仕上げ)、 ケース径:39mm。

ベゼル:サテン仕上げ、 37mm(ライダーなし)、

側面にスクリプトBの刻印、

高さ:14.5mm、 ラグ間の長さ:45mm、 ラグ幅:20mm。

マークI文字盤(フルセット)

フレッチェ・トリコローリのためにデザインされたブルーの計器パネ ル。12時位置のインデックスの両側に夜光ドットが施され、6時位置のサ ブダイヤルの両側に「SWISS MADE」の文字が入っています。市販用の クロノマットは、最初に黒(268ページの写真を参照)、次に白とツート ンのラインアップとなり、3時位置に「B」の筆記体および「BREITLING GENEVE」ロゴが入ったAOPAスタイルのロゴが配されていました。

マークII文字盤の例

翼と錨のロゴに「 BREITLING 」ロゴがあり、 12 時位置のイン デックスの両側に夜光ドットはなく、大型のサブダイヤルによ り 9 時位置のインデックスが省略され、下部のサブダイヤルの内 側には「 SWISS MADE 」の文字が入っています。フレッチェ・ トリコローリバージョンとしても製作されました。その後、 「BREITLING」の下に「1884」の年号が追加されました。マーク IIAには、サブダイヤルリングが追加されました。

世界で最も有名な時計を紹介するウォッチプリント社の「ストーリー・ブッ ク」シリーズの一冊である『クロノマット・ストーリー』では、調査ジャー ナリストのジェラード・タブ氏が独自の調査をもとに、ブライトリング史に おける最も変革的なクロノグラフの背後にある、これまで語られてこなかっ

た歴史を明らかにします。新たに発見されたアーカイブ資料と関係者の証言 を通じて、1980年代にイタリア精鋭の曲技飛行隊「フレッチェ・トリコロー リ」のために生み出されたクロノマットが、いかにしてブライトリング復活 の引き金となり、現代につながる機械式時計づくりの状況を再構築したのか をたどります。豊富なビジュアルと緻密な記録に基づいて構成された本書は、 再生の時代を形作った人々、アイデア、そして挑戦に光を当てています。

«Chronomat Story» ist Teil der Watchprint-Reihe «Story Books», in der die weltweit bekanntesten Uhren vorgestellt werden. Der investigative Journalist Gerard Tubb nutzt hierfür eigene Recherchen, um die vollständige, bisher unbekannte Geschichte hinter Breitlings bahnbrechendstem Chronographen zu enthüllen. Durch neu entdeckte Archive und Augenzeugenberichte verfolgt Tubb, wie die Chronomat – in den 1980erJahren für Italiens Elite-Kunstflugteam Frecce Tricolori geschaffen – Breitlings Wiederaufstieg auslöste und die Landschaft der modernen mechanischen Uhrmacherei neu gestaltete. Das reich bebilderte und sorgfältig dokumentierte Buch bringt die Menschen, Ideen und Risiken ans Licht, die eine Ära der Neuerfindung definierten.

WEITERE GESCHICHTEN ENTDECKEN

1. A Moon Watch Story – The extraordinary destiny of the Omega Speedmaster (EN)

2. Navitimer Story – Die epische Saga des Breitling-Chronographen (DE)

3. Premier Story – Premier, Duograph and Datora (EN)

ISBN 978-2-940506-71-2

ISBN 978-2-940506-69-9

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